西域・ヤルカンドのバザールで踊る人びと。新疆ウイグル自治区。
【16】 資本主義的「世界=経済」――
「市場」と「独占」
『資本主義的な世界=経済は、多くの制度の集合体であり、それらの結合のあり方が、そのシステムとしての過程を決定する。〔…〕それら諸制度〔…〕は、たがいに絡み合った存在である。〔…〕基本となる制度は、市場〔複数形で言うべきだが――著者註〕,市場で競争する企業,国家間システムをなす複数の国家,〔訳者註――家計を構成する〕世帯(household),階級,身分集団〔ウェーバーの用語――著者註〕といったものである。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,p.71. .
そこで以下、「近代世界システム」の諸「制度」について、順に説明してゆくことになります。まずは、「市場 しじょう」についてです。
「いちば」は、東京なら豊洲にあって、目に見えるものですが、経済学で言う「市場 しじょう」は、目に見えないものです。しかも、その実体は、意外にもアイマイです。「通常、市場は、システムとしての資本主義の本質的な特徴だと考えられている。〔…〕個人ないしは企業が財を売買する具体的な個別の場を」越えた架空の場所「に存在する仮想的制度で」ある。「この仮想的な市場の規模や範囲は、所与の時点に」売手/買手のもつ「選択肢によって決定される。」
「資本主義的な世界=経済においては、この仮想的な市場は」原則として「世界=経済全体として存在する。」
つまり、理念的には「世界」全体が売手/買手にとっての選択肢であり、資本家は「世界」のどこに行って売ることもできるし、どこの売り手から買うこともできる。労働者は、世界のどこに行って雇い主を探してもよい。理念的には、「世界」全体が労働市場であり製品市場・原料市場です。しかし、じっさいには現実的な「市場」の範囲は限られています。多くの場合には、保護関税,移民制限,交通障壁などの政治的/非政治的障碍が、「市場」の範囲を狭めています。「だが、時代を経るにしたがって、〔…〕仮想的な市場の自由な作用を妨げる〔…〕障壁」は取り払われ、また取り払われないまでも理論的には無視できるほどになり、「あらゆる生産要素」を包摂する「単一の仮想的な世界市場の存在を語りうるようになってきた。この完全な仮想的市場は、あらゆる生産者と購買者を引きつける磁石」のようなのものである。「その磁力は、あらゆる主体〔…〕の意思決定に〔…〕作用する政治的要因となる。」
しかし、「世界市場」は現実に「完全かつ自由な」市場として機能することはない。つねに、何らかの干渉〔国家の保護政策など〕を受けている。↓このあと述べるように、市場が自由でないことこそが、資本家の利益にとっても、資本主義が存続するためにも必須の条件なのです。にもかかわらず「世界市場」は、イデオロギーないし神話として、「常に完全に自由な市場」として存在しているのであり、そのことが、あらゆる経済主体の行動に影響を及ぼしているのです。
つまり、「完全に自由な市場」とは虚構であり、理念ないし神話にすぎない。もし仮りに、そんなものが日常の現実として存在したら、「そこでは無限の資本蓄積〔つまり資本主義――ギトン註〕が不可能になる」。なぜなら、完全な競争が貫徹する市場では、完全な競り合いの結果として、どの企業(資本家)の利潤もゼロになるからです。なるほど、「資本主義は市場なしには機能しえない」。しかし、現実の市場は、完全に自由ではないから、さまざまな部分的な障碍があるからこそ、資本主義の培養基となりうるのです。「完全に自由な市場」では、資本主義は存立しえない。(pp.71-73.)
『経済学の教科書が〔…〕定義するような、――つまり、諸要素〔資本,労働力,商品――ギトン註〕はいっさいの規制なく流通し、非常に多くの買い手と〔…〕売り手がおり、完全情報〔すべての売手・買手があらゆる生産にかかる費用の正確な状態を知っている――著者註〕が成立しているような――あらゆる生産要素が完全に自由に流通する〔…〕そのような完璧な市場においては、買い手は売り手に対して、つねに』売り手の『利潤を絶対最小限に〔限りなくゼロに近い無限小に――ギトン註〕下げるように交渉することができる。そのような低水準の利潤では、資本主義というゲームは、生産者にとって意味のないものとなってしま〔…〕う』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,p.73. .
