泰緬鉄道(タイ国有鉄道南本線ナムトク支線; The Death Railway)。
©西日本新聞。タイとビルマを結ぶ鉄道として1942年7月日本軍が着工、
連合軍捕虜6万2000人,強制連行されたタイ人・ビルマ人・マレーシア人
・インドネシア人計30万人以上が苛酷な条件で使役され、約半数が死亡。
【1】 「自由」の諸段階――
「自由」は「平等」と矛盾する
この文庫本は、やや入手しにくくなっていますが、柄谷行人の(後期の?)思考を知るには、手ごろな1冊となっています。この段階では、柄谷氏はまだ、比較的単純簡明な枠組みにしたがって思考していますので、例えばそれに対して別の枠組みをぶつけて、仮想対決をしてみる‥、といった読み方も可能です。
「近代の超克」「自由・平等・友愛」「帝国とネーション」――3つの論文を取りあげてみたいと思っています。
「近代の超克」は、対米開戦半年後の 1942年7月という、戦争宣伝以外のあらゆる言論が圧殺された時代に開かれた文学者中心の討論会から、「自由」というものの諸段階(経済的,政治的,美学的)について考えています。
「自由・平等・友愛」は、「自由」と「平等」の矛盾について、やはり↑上記の「3種類の自由」という枠組みで検討しています。そして、その結論は、「自由・平等・友愛〔…〕の矛盾はけっして解消されない」。今後においてその矛盾は、「ファシズム」として現れる、しかも「それは[民主主義]として」、軍国主義でも国粋主義でもない衣装をまとって登場する、という戦慄すべきものです。
「帝国とネーション」は、↑上の2者よりも柄谷氏の世界史構想に、より近いもので、私たちには馴染みのある議論です。ここでは、夏目漱石と岡倉天心の思想が対比されます。彼らがネーションを越えようとしたこと、いわば「想像上のトランスナショナル共同体」が、この論文のおぼろげな帰着点であるようです。
【2】 「近代の超克」――戦争協力か? 抵抗か?
そこで、最初に取りあげる「近代の超克」ですが、対象とされる 1942年の討論会について、まず Wiki で具体的データを見ておきましょう。
『「近代の超克」は、太平洋戦争中の大日本帝国で反資本主義・反民主主義・反法治国家・人治国家・文化国家(Kulturstaat)などを主張した文化的シンポジウム。〔…〕
スターリングラード攻防戦(1942年8月~)近接戦下のドイツ兵。
「知的協力会議」と銘打ったこの大規模なシンポジウム〔「弁士 13名――ギトン註〕は、対米英開戦という時局のもと、明治時代以降の日本文化に多大な影響を与えてきた近代的な西洋文化の総括と超克を標榜して 1942年7月、河上徹太郎を司会として 2日間にわたり行われた。〔…〕
参加者の大半は、京都学派(「世界史の哲学」派)の哲学者、旧『日本浪曼派』同人・『文学界』同人の文学者・文芸評論家により構成されていた。〔…〕
文芸誌『文學界』1942年(昭和17年)9月および10月号』は、シンポジウムと同名の『特集記事』を掲載し、シンポジウムのパネラーとほぼ同じ『13名によ』る論文を掲載した。
『9月号にはシンポジウムに参加した西谷啓治・諸井三郎・津村秀夫・吉満義彦の論文が、10月号には亀井勝一郎・林房雄・三好達治・鈴木成高・中村光夫の論文、およびシンポジウム記録が掲載された(このうち事後に書かれた三好・中村のものを除く論文は、事前に執筆されシンポジウムで検討に供されたものである)。〔…〕
これらは翌1943年7月には同名タイトルの単行書として創元社より刊行された。〔…〕
大東亜戦争開戦の直後に開かれたこのシンポジウムは、戦争遂行とファシズムを思想的に支持したものとして戦後の日本で批判された。
第二次世界大戦後、竹内好は『近代日本思想史講座』第7巻(筑摩書房より 1959年刊)に、論文「近代の超克」を寄稿し、当時はほとんど忘れ去られていたこのシンポジウムを批判的に検討し日本思想史の問題として全面的に総括することを提起した。』
Wiki「近代の超克」 .
