中国・遼寧省、紅葉する遼河河口。
【3】 「日本の軍部」――「下から」の侵略準備
日本の政府,軍部,新聞社は、中国の領土にある種々の利権を「満蒙〔満洲・モンゴル〕特殊権益」と称して、これらは日本の生存に不可欠な「皇国の生命線」だと喧伝しました。その内容は、①日露戦争でロシアから獲得した南満州鉄道経営権、②中国に認めさせた安奉線の経営権、③満鉄(南満州鉄道)が有する大連港・鉱山採掘権・製鉄経営権と満鉄付属地の行政権、鉄道守備兵駐屯権、④関東州の租借権・行政権。等々。これらは日本の領土ではないのに、日本人は事実上の領土と見なしていました。
満洲に駐屯する日本「関東軍」の兵力は1万人程度でしたが、必要な時はいつでも短時日に「朝鮮と本土から大軍を派遣することができる態勢にあった。ヨーロッパとアメリカの先進資本主義諸国は、軍隊を東アジアに送りこむ点で到底日本に及ばなかった。ソ連邦の極東兵力は、とるに足りなかった。」
「しかし、日本は計算不能な巨大な敵対勢力を」みずから作り出していました。「1920年代中期から始まった中国の国民革命運動は、半植民地状態から脱却し、統一した独立の」中国を創り出そうとしていましたが、日本はこれを「軍事力で阻止できると判断し」、軍事干渉のため派兵して蒋介石の国民革命軍と衝突し、また住民を刹戮したのです〔1928年:山東出兵,済南事件〕。その結果は、国民革命を阻止するどころか、広範な抗日運動を巻き起こすことになりました。「民族独立の国民的熱情が満洲にも波及し、日本帝国主義の根拠地である旅順・大連の返還要求が一般化した。」
中国官民の「この動向に、在満の日本人、とりわけ軍は大きな衝撃を」受けましたが、それを「反日・侮日の行動と決めつけ」ることしかできず、侵略的態度を改める、あるいは中国官民との融和をはかる、といった方策には思い及ばなかったのです。対策として考えられたのは、「軍閥の頭目たちに」対し、「日本軍の力を背景」に篭絡するか誅刹するか。そのいずれかでした。(pp.177-178.)
『1929年に世界恐慌が始まった。〔…〕1930年になると、農村が恐慌に襲われた。農産物価格の暴落が、農家経済を直撃した。農家の子女の身売りが目立ってきた。〔…〕そんななかで軍部は、総力をあげて直接に国民を動かそうとした。〔…〕
正確な日取りは記憶にないが、私は石川県小松町の公会堂の前を通ると、時局講演会の立て看板を見た。入ってみると満員であった。〔…〕講師は制服の陸軍少佐である。
旧・偕行社、青森県弘前市。「偕行社」は、陸軍将校・士官候補生・元将校の
親睦組織で、各地の師団駐屯地に会館・庭園等を設けていた。現在も陸上自衛隊
の親睦組織として存続。各地の旧建物・敷地は、文化財として開放されている。
少佐は、まず農村の惨状を嘆いた。現状から脱却するには、思いきった改革が必要だと説いた。左翼の唱える農業改革は、もっともなことである。しかし、国土が狭小で人口が過剰な日本で農地の平等分配を行なっても、農家一戸当たりの耕地は 5反歩〔約0.5ha――ギトン註〕にすぎない。これでは〔…〕貧困状態に変わりはない。むなしく餓タヒを待つばかりである。〔…〕眼を転じて満蒙を見よ。そこには無限の沃野が広がっている。それを頂戴しようではないか。そうすれば諸君は一躍して十町歩〔約10ha――ギトン註〕の地主になる〔…〕。他人様のふところに手を突っ込むのは、褒めたことではなかろう。しかし、背に腹は代えられないではないか。今や一大決心して天皇を戴 いただ き、政治を一新して、事に当たらなければならない。
それは激越きわまる煽動であった。われわれの日常生活を規定する道義の精神などを一擲せよ、侵略もまた正義であると言うのであった。聴衆は肝をつぶしたにちがいない。しかし軍部が先頭に立っている以上、〔…〕武器を取ってよいのだと理解したであろう。人びとは軍部を救世主と感じたであろう。人びとの気持が動き出したことは、村の生活のなかでもじわじわと感じられてきた。』
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.178-180. .
