王直像。長崎県平戸市。©朝日新聞。王直〔? -1560年〕は、明代・倭寇の首領
のひとり。もと徽州商人だったが、塩商に失敗して海外密貿易に向い、1540年
に五島・福江に来住、42年に平戸に移転、各領主の許可の下ベトナム、ルソン
マラッカ,タイに達する広域商業を展開、平戸には京都・堺からも商人が
訪れた。中国沿岸で海賊活動もしたため、明当局に捕えられ、処刑された。
【19】 ウェーバーを中心に ――
「秩禄制」と「封建制」
『かつてマクス・ウェーバーは、帝国解体の2形態――西ヨーロッパに見られた封建化と、中国に見られた秩禄制化――を示そうとした〔…〕。ウェーバーによれば、新たな中央集権国家は、秩禄制から生まれるというよりは封建制から生まれる可能性が高い。ウェーバーの主張は、こうだ。
西洋の領主制も、東洋の場合と同じように、家産的な国家権力が分解する過程で発展した。〔…〕』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.45. .
ここで「秩禄」という日本語が当てられているウェーバーの用語は「プリュンデ(Pfründe)」であり、英・仏語系の「プレベンデ(Präbende, prebend)」にあたります。ウォーラーステインはドイツ語は解らないらしく、ウェーバーを英訳本から引用しているので、日本語訳でももっぱら「プレベンデ」になっています。まぎらわしいので、以下ではすべて「プリュンデ」に言い換えることとします。
独和辞典や英和辞典を引くと、「プリュンデ(プレベンデ)」とは、「教会禄」「主教[司教]座聖堂参事会員(canon)の聖職給」「聖職給を生み出す土地」とあります。また、比喩的に「役得 やくとく」という意味もあります。カトリックやアングリカン・チャーチの聖職者が受ける俸給のことですが、それを「生み出す土地」という意味が、制度の歴史的原型を語っています。つまりもともと(中世~近世)は、現金が支払われるのではなく、一定の土地(農奴付きの農地)が宛がわれたのです。
「役得」という派生義があるように、「プリュンデ」地から受ける収入は、定額が決まっていなかったり、決まっていても定額を越えて苛斂誅求することが、事実上認められていた。「プリュンデ」とは、役職に伴なう・そうした “おいしい” 収入源であったのです。現代ドイツ語でも、「脂 あぶら ぎったプリュンデ(eine fette Pfründe)」と言うと、たいした「役得」じゃないか、という非難の表現になります。
ウェーバーがこの語をインド,中国など《帝国》の官吏に対して用いているのは、この「役得もらいほうだい」の面を強調するためです。そこでは、たんに不定額の貨幣・生産物・力役を追加徴収するだけでなく、その地方の特産品や、きれいな娘を献上させるといったことまで含意されています。このようなことが、なかば合法的・正統的な官吏の権限となってしまっている状態が、「秩禄制」〔プリュンデ制〕です。
これと対比してウェーバーが「封建制」と呼んでいるのは、西欧中世の「レーエン制度」のことです。それぞれが自分の領地を持ち、なかば独立した「領主」たちが、たがいに「主従」の契りを結んで上下関係で繋がっている社会体制です。
始皇帝陵
つまり、「秩禄制」とは、中央集権的な《帝国》国家体制という前提があって、《帝国》の官僚組織から派生して領主制に似たほうへ成長していく(帝国のほうから見ると、官僚組織が崩れていく)、そういう流動的な状態です。だから、ウェーバーは、「秩禄制」よりも「秩禄化(Verpfründung)」という語を多く用いています。固定した制度というより、つねに流動する運動状態なのです。
これに対して、「封建制(Lehenswesen)」は、もともと中央集権国家などは無く、ばらばらの状態で、個々の荘園領主(Grundherr)が互いに「主従の契り」を結んで縦につながり、最終的には頂点に国王を戴くようになる。そのような体制です。国家ではなく個々の領主権が制度の基本ですから、領主は独立性が強く、領民に対しては無制限に権力を振るえます。官僚組織のようなしくみで規制を受けることはありません。その代わりに、うまく支配できなければ、領主どうしの争いに負けて没落する。つまり、自己責任です。
「秩禄制」官僚は、逆に、つねに集権国家(皇帝)からの規制を受け、その地位も権力も、官僚組織(律令体制)に基いているので、他律的で不安定です。官僚群全体としては、人民に対して絶対的権力を持っていますが、個々の官僚の地位は不安定で弱体なのです。
ウェーバーは、「秩禄制」と「封建制」とは、古い《帝国》の「家産制国家(Patrimonialstaat)」が解体して生ずる2つの政治形態だと主張しています。
「家産制」とは、支配者(皇帝)が全国と全国民を自分の「家産」〔お家の財産〕として直接支配する国家形態で、ウェーバーは、秦の始皇帝が創始した「郡県制」を、そのようなものだと考えています(この認識には無理がありますが‥)。西洋では、ブリテン島まで征服したローマ帝国が、それにあたる体制だと考えています。(ウェーバー,木全徳雄・訳『儒教と道教』,1971,創文社,p.78.)