この討論会に関する・戦後の竹内好の提言は、これを戦争協力ないし賛美のアジテーションとして全面的に否定すればそれで終わり、ということではない。戦前の日本の思想界全体が孕んでいた問題点・弱点が、この討論会の議論に現れている。この討論会の内容を批判的に十分に再検討し、知的で良心的な人びとさえもが「戦争とファシズム」に抵抗しえなかった・その根底的原因を突き止める必要がある、ということです。
柄谷氏の論文もまた、竹内提言の線に沿って、この討論会は、対米英戦争に協力するという表向きの標榜にも拘らず、内容においては、戦争に対する “はかない抵抗” というべき面があったことを明らかにしています。そして、河上徹太郎ら主催者としては、当時の圧倒的な戦争賛美の流れに抗 あらが う意図があった。そうした点で、対米英戦下の知識人の苦悩を良く表現していた、というのです。
ガダルカナル島の沖に沈む輸送船「鬼怒川丸」。©ソロモン政府観光局。
1942年8月、アメリカ海軍は同島に上陸し無血占領。同月、一木支隊が
上陸し総反撃開始、全滅。その後、上陸作戦を繰り返すも奪回できず、
12月31日、大本営はガダルカナル撤退を決定。
柄谷氏が、この討論会についてまず指摘しているのは、標榜されている「対米英戦」協力という目標と、参加者〔正確には「弁士」ないし「パネラー」ですが、柄谷氏の呼び方に従って、以下、「参加者」といいます〕の面々とのあいだにある微妙なズレ〔※〕です。なぜなら、参加者は大部分が、英米ではなく、ドイツ・フランスの文学・哲学を専門とする人びとだからです。
英米の文学・哲学を専門とする人士が集まって、自分らがこれまで称賛してきた英米の「近代」文学・哲学を批判し唾棄し、もうこんなものは「超克」しましょう、と言うのなら、当局の意に沿った時局協力となるでしょう。しかし、そうなってはいない。
では、英米の代わりに独仏を俎上に上げて、徹底的にやっつけて、英米だって似たようなものだ、こいつらはみんなお払い箱だ、などと言うのなら、対米英戦協力にならないでもない。しかし、そういうわけでもないのです。
註※「微妙なズレ」: ここで、以下のレヴューを解りやすくするために、小字でネタバレ的説明をしておきます。本文が読みにくい、と思ったら読んでください。第2次大戦は、言うまでもなく 米英仏(連合国)対 日独伊(枢軸国)の戦いです。だから日本ファシズムの側に知識人が協力するには、英米やフランスの文化を貶めて、ドイツ文化を称賛しなければならないはずです。ところが、「近代の超克」会議の主流の見解は、むしろ逆なのです。フランス文学の素養の上に立って、ドイツ哲学を攻撃している。そして、英米は無視している。これはひょっとすると、戦争協力は見せかけで、ほんとうは、戦争とファシズムを批判しているのではないか。柄谷氏の着眼点は、そこにあります。もちろん、あからさまにドイツや・ドイツの影響が強い日本の哲学者(西田幾多郎ら)を批判したら、当局に弾圧されます。そこで、河上徹太郎のように、わざと アイロニカルで曖昧な主張をしたり、小林秀雄のように、内容の批判を避けて言葉遣いや形式といった些末な点から間接的に攻撃するのです。
これと対照的な会議として、「京都学派の人たちが[世界史的立場と日本]という座談会を『中央公論』でやっています。そこには、日米戦争を「世界史的」に見る明瞭な立場があります。京都学派の場合、それは大東亜共栄圏と日米戦争を哲学的に基礎づけるもので」した。(p.100.)