そういうわけで、「売り手は、選びうる際にはつねに独占を選好する。」独占市場では、他に売り手がいないことによって、需要がある限りいくらでも価格を吊り上げて利潤を獲得することができるからです。
もっとも、市場に売り手が一人だけ――という完全な独占市場は稀れです。現実に多いのは「寡占」です。少数の売手が市場を “独占” している「寡占市場」の場合、売手が市場をどれだけ自由に支配できるかは、売手のあいだに “共謀” 関係があるかどうか、その程度によります。“共謀” が強いほど「独占市場」に近づきます。じっさいの「寡占市場」では、売手は公然と協定(カルテル)を結んで価格を設定したり、優占領域を取決めたり(市場の切り分け)するほか、政府の独占禁止法制がある場合には、「闇カルテル」、あるいは互いの戦略予想によって、事実上カルテルがあるのと同様の効果を収めます。
現在の日本の場合、ひじょうに厳しい独占禁止法制があるのは事実ですが、大企業間では、「社外取締役」の兼任が、たいへんに多い。カルテルは禁止されていても、他社の意向を知るために必要な情報は、事実上妨げなく流通していると見てよいでしょう。もっとも、そうやって、事実上の「独占」が成立してしまい、「競争」の必要が無くなってしまうと、技術革新(イノベーション)の行なわれる余地も無くなって、国際競争力が弱化してしまう。そのことは、大企業の経営者もよく理解しているので、あるていどの「競争」は起きるようにして、つまり “切磋琢磨” して、ほどほどに競争しつつ、ほどほどに「独占」支配しているのが実情です。
企業が、『独占に準ずるような状況を創り出す〔…〕ために〔…〕必要なものは、〔…〕国家機構からの支援である。〔…〕もっとも基礎的な方法の一つは、特許のシステムである。〔…〕とはいえ、特許で保護された生産は、せいぜい独占に準ずる状況〔…〕以上にはならない〔…〕特許の保護から外れる類似の産品が現れる可能性があるからである。〔…〕
しかしながら、望ましい高利潤率を実現するうえでは――〔…〕じっさいには、さまざまな企業が価格競争を最小化しようと〔…〕共謀している〔…〕――寡占で十分なのである。〔…〕
輸出入にかかる国家の規制(いわゆる保護主義的措置)もまたその〔ギトン註――国家による市場の寡占化の〕手段となる。国家による補助金や税免除もしかり〔…〕。弱体な国家による保護主義〔…〕を阻止するために強大な国家が行使する力〔「自由貿易」交渉などの外交圧力――ギトン註〕もまたそうである。さらに、特定の産品に対して超過的な価格の支払いも辞さない大規模な購買者としての国家の役割〔米の逆ザヤ買取り、塩,煙草などの専売制――ギトン註〕〔…〕。そして、生産者に何らかの負担を負わせるような規制をすることも、それが大規模な生産者には吸収しやすく、小規模な生産者にとっては足かせとなって、〔…〕小規模な生産者を市場から排除する圧力となるため、寡占の度合いを高める〔つまり、国家介入の効果として市場を寡占化する――ギトン註〕ことになる。
国家による〔…〕市場への干渉の様相には、きわめて広い幅があり、結果として国家は、価格と利潤とを決定する基本的な要因を構成する〔…〕。そのような〔ギトン註――国家の〕干渉がなければ、システムとしての資本主義は成長することができず、したがって存続することもできない。
西域・クチャのバザール。ナン(烤馕)を売っている。
新疆ウイグル自治区。
しかしながらまた、資本主義的な世界=経済の中には、ふたつの反独占的メカニズムが組み込まれてもいる。』寡占化の犠牲となることを恐れる・市場の『敗者は、〔…〕勝者の〔…〕独占の優位を取り除こうと、政治的に争おうとする。その〔…〕方法には、① 自由貿易〔や自由市場――ギトン註〕の教義に訴え、』自由主義を信奉する『政治的指導者に〔…〕支持を提供するというやり方と、② 他国に働きかけて、世界市場の独占に対する対抗を促し、〔…〕競合する諸生産者を支えさせるというやり方〔たとえば、非アラブの石油産出国に働きかけて産油開発を援助する――ギトン註〕とがあ〔…〕る。〔…〕したがって、時間の経過とともに、独占に準ずる状況は〔…〕必ず掘り崩されてしまう〔…〕。
とはいっても、『独占に準ずる状況は、その状況を支配する者〔ギトン註――寡占企業〕がかなりの資本蓄積を〔…〕するに十分な程度(たとえば 30年程度)には持続する。そして独占に準ずる状況が消滅すれば、〔…〕資本の蓄積者〔ギトン註――寡占企業〕は、単純にその資本を新たな主導産品(leading product)、ないしは新たな主導産業に、まるごと移転させるだけである。結果として生ずるのが、主導産品(leading product)の周期である。〔…〕
こうしてゲームは続く。全盛を過ぎたかつての主導産業は、しだいに「競争的」に、つまり収益性が低くなる。このパターンは、われわれの眼の前でつねに起こっていることである。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,2006,藤原書店,pp.74-76.