当時、「左翼」はどうしていたかというと、農村が恐慌に襲われるなかで、小作争議は、従来の「小作料減免の経済闘争」から、「土地私有そのものに対する反対の闘争が生じてきた。」耕作者が自らの耕作地を所有するという “中間段階” を跳び越えて、一気に「私有の否定」に向かったのは、「マルクス・レーニン主義」を鵜呑みにしたためで、それが大衆を離れさせたと思われます。しかしそれ以上に、1928,29年の度重なる弾圧で共産党は壊滅状態。党を再建しても、トップは特高警察のスパイで占められていました。「天皇制の打倒」を第一目標に掲げるコミンテルンの「32年テーゼ」が、運動の非現実性を倍加し、治安維持法(タヒ刑)適用を必然化していました。(p.179.)
陸軍将校らの煽動は、農民の窮状を救う、という最初の部分では「左翼」に同調しつつ、それを「満蒙」侵略のほうへ持って行ってしまうのです。共産党・労農党の主張に恐怖を覚えた庶民も、制服軍人の堂々たる煽動には、心を許して靡 なび いたのでした。
『つまり国内改革〔…〕は客観的条件がないから、対外的侵略で急場を免れようと、露骨に宣伝するわけです。自分が困ったときは、他人から物を奪ってもよい。それが正義だ。それを〔…〕軍人が堂々と煽動するのです。軍部は、最も卑しい欲情を煽り立て、国民精神の堕落に突進する〔…〕中国大陸における日本兵の無慚な反人道的行為は、理の当然なことになります。ところが、戦後になってそのことを友人の歴史学者に話しても、あまり取り合う人がいない。〔…〕
満洲事変は、軍部の陰謀として突然起こったのではなく、ちゃんと世論を形成するという努力を1年間続けて、だいたい世論の形成に成功したという時に、行動を起こしたことになります。〔…〕軍部は、国民精神を堕落させることによってしか、戦争を始めることができなかった。このことを、私たちはよく記憶しておくべきだと思います。』
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.49-50,52. .
『調べてみると、〔ギトン註――この「時局講演会」は、〕1930年の暮からはじまった「国民的」運動の一部分で〔…〕全国の師団は、在郷軍人会を動かして「国防思想普及運動」を開始したのであった。〔…〕この大規模な運動は、新聞雑誌が報道しなかった〔おそらく報道管制が敷かれていた――ギトン註〕。〔…〕陸軍の〔…〕「偕行社記事」によると、各地の演説会は 1866箇所で行なわれ、動員された聴衆は 165万人に達していた。』
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.180-181. .
各地での現役将校による講演の種本となったのは、陸軍省発行『国防思想参考資料』で、第1号は 1931年7月に発行されています。陸軍省・局長,参謀本部・部長らによる講話要旨を収録したもの。さらに『偕行社記事』付録として発行された参謀本部第二部長建川少将の『満蒙問題と吾人の覚悟』は、「満蒙確保」のために「今や一戦を辞せざるの決意と、統一せる国論の支持とを必要とせる」ことを「戦友各位」に訴えています。これは、同年6月19日に陸軍省軍事課長永田鉄山らの極秘会議で決定された「満洲問題解決方策ノ大綱」に基くものです。
同年3月、陸軍参謀本部の「昭和6年度情勢判断」は、「満洲は処理せざるべからず、而して政府に於て軍の意見に従はざる場合は断然たる処置に出るの覚悟を要す」と述べていましたが、この3月のクーデター計画は未遂に終りました〔三月事件〕。が、陸軍「佐官」級を中心とするファシスト将校群は、クーデターで目的を達することができなければ、今度は大衆を味方に付けて、政府を侵略に方向転換させようと、大規模講演の挙に出たものと考えられます。こうして獲得した日本内地「大衆の支持」を背景に、関東軍・石原莞爾中佐らが「柳条湖事件」の謀略を引き起こしたのは、この年9月18日。満洲軍閥張学良が不戦・退却戦術に出たのを幸い、またたくまに満洲全土を占領したのです〔満州事変〕。「満洲事変は、軍自体の予想を超える国民的熱狂をもって迎えられた。」(pp.181-183.)