ともかく「家産制国家」は、皇帝が、王、諸侯といった中間権力を介さないで全人民を直接支配する政治形態であり、そのために官吏(官僚制)を自分の手足として使います。
「家産制国家」が解体すると‥、西洋の場合ですと、西ローマ帝国が滅んだあと、フランスやドイツの中世の王様は、全国の土地のうちごく僅かの部分しか、自分の「家産」(王領地)として支配してはいない。大部分の土地は、諸侯・領主の荘園として領有されています。彼らは、形式上は王の「臣下」ですが、実力はほとんど横並びです。国王の収入は、自分の王領地から上がる収入に、ほぼ限られます。いわば、国王も「領主」のひとりにすぎない。そのような分権的な状態で「封建制(レーエン制)」が成立するわけです。
「家産制国家」の解体から生ずる2形態のうち、「封建制」のほうは、数世紀の発展ののちに、再び中央集権化が進んで「絶対王政国家」になります。これに対し、「秩禄制」のほうは、いちど「秩禄制化」が進んでしまうと、中央集権に戻すのは、たいへんに難しい〔徳川による集権国家の再建も、大名領国を残した幕藩体制・という中途半端な形にとどまりました〕。一見するとより多く《帝国》の面影をとどめている「秩禄制」のほうが、バラバラな「封建」状態よりも、集権国家の再建には、むしろより強固に抵抗する。――というのが、ウェーバーの説く歴史過程の逆説なのです。
ウェーバーの著作の英訳に付けた注解で、『ハンス・ガースは次のように書いている。
「プリュンデとは、国家や教会の土地の収益〔…〕その他の公的収入を得る権利で・官職保有者に認められたもののことである。ウェーバーは、このような権利を得た官職保有者を[プリュンデ保有者]と呼び、プリュンデ保有を基礎として成立した政治・社会制度を[秩禄制(Präbendismus)]と呼んでいる。」』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,p.71(158). .
これを、中国・朝鮮史のほうから説明すると、つぎのようになります。
たとえば、明代の李氏朝鮮王朝で施行された「科田法」〔1390年〕は、「文・武官僚たちの経済生活を保障するために、現職者と退職者,および発令待機者を 18科に分け、15~150結〔田地の面積単位。肥瘠等級によって広さが異なる〕の収租権を分け与えた」(李成茂・他,平木實・他訳『韓国史――政治文化の視点から』,2015,日本評論社,pp.197-198.)。「収租権」とは、農地から「租」〔租税,年貢 ねんぐ〕を取る権利ですが、農地を所有し農民を支配する権利ではない、というタテマエです。つまり、取り立てのしかたも、取り立ててよい量(割合)も、国家の「律令法」で定められたとおりにやらなければならない。「租」は、公定された収穫の 10分の1 にあたる「1結あたり 30斗」と定められ、田主〔科田の支給を受けた官吏〕は、取り立てた「租」の・さらに 15分の1 を、税として国家に納めなければなりません。つまり、国家が本来有している「収租権」の一部を、官僚階層に分け与えていることになります。
鄭夢周〔チョン・モンジュ 1338-92〕石像。埼玉県日高市、聖天院。
高麗末期の儒学者・官人。1377年に訪日し、室町幕府の九州探題・今川貞世
と交渉して、倭寇に拉致された高麗人の帰国を実現。親明派の李成桂(李朝
太祖)と組んでモンゴル勢力の排除に努めたが、王朝交代には反対し、
「科田法」に対しても中立を守った。暗刹されたが、守節を讃えられた。
「科田法」の施行と同時に、「既存の土地文書を焼却」。つまり、官僚層の私的大土地所有を廃止して、いっさいを国家の直接管理下におくことに、制度の狙いがありました。「収租権」の支給は、地主を容認するものではなく、むしろ地主的土地所有を無くすことを意図したと言えます。