たとえば、かつて日本のコンピュータ産業は、パソコンなど多くの「リーディング・プロダクト」を握って、世界市場で独占的地位を占めていました。その繁栄は、単なる “技術の力” によるものではなく、「特許」をはじめとするさまざまな「国家」からの支援によって成り立っていたのは明らかなことです。いまや、NEC や東芝は、韓国サムソンをはじめとする後発の外国企業にその地位を奪われ、たとえば、日本国内にある東芝の工場も、ビルの半分はサムソン系の企業が同居しているほどです。その周期を考えると、たしかにウォーラーステインの言うように、全盛期は「30年ほど」であったかもしれません。
【17】 資本主義的「世界=経済」――
「企業」の集中と巨大化
この節では、資本主義「企業」にかんする3つの歴史的趨勢が語られます。㋑不断の資本集中,㋺企業規模の拡大,㋩企業の政治的影響力の増大,の3つです。
「企業は、市場における主要な主体である。企業は、〔…〕仮想的な市場で活動している」。そして、「同じ仮想的な市場で活動している他の企業と競争関係にある。」のみならず、企業は、自らに原料を供給する企業,自らの産出物を購入する企業との間でも、産出・投入物の価格・品質をめぐって常に摩擦を引き起こしている。「資本家間の激しい対抗関係は、ことの本質である。〔…〕もっとも強力で、もっとも即応性の高い者だけが生き残る。破産や〔…〕吸収は、〔…〕日常茶飯事である。」こうして競合する資本主義企業の・少なからぬ部分が「敗北」し「没落」するからこそ、生き残る企業は資本蓄積に成功する。「諸企業が繰り返す」敗北は、「無限の資本蓄積の絶対必要条件なのである。㋑不断の資本集中の過程の動因は、ここにある。」(pp.76-77.)
西域・クチャのバザール。食器を売っている。新疆ウイグル自治区。
『㋺企業の規模の拡大は、いわゆる「規模の経済」のメカニズムを通じて費用を縮減する。しかし、企業規模の拡大は、企業内部の管理・調整の費用を増大させ、経営管理を非効率化するリスクが増大する。この〔…〕帰結として、諸企業の規模は拡大しては縮小するという過程を繰り返してきた〔…〕。しかし、〔…〕世界規模の〔訳者註――世紀単位の〕長期的な趨勢として見れば、〔…〕2歩進むごとに1歩だけ戻るといった〔…〕うしろ向きに歯止めがかかった〔…〕かたちで、企業の規模は持続的に拡大してきている。〔…〕
企業の規模が大きくなれば、それだけその ㋩政治的影響力は増す。しかし同時に、政治的攻撃――競合する他の企業から,消費者から,そして従業員から――にさらされやすくもなる。しかしここでも、長い眼で見れば後ろ向きに歯止めがかかっており、』歴史的趨勢としては、『企業の規模の拡大』が『企業の政治的な影響力の増大をもたらしてきた。』
ウォーラーステイン,山下範久・訳『入門・世界システム分析』,pp.77-78. .
以上、ウォーラーステインの説く・資本主義の歴史的趨勢においては、市場の状態として見れば、「市場の集中」(寡占化)には「リーディング・プロダクト」による周期があり、一方的に寡占化が進むわけでも、その逆でもない〔この点が、レーニンや多くのマルクス主義者とは見解を異にしている〕。しかし他方で、世界全体における「企業」の規模にかんして見ると、弱者の消滅と強者の拡大による「不断の資本集中」が進行しており、全世界的な「企業規模増大」の傾向は、決して後には戻らない強力な趨勢として存在する。そしてそれにともなって、企業の諸国家に対する「政治的影響力」もまた、不断の趨勢として増大しつつある、というのです。
そうして、ここでもう一つ言えば、…あくまでもこれは、ウォーラーステインの議論から受けた印象的な帰結ですが、〈企業の利権は、資本主義国家の属性と深いかかわりがあるのではないか?〉ということです。〈利権は、ある意味で、資本主義国家の論理的帰結である。〉
さいきん日本では、「利権」が諸悪の根源であるとか、「利権」さえ無くせば世の中は良くなるみたいなことを本気で(しかも、経済的根拠もなく)言う人が増えています。しかし、資本主義をやめるでもなく、国家のしくみを変えるでもなく、どちらにも手を触れないですべての「利権」をなくすことが、はたして可能なのか ?! 私は疑問に思います。すくなくとも、「利権」のレッテルを貼っただけでイッチョ上がりにしないでほしい。どんな「利権」のどんな点が、どう問題なのか? どう変えたらよいのかを、考えてもらいたいと思います。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!