1968年5月:(上)パリ「5月革命」(下)パリ和平会談。©Wikimedia.
ベトナム戦争をめぐるパリ和平会談は、まずテーブルの形をめぐって長期紛糾。
巨大な円形テーブル(↑写真)を囲んで4者の会談が開始されたが、和平協定
までなお5年を要した。「5月革命」は、パリ大学ソルボンヌ校の学生と大学
当局との紛争が、校外の若者のデモ(↑写真)と全国の労働者ゼネストに発展
したが、総選挙でのド・ゴール派圧勝で、ひとまず終息した。
【43】 「近代世界システム」の危機――
A局面(1945-1968)
こんにちにおける資本主義的世界=経済の「危機」の過程をふりかえり、ウォーラーステインの言う「1968年世界革命」における転換の意味を整理してみる。本書は、結論の部分に入っています。
「1968年世界革命」は、世界各地で、それぞれまったく意義も目的も異なる(大部分は自然発生的な)動きが同時に、あたかも間歇泉のように噴き出した点に特徴があります。しかも、大部分は一時的な噴出に終りました。まるでハシカのような一過性の‥‥。それらは、表面的には、それぞれの社会に何も残さなかったようにさえ見えます。
そこで、この現象にどんな意味があったのか――あったのか? なかったのか?――を見極めるには、数十年のスパンで前後に眼を移して視る必要があります。ウォーラーステインによれば、この年は、《コンドラチェフ循環》の「A局面」〔上昇,好況〕から「B局面」〔下降,停滞〕への転機にあたっていました。
「A局面」の開始は、第2次世界大戦が終結した 1945年に置かれます。‥
‥と言うと、大戦終結と《コンドラチェフ》の波が、偶然一致したのか?…… と思うかもしれません。そうではないのです。《コンドラチェフ循環》は、経済の自然的律動として自動的に時を刻むようなものではありません。大きな政治的事件や人為的現象が律動の転機を早めたり遅らせたりするのは、珍しいことではありません。たとえば、西洋人が新大陸を “発見” した時に、そこに大量の金銀が容易に掠奪できる状態で存在したのは歴史上の偶然です。しかし、そうしてヨーロッパにもたらされた大量の貴金属が、《コンドラチェフ》の最初の波動を――と同時に、資本主義的世界=経済そのものを――開始させたのです。
『1945年以降の世界=経済は、近代世界システムの歴史で最も規模の大きい生産構造の拡大を迎えた。その結果として、〔…〕構造的趨勢――人件費の増大,投入物の費用の増大,税の増大――は、すべて急速に進んだ。同時に〔…〕反システム運動〔共産主義,社会民主主義,ナショナリズムの各運動――ギトン註〕も、その直接的目標〔「2段階計画」の第1段階――ギトン註〕――国家〔…〕権力を獲得する――の実現において、尋常ならざる進歩を遂げていた。世界のあらゆる地域で、それら反システム運動は、2段階計画の第1段階〔国家権力の獲得――ギトン註〕を達成しているように思われた。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,p.199.
この期間、エルベ川から朝鮮半島中央までの広大な地域で、共産主義政党が支配し、西ヨーロッパ,北米,大洋州でも、社会民主主義政党がしばしば政権を担当しました。「アジアのその他の地域とアフリカの大半の地域では、民族解放運動が政権をとっていた。〔…〕ラテンアメリカにおいては、ナショナリズム/ポピュリズム運動が支配権を握っていた。」
1955年バンドン会議(アジア・アフリカ会議)に集まった「第三世界」の
各国指導者。©purumiah.com. 左から、ネルー首相(インド)、
ンクルマ大統領(ガーナ)、ナセル大統領(エジプト)、スカルノ大統領
(インドネシア)、ティトー大統領(ユーゴスラヴィア)。ンクルマと
ティトーは、資料から出席を確認できないが、顔は間違えないと思う。
しかし、ここで注目すべきことは、このような・まるで「反システム運動の勝利」のように見える状況は、資本主義「世界システム」を崩壊させるどころか、むしろ補強していた…、ないし崩壊しないように支えていたと言うことができるのです。社会主義諸国の存在も、民族解放勢力との局地紛争も、ヘゲモニー国家の首脳には、すでに織り込みずみでした(但し、ベトナム戦争を除いて)。アメリカの大統領たち(たとえばジョン・F・ケネディ)は、「共産主義との戦い」を声高に唱えつつ、内心ではこの状況を喜んでいました。
というのは、この “進歩的” な状況が、世界中の人心を高揚させ、大量消費時代にふさわしい文化環境を醸成していたからです。「1945年以後の時代は、おおきな楽観主義の時代となった。経済的将来は明るいと思われていたし、あらゆる種類の大衆運動は、〔…〕目的を達しつつあると思われた。近代世界システムが、これほど多くの人びとに、これほど良いものと見られたことはかつてなかった。その感情には、」消費を促す「浮かれた興奮」とともに、「社会を安定させる大きな効果もあった。」(pp.199-200.)