しかし、農民に耕作権を直接保証するわけではないので、どれだけ実効性があったかは疑問です。「均田法」や「班田収授」のようなことは全く行なわれないのですから、「科田」以外の土地で地主的な大土地所有が拡大するのを妨げるものはありません。「科田」じたいも、「田主」が、定められた「10分の1」を超えて取り立てたり、力役などを徴収したり、事実上の地主的支配を行なうようになることは防げない。
こうして、あまり実効性が無かったためでしょう。のちには、支給地を京畿道内に限ることとしたり、支給を現職者のみとしたり(職田法 1466年)、けっきょく 1550年には「科田」は廃止されます。が、その後も「収租権」を授与する制度は残り、17世紀以後(中国の清代)には、「衙門屯田〔省庁に授与〕」「宮房田〔后妃嬪に授与〕」という形で、大土地所有を形成してゆくことになります。最終的には、これらが朝鮮総督府に接収されて・民有地掠奪の中核部分を提供し、「東洋拓殖」農場・等として、日本の植民地支配の支柱となってゆくのです。
↑上に引用された注解から見ると、ウェーバーの「プリュンデ」は、このような制度を典型的には想定していると思われます。本来は、官吏の役職に応じた「食いぶち」として、一定の土地の「収租権」を与えたものが、事実上の「役得」の無規制によって、地主的ないし領主的所有に近いものになってしまう。そのような過程が「秩禄制化(Verpfründung)」です。
【20】 ウェーバーを中心に ――
ムガール帝国の「秩禄制」
ウォーラーステインは、ここでウェーバーを引用しているのですが、中国ではなくインド(ムガール帝国時代)に関する部分からです。中国プロパーに関するウェーバーの叙述がどうなっているかは、のちほど見ることにしますが、ウォーラーステインは、“同じアジア” ということで、インドと中国の違いはあまり気にしていないのかもしれません。以下は、ウォーラーステインが引用するウェーバー『世界諸宗教の経済倫理』「Ⅱ ヒンドゥー教と仏教」の一部です:
『西洋の領主制も、東洋の場合と同じように、家産的な国家権力が分解する過程で発展した。〔…〕しかし、カロリング帝国〔西洋中世初期の「フランク王国」――ギトン註〕では、この新たな制度〔西洋の領主制、すなわち「封建(レーエン)制」――ギトン註〕は、農村の自給経済〔すなわち「荘園」経済――ギトン註〕を基礎として発展した〔この限りで、西洋の領主制は、東洋のそれより低い経済発展の水準を示している …… ――ウォーラーステイン註〕。軍の従者のやり方に倣った臣従の誓いによって、領主階級は国王と結合し、自らを自由人と国王の中間に置いた。〔…〕
デリー城砦(赤い城)のラホール門。ムガール帝国第5代皇帝シャージャハン
がデリーに遷都して築いた居城。1648年完成。©Wikimedia.
インドでは、東洋一般の例に漏れず、むしろ徴税請負から独特の領主制が発達した〔おそらくこのことは、中世初期の「未発達な」西洋に比べれば、東洋ではなお租税を強制しうるほど中央権力の力があり、経済もよく発達してい …… たことを示しているのであろう。――ウォーラーステイン註〕。また東洋諸国では、西洋よりはるかに高度に官僚制が発達していたから、前者〔東洋諸国――ギトン註〕では軍事秩禄や租税秩禄からも東洋に固有の領主制が誕生した。したがって、東洋の領主の所領〔と言っても、「荘園」のような・領地領民の完全な支配権ではない――ギトン註〕は、本質的には「秩禄」にとどまり、「封土 レーエン」とはならなかったのである。
家産制国家が解体しても、結局東洋では封建化は起こらず、秩禄制が成立したのだ。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.45-46. .