清水観音堂。岩手県花巻市・轟木21地割。
【4】 「満洲事変」・ファシズム煽動と宮澤賢治〔※〕
前註※「宮澤賢治」: 石堂清倫と宮澤賢治の繋がりは、1924年頃、この年賢治が自費出版した詩集『春と修羅』を、石堂が東京の古書店で見つけて読んでいたことによる。賢治が依頼した出版元「関根書店」は当時知る人ぞ知る詐欺師で、ほとんど全部数を古本屋にタダ同然で売り払ってしまったので、東京神田の古書店には一時『春と修羅』が 5銭などで出回っていた。ほかにも中原中也らが、そこで入手している。その後、1927-28年、石堂が編集局員だった事実上の日本共産党・合法機関紙『無産者新聞』に、岩手県花巻の支局通信員から、地元の熱心な協力者として賢治の動向がしばしば寄せられていた。石堂は、「こうした人は大切にしてほしい」と通信員に書き送っている。詳細な考察と資料は、栗原敦「20世紀の意味における宮沢賢治の意味の一側面」,pp.7-8,10-12;『新校本宮澤賢治全集』所収の「年譜」該当箇所にある。
石堂清倫を驚かせた陸軍の戦争煽動は、当時各地で、少なからぬ心ある人びとの胸に突き刺さっていたものと思われます。しかし、事実上の報道管制もあって、誰もそれを表立って語ることはできなかった。それでも、民衆心理は確実に、将校らが望んだほうへと動いていたのです。その事情は、岩手県の宮澤賢治によっても書き留められています。次の詩稿は、1926年以後に改稿を重ねられていたもので、正確な年代を証明する資料はありませんが、おそらくはこの 1931年の賢治の思いを反映していると思われます。(前半部分を省略)
『――ひでりや寒さやつぎつぎ襲ふ
自然の半面とたゝかふほかに
この人たちはいままで幾百年
自分と闘ふことを教はり
克明にそれをやってきた
いまその第二をしばらくすてゝ
形一 かたちいっ そう瞭 あき らかに
烈しい威嚇や復讐をする
新たな敵に進めといふ――
あゝわたくしはこの樹を棄てて壇をのぼり 〔…〕
うつろな拝殿のうすくらがり
古くからの幡や絵馬の間に
声あげて声あげて慟哭したい』
宮沢賢治『口語詩稿』#253〔みんな食事もすんだらしく〕.
この詩稿の舞台は、花巻の郊外にある「清水観音堂」です。広大な水田地帯のなかに島のように観音堂の建物と杉の叢林があります〔↑写真〕。この稿には「絵馬」とありますが、ほかの草稿では「算額」となっています。
清水観音堂。明治25年奉納の「算額」。岩手県花巻市・轟木21地割。
清水観音堂を訪れてみると、たしかに、江戸時代以来の古い絵馬や算額がいくつも掲げられています。農民や商工の人びとは、古くから克己勤勉に努め、欲を抑えて働けば暮らしは良くなると信じて耐え忍んできました。ところが、その結果どん底に突き落とされた今になって、方向転換を強いられる。抑えていた欲望を剝き出しにして「新たな敵」に向かい、彼らの沃野を奪い取れと云うのです。「敵」に「烈しい威嚇や復讐」を加える軍とともに戦えと言われる。‥‥
しかし、賢治のような繊細な感性をもつ人は稀で、民衆の多くは「声あげて慟哭」するどころか、むしろ将校らの煽動を歓迎していました。そうして、ようやく “自分たちの時代” が来たと思い、賢治のような “金持ちの一族” に対して、無遠慮な侮蔑を向けるようになったのです。
次の↓改稿前の草稿では、そうして受けた賢治の体験が、赤裸々に描かれています。
『学校前の荒物店で
パンなぞ買へると考へたのは
第一ひどい間違ひだった 〔…〕
パンはありませんかと云ふと
冬はたしかに売ったのに
主人がまるで忘れたやうな
ひどくけげんな顔をして
はあ? パンすかときいてゐた
一つの椅子に腰かけて
朝から酒をのんでゐた
眉の蕪雑なぢいさんが
ぢろっとおれをふり向いた
それから大へん親切さうに
パンだらそこにあったっけがと
右手の棚を何かさがすといふ風にして
それから大へんとぼけた顔で
ははあ食はれなぃ石バンだと
さう云ひながらおれを見た
主人もすこしもくつろがず
おれにもわらふ余裕がなかった
あのぢいさんにあすこまで
強い皮肉を云はせたものを
そのまっくらな巨きなものを
おれはどうにも動かせない
結局おれではだめなのかなあ 〔…〕
あゝ杉を出て社殿をのぼり
絵馬や格子に囲まれた
うすくらがりの板の上に
からだを投げておれは泣きたい
けれどもおれはそれをしてはならない
無畏 無畏
断じて進め』
宮沢賢治『口語詩稿』#253初期形「境内」.