しかし、「近代の超克」会議の場合には、そのようなまとまった結論がない。あえて無いようにしているともとれます。むしろ、「この会議で支配的なのは、そうした」ファシズムの「哲学的意味づけへの嘲笑だと言っていいのです。この会議の特徴は、そうしたドイツ的思考への」フランス的・文学的思考に立った批判だと言ってよい。
特徴的な議論を、司会のフランス文学者河上徹太郎がしています。
『河上徹太郎は、この会議の「結語」においてこう書いています。
これと形式の似た会議は、10年ばかり前、国際連盟の知的協力委員会で開催された、ヴァレリー〔※〕を議長とした数次の会議であらう。〔…〕知識人の動員〔…〕のために巧妙に案出された議題は、「ヨーロッパ人は如何にして可能であるか」といふ命題である。〔…〕議事進行中努めて政治的発言を戒めてゐることは、結果として全体の趣旨を著しく政治的効果の上で強めるのに成功してゐる。〔…〕彼らの絶望的な希望は、現在の欧州政局の実情が示してゐる通りである。〔『近代の超克』富山房文庫〕』
河上がこの会議をやるにあたって、ヴァレリーの「知的協力会議」〔1928年か?★――ギトン註〕を意識していたことは明瞭です。〔…〕
ヴェロドローム・ディヴェール(VELODROME D’HIVER 冬季自転車競技場)事件。 1942年7月16-17日、ドイツ占領下のパリで、フランス警察・憲兵が行なったユダヤ
人狩りで 1万3000人(うち子供4000人,女性6000人)が検挙され、冬季自転車競技
場に 5日間閉じ込められた↑後、アウシュヴィッツなどの絶滅収容所に輸送された。
この会議〔河上らの「近代の超克」会議。1942年――ギトン註〕がなされた時点では、フランスはドイツに占領され、ヨーロッパは、イギリスを除いてナチスによって「統一」されていたのです。〔…〕にもかかわらず、彼〔河上徹太郎――ギトン註〕は、敗北したフランスの知性に同調しようとしているように見えるのです。
ヴァレリーが「知的協力会議」をやったのは、イタリア・スペイン・フィンランドそしてドイツに広がるファシズムに対抗するものであったことは疑いありません。しかし、それはあっけなく敗れた。河上や中村がそれを喜んだはずはありません。しかし、〔ギトン註――1942年時点での〕ヴァレリーらの無力をもよく知っていたはずです。できればそうならないようにしたい、というのが彼らの「絶望的な希望」だったと思います。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.101,104.
註※「ヴァレリー」: ポール・ヴァレリー〔1871-1945〕。フランスの詩人・小説家・評論家。1928年ジュネーヴで開かれた「国際連盟知的協力会議」で議長を務めた。1940年からのドイツ軍占領下では親独ヴィシー政権を批判して弾圧を受けた。
註★「知的協力会議」: 「知的協力に関する国際委員会」は、国際連盟の諮問機関として 1922年設立、初代委員長はアンリ・ベルグソン。同年8月から 1935年までに 5回の会議(Plenary session)をもった。最後の会議は 1939年に開かれている。戦後は国際連合のもとで「ユネスコ」に改組された。〔英語版 Wiki 等による〕
つまり、柄谷氏の考えでは、河上徹太郎は、フランス留学中の師であるヴァレリーに倣って、〈政治的基調をあえて抑えることによって、政治的効果を高める〉ことによって、知的議論の装いでファシズムの時局を批判することを意図していたというのです。河上の論調が、あたかもヴァレリーの会議を嘲笑し、ファシズムの “西欧文明批判” に同調するように見えるのは、検閲を回避するための偽装にすぎません。
そして、河上らが目指した・この会議の基調は、まとまった思想の表出をあえて避けることでした。竹内好は、この会議を評して「思想形成を志して思想喪失を結果した」「戦争とファシズムのイデオロギイにすらなりえなかった」と批判しているのですが、柄谷氏に言わせれば、そもそも「思想形成」など目指してはおらずその逆なのです。「戦争とファシズムのイデオロギイ」となることを徹底して拒否し、知性にみちた韜晦という消極的な拒否を示すことで「戦争とファシズム」に立ち向かう、そういう態度を示したというのです。(p.102.)