「封土 レーエン」とは、かんたんに言えば「荘園」のことです。西洋の封建 レーエン 制では、荘園領主が国王や上級領主に「臣従の誓い」〔主人は従者の肩に抜き身の剣をおき、斬首できる状態にした上で、従者の誓いを聞いて許してやる儀式〕を立てて主従関係を結ぶと、従者の荘園は、主人から賦与された「レーエン」となります。その主人はまた、自分の上級領主に同じ「誓い」を立てて、この関係が国王までズラッと縦につながります。これが「レーエン制」です。
日本の高等学校では、これと同様の制度が日本中世にもあった、と教えていますので、皆さんは、「日本史」で習ったとおりにイメージすれば、それが西洋の「封建制」モデルとほぼ一致します。じっさいの日本中世社会は、西洋の「荘園社会」とはかなり違うものだったのですが、そのことは、ここ半世紀の研究で、だんだん解ってきました。かんたんに言えば、日本は、西洋と中国の中間です。残念ながら、それはまだ教育には反映していません。しかし、ここでは気にしなくてよいでしょう。
これに対して、中国やムガール期インドの「秩禄 プリュンデ 制」というのは、かんたんに言えば、役得を伴なう官職です。西洋では、ローマ帝国のような国家体制が、いったん、ほとんど完全に解体してしまったけれども、中国では、ほとんど解体せずに《帝国》として続いたのです。インドでは、もう少し解体が進みました。日本ではさらに進みましたが、完全に解体しきらないうちに、徳川幕府が集権国家体制を再建しています。
ともかく、東洋諸国では、集権国家体制が残ったので、王朝国家を支える官僚制も、再強化と修正をくりかえしながら存続しました。西洋のように、国家が無くなってしまえば、人民の支配者になろうとする者は、自分の荘園を造って軍事力を持ち、独立してやっていくしかありません。しかし、国家が確乎として続いている東洋では、あえて独立権力を築いて反抗するよりも、すでにある国家に官僚の地位を獲得し、その地位をテコにして自分の支配権力の伸長をはかったほうが、ずっと効率的でラクです。
明代、青花花入。©みんげいおくむら。
ムガール帝国の『異民族支配は、中間層の利用に〔…〕依存しつづけた。〔…〕イスラム教徒は、バラモンに対置して書記カースト〔地方役人のカースト――ギトン註〕を行政に利用したのである。
〔…〕この過程から、はなはだ多様な〔…〕秩禄が発展した。とくに徴税請負人や軍事秩禄受領者は、〔ギトン註――中央に上納する租税や軍役負担のほかに〕自らの管掌区域の行政費を引き受け』たが、『これをやりさえすれば、もはや中央政府による統制や干渉をほとんど予想しなくてよかった〔管掌区域で独自の権力を振るうことができた――ギトン註〕。したがって、かかる徴税請負人や軍事秩禄受領者たちから、領主の一階層が成立し、彼らの借地農民は事実上全く「領民化された」のである。
〔…〕階層的に重層した一連の地代が、農民の租税義務を基盤として成立し〔…〕たということである。〔…〕土地の直接的耕作者の上に、〔…〕一団の〔ギトン註――多層的〕地代徴収者が存在した。彼らは〔…〕上に対して租税額そのものを保証した〔が、下位の地代徴収者や農民に対して、租税額を超えて取り立てるのは自由だった――ギトン註〕。』
マックス・ウェーバー,深沢宏・訳『世界諸宗教の経済倫理Ⅱ――ヒンドゥー教と仏教』,1983,日貿出版社,p.88. .
このように、インドでは、地方の世襲役人層(郡・村長,郡・村書記)が、《帝国》に官僚的義務を果たすのと引き換えに、管掌区域で権力を握ったわけですが、
中国をはじめとする東アジア諸国の場合には、これに加えて、彼らを抑えて中央集権を強めるための制度がかぶっていました。宋代以後についていえば、「科挙」という統一試験に合格した「文人」官僚を中央から派遣し、地方の世襲役人(胥吏)を監督させる制度です。「文人」地方官の任期は3年などの短期間とされ、しかも自分の出身地方には任命されないしくみによって、任地との結びつきができることを防ぐタテマエでした。それでも、地方官が「胥吏」と結託すれば、ともに「役得」を得られるわけですから、「文人」地方官の場合も「秩禄化」は避けられませんでした。
こうして東アジア諸国では、15世紀までに、「文人身分」という確固たる支配階級が成立しました。この点について、ウォーラーステインの把握は十分ではないので、次回は、ドイツの社会学者が書いた手引きを見ながら、ウェーバーの論文『儒教と道教』の該当箇所を、日本語訳で読んでみたいと思います。
中国関係がしばらく続きますが、「歴史とは現在の探究である。」現世界での、日本も含めた東アジアの重要性を考えれば、《帝国》について、ここでもう少し掘り下げておくことは無駄にはなりません。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!