宮澤賢治が、石灰岩末のセールスのために訪れた東京で病いに倒れ、やっとの思いで帰郷した花巻の実家でも病床に伏したまま 37年の短い生涯を終えたことは、広く知られた逸話です。しかし、その倒れた日が 1931年9月20日、つまり「満洲事変」開始の翌々日であることに注意を向ける人は少ない。皆無かもしれません。
「柳条湖事件」は 18日の夜半であり、報道されたのは翌日夜以降です。満州での日本軍展開の報や、軍が敵・中国人に加えているであろう「烈しい威嚇や復讐」に喝采する報道、また街の声が、賢治の健康に影響しなかったとは、私には思えないのです。
清水観音堂。本尊。岩手県花巻市・轟木21地割。
【5】 「日本の軍部」――
軍内部の権力移動,「佐官支配」の抬頭
『リヒャルト・ゾルゲ〔※〕は〔…〕、満州事変を通じて、軍は大ブルジョワジー勢力を破り、受任者〔天皇に統治を委任された「内閣」「軍部」「政党」――ギトン註〕間の力の比重は、強く軍に傾いたと評している。〔…〕
こうして政治が軍事化するにつれて、軍内部の権力移動が生じた。〔…〕「佐官支配」〔大佐~少佐の階級を中心とする「中堅幕僚群」が軍の実権を握る・第2次大戦期の日本軍に特有の体制――ギトン註〕が確立したのである。それには先導した永田鉄山の役割が大きかった。
〔…〕1921年のバーデン・バーデンの会合』は、在ドイツの3人の少佐:永田鉄山,岡村寧次,小畑敏四郎が『軍の改革を約した事件である。長く軍制を壟断してきた長州軍閥が、国家総力戦体制を実現してゆく課題にたえられないため、これを排除して、軍制を改革しようというのであった。同憂の少壮将校の間に同調者が増え、軍内を横断する強い潮流が生まれ、その後十年のあいだに旧軍閥は実力を失い、新しい〔ギトン註――「佐官」中心の〕幕僚群が実力を持つようになった。
それとともに、「力は正義だ」という理念が自国民にも他国民にも適用され、道義の理念が蔭に隠れた〔…〕国民精神が道義上頽廃した。』
石堂清倫『20世紀の意味』,2001,平凡社,pp.183-184. .
註※「リヒャルト・ゾルゲ」: ロシア系ドイツ人のスパイ。すぐれた政治学・地政学の論文も残している。ドイツ共産党員としてワイマル共和国で労働運動に従事していたが、コミンテルンの招請を受けてモスクワに移り、赤軍参謀本部のもとで諜報活動を開始、まず中国・上海、次いで日本に潜入した。協力者に、中国共産党「八路軍」を従軍取材した米人女性ジャーナリストアグネス・スメドレー,朝日新聞記者尾崎秀美らがおり、日独米中に広大な情報収集網を築き上げ、蒋介石,毛沢東,近衛文麿ら要人とも繋がりがあった。1941年逮捕され 44年処刑。
軍内で実力を握った「新幕僚群」は、軍と国民を道義的に堕落させただけでなく、「総力戦」体制構築のためには必須の「工業生産力向上」を軽視するという・致命的な影響を、日本の軍国体制に及ぼしたのです。彼らは、先進工業国がどのようにして生産性を高めたか、英米がいかにして強大な軍事力を造り上げたかの研究を怠り、ただ感情的予断において「英米を侮蔑し、無視し、日本的精神力で相手を凌駕すべきだと信じた。軍部特有の日本精神を強調」して、「天皇制をいっそう反動化させ、後退させた。」「1940年以後、[国防生産力]は衰退の一途をたどった」。(p.184.)
よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!