【44】 「近代世界システム」の危機――
B局面への転換(1968)
しかし、そのなかで次第に目立つようになってきたのは、「政権についたそれらの大衆運動〔共産主義,社会民主主義,およびナショナリズム〕に対する幻滅」でした。「2段階方式〔①権力の奪取[政権獲得]→②社会の変革[政策の実現]〕の第2段階〔…〕の実現は、大半の人びとが期待したよりもはるかに先のこと〔…〕に見えたからである。」国家の主人となった共産主義政党も、選挙で大統領/内閣を掌中にした社会民主主義政党も、政権獲得前に唱えたスローガンを現実にするすべを知りませんでした。すくなくとも、支持者たちが当然に期待した方向とスピードでは、できませんでした。生命の危険を乗り越えて運動に参加した人びとの眼には、彼らは手のひらを返したように見えたのです。
その一方で、「中核と周辺とのあいだの格差は、かつてないほどに広がっていた。」これは、「世界システムの経済成長」と拡張が、かつてないほど大きなものとなっていたことの裏面にほかなりません。
こうして、資本主義システムの未曽有の繫栄の裏面で、「システム」そのものに対する怒りとともに、「反システム運動」に対する幻滅と離反が広がっていったのです。
従前からあった「世界システムの作用に」たいする「怒りと、反システム運動が世界を変革する能力についての失望とが重なり合」い、「1968年の爆発」に導かれた。その矛先は、「アメリカ合州国のヘゲモニー」と「権力に就いた〔…〕反システム運動」の両方に向けられました。1968年に高揚を迎えた米・英・日のベトナム反戦運動と、チェコ事件(ソ連軍への抵抗)は、これを象徴しています。「時代が進めば社会は良くなるという〔…〕確信が、世界システムは変化しないかもしれないという恐怖に変わってきた」。
「ストーンウォールの反乱」©wikimedia. 1969年8月28日未明、ニューヨーク
のゲイバー「ストーンウォール・イン」(写真・上)に、差別法に基いて逮捕
に来た警官隊に、店内外に集っていたゲイから反抗が起こり暴動状態となる。
黄枠内:事件時に撮影された唯一の写真。翌午後には、差別撤廃を訴える
LGBT多数が現場街路に集まり、自動車が通れなくなる状態になった。
これを機に、各国諸都市に LGBT権利獲得運動が広がった。
(写真・下)ニューヨーク・タイムズスクエアを行進する「ゲイ解放戦線」
のメンバー。1970年。©New York Public Library / Diana Davis.
重要なことは、このようなクラッシュは、資本主義「世界システム」体制の強化には必ずしも結びつかないということです。資本主義「世界システム」体制は、普遍主義を標榜する中道自由主義が左右両翼(急進派と保守派)を抑えて漸進的な市民権の実現をはかる「ジオカルチュア」〔進歩と主権在民の思想〕に支えられてきました。それは、現実を見れば欺瞞的ではあっても、「中核」の人びとは、その成果と安定感に満足していました。
ところがいまや、「ジオカルチュア」を当然とする確信が維持できなくなったのです。「1968年の文化的衝撃は、自由主義的中道が自動的に支配的立場を占めるようなしくみを解体した。」中道から離れた人びとは、右と左に分かれました。
1968年以後の日本で、見た目に分かりやすいのは、「右」へのナダレ現象でしょう。「左」への動きは、むしろ「中道」にとどまる、ないし「中道」として純化する方向(「護憲」など)を見せたからです。「右」へ動いた多数者が、「進歩」も「市民」もかなぐり捨てた時、彼らによる「社会化」を受けた次の世代にとって、政治とは、どんなウソでもついてよい無礼講のお祭り騒ぎ‥以上のものではなくなります。それが現在です。たしかに日本では、ヨーロッパを席巻しているような “真摯で本気の政治的極右” は成長しません〔理由はさまざまでしょう。反動しようにも、戻るべき “伝統” が日本の右翼には無い、等〕。東アジアでは、「1968年世界革命」のカオス――「システム」崩壊の序曲――は、ウォーラーステインが述べる「中核」地域の現実とは、やや異なる形で現れているのです。
1968年以後の「世界システムは、すでに[システム間移行]の時代に入っており、右派と左派の双方ともが、〔…〕新しいシステム」(一つかも複数かもしれない)「において、自分たちの主張する価値による支配を確保するべく、このカオス的状況〔…〕を利用しようとしている。」(pp.200-203.)
【45】 「近代世界システム」の危機――
「ポスト1968年」の左・右両派
「1968年」以後、「左派」においては、ⓐ「広汎な反人種主義運動〔…〕が、世界の政治の舞台において中心的現象となった」。「人種主義」は、ヨーロッパ人による “新大陸” とアフリカの征服以来、「近代世界システム」の「全存在に浸透した特徴のひとつであった。」それに対抗する「反人種主義運動」もまた、長い期間にわたって白人「支配層に属する自由主義者によって指導されて」きた。ところが今や、「被抑圧者自身による運動としての反人種主義運動」が起こってきた。これは、「1968年」以後の新しい現象なのです。
この動きは、(α) 世界各地での戦闘的な〔人種的〕「マイノリティ」のアイデンティティ運動、および、(β) サイードらのポスト・コロニアリズム(オリエンタリズム)批判に代表される・人種主義に囚われた「知の世界を」解体し「再構築しようとする努力」、という2つの形態に大別されます。
これと併行して、「1968年」以後の「左派」では、ⓑ「セクシュアリティ」が中心的論題となった。「1968年の衝撃は、〔…〕性的慣習の変容を一気に最前線に押し出し、〔…〕ジェンダーに関する政策〔…〕にせよ、性的選好に関する政策〔…〕にせよ、〔…〕最終的にはジェンダーを横断するアイデンティティ」にせよ、それらの問題を「世界の社会的場面で〔…〕噴出させ、法、慣習的実践、宗教、そして知的言説に莫大な帰結をもたらした。」
「中ピ連(中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合)」1972年ころ。
©ameblo.jp/showa-retoro.新左翼の扮装とピンクのヘルメットが注目を集めた
他方、「1968年」以後における「中道~右派」の展開は、さしあたっては、これら ⓐ反人種主義 ⓑセクシュアリティ という「左派」の動向に対応したものとなりました。
元来、「中道自由主義」〔自民党のかつての「保守本流」:吉田茂,池田勇人,田中角栄ら?〕は、資本主義的「世界システム」の根幹を支えるイデオロギーであって、「資本主義的世界=経済の基本的な政治的・経済的制度の」維持に関しては一歩も譲らない。その解体をめざす傾向が「左派」に現れれば、極力これに敵対してきました。ところが、「1968年」以後の「左派」に現れた ⓐ反人種主義 ⓑセクシュアリティ という2つの新しい傾向は、従来の根幹的対立軸から少しずれていたのです。ⓐ,ⓑ は、根幹的な「国家権力と経済構造の問題」に関しては、資本主義システムのドグマを直接攻撃するものではない、とも見えたのです。
そこで、「中道~右派」のあいだでは、ⓐ,ⓑ への対応が分かれました。「68年」およびそれ以降の活動家たちが主張する・これらの「社会的文化的転換」に関しては、中道「体制派」はむしろ許容‥ないし「背面で支持」しました〔ヨーロッパでの現象?〕。彼らは、「1968年」がらみの騒乱を鎮静化させ「秩序を回復して、現れつつある利潤の圧迫という」システムの直面する現実を解決するほうに集中しようとしたのです。
これに対して、右寄りの一部は、ⓐ,ⓑ という「左派」の新しい動向にもあくまで反対し、「激烈な文化的反革命勢力」を形成しました。彼らが依拠したのは、伝統的家族倫理,民族排外主義,人種主義,といったものです。〔このころ日本では、街宣車で大音声を上げる「新右翼」が活動しました。彼らはたしかに、中曽根康弘ら「体制派」右翼を攻撃し、反逆していたのです〕
ところが、「左・右」の・こうした状況の中で現れたのが、コンドラチェフ循環の「B局面」〔下降,停滞〕への転換――という世界的な経済の現実〔オイル・ショック,通貨危機,‥バブル崩壊〕です。そこで、2方向に分かれていた「中道~右派」は、いまや再び、「新自由主義」「グローバリゼーション」の旗のもとに、しっかりと結束したのでした。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!