【3】 「近代の超克」――
まやかしの「超克」「進歩」「改革」を拒否する。
柄谷氏の解釈が当たっているかどうかは、しばらくおいて、次に中村光夫の議論を見たいと思います。中村もまた、フランス的な文学的素養に立って、「大東亜戦争の哲学的意味づけ」のようなドイツ的哲学的思考を批判しています。そもそも中村は、「(ヨーロッパ的)近代の超克」という・この会議のテーマ設定そのものに反対でした。「近代の超克」などを唱える自体が見当外れだ、というのが中村の主張です。しかし彼は、意見が違うから出席しない、というのではなく、逆にあえて出席して自分の主張を述べることで、ファシズム協力の論理が持つ欠陥を暴いて見せたのです。
『中村光夫は、この会議に提出した論文〔※〕で、こう述べています。
彼ら〔ヨーロッパ人――柄谷註〕が近代といふ人間精神上の或る秩序(または無秩序)を否定するとき、それは彼ら自身が秩序(または無秩序)を果てまで生きて見たといふ確信を前提としてゐる。彼らがもはや近代からは何も期待し得ぬといふとき、彼らの絶望はその対象についておよそ試みうるすべてをやり抜いて来たといふ自信と隣り合わ ママ せな筈である。〔…〕ところで翻つて考へれば、僕等は「近代」といふものに対してかういふいはゞ生活そのものに根ざした健康な絶望乃至は自信を持ち得るであらうか。〔『「近代」への疑惑』〕』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,p.103.
註※「この会議に提出した」: 前掲 Wiki によると、中村の論文は事前提出ではなく、会議の後で執筆して『文学界』特集記事に掲載された。
ヴェロドローム・ディヴェール(VELODROME D’HIVER 冬季自転車競技場)事件。
自転車競技場跡に設置された・犠牲となった子供たちの氏名を記した追悼碑。
↑引用文に2回出てくる「絶望」という言葉を感情的に受け取ってしまうと、中村の議論は理解できなくなります。「健康な絶望乃至は自信」と言っているように、この「絶望」は、望みのないことでも落胆でもない。いろいろ試してみたが、ここには解決策はない、先へ、または他の領域へ移って、さらに探そうではないか、という希望と自信に満ちた結論表明にほかならないのです。
そして、われわれ日本人は、ヨーロッパ人とは違って、そのような「健康な」結論を獲得できるほどの試行も捜索も、「近代」の領域においてまだやり終えていないのだから、軽々 けいけい に「近代の超克」などを言うべきでない。中村光夫が言いたいのは、そういうことです。
この中村の意見と対照的なのは、京都学派の西田幾多郎が表明している「近代批判」です。西田の「近代批判」の哲学は、当時、ファシズムの思想的基盤として持てはやされましたし、西田自身、それを意識して得意になって主張してもいたのでした。
『西田幾多郎の「無の論理」』は、『簡単にいうと、〔…〕へーゲルのように・矛盾を闘争によって乗り超えていくということを・否定するものです。人が矛盾として見出すものは、実は浅薄な見方によるもので、根底的に、それは「絶対矛盾的自己同一」として〔あらかじめ、さいしょから――ギトン註〕統合されているというわけです。〔だから、そもそも「矛盾」などというものは存在しない。ただの見間違えだ、と。――ギトン註〕この論理によって、あらゆる矛盾が「止揚」されてしまいます。〔…〕
注意しておきたいのは、西田において、〔…〕この「論理」が、現実的な矛盾を「論理的」に乗り超えるものとして活用されたことです。たとえば、国家統制経済は、自由主義と共産主義、あるいは個人主義と全体主義の両方を乗り超える「協同主義」(三木清)として解釈されます。また、大東亜共栄圏は、近代国家と、ソ連邦型国際主義の両方を乗り超えるものとして「解釈」されます。つまり、どんな矛盾があろうと、それは「すでに」止揚されている〔ギトン註――として、すべての矛盾は無いことにされてしまう〕わけです。この「論理」は、あらゆる既成事実を肯定することになります。頭のなかでは、それはすばらしく美化されるのです。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.116-118.
つぎに参照したいのは、小林秀雄の意見です。小林秀雄は、言うまでもなくフランス文学者であり、彼の意見は、フランス的な思想土壌からするドイツ流哲学の批判です。西田幾多郎ら京都学派の「近代の超克」論=ファシズム賛美論は、ドイツ流の哲学思考に根を持つものでした。それというのも、当時日本で「哲学」といえば、ドイツ哲学しか無かったからです。近代日本に移入された「西洋哲学」とは、その大部分が、ドイツ哲学のなかでもさらに一部分である「観念論哲学」だったのです。
『「近代の超克」は、〔…〕ドイツにおいて、ハイデッガーに代表されるようにさかんに論じられていたものです。たとえば、近代の主権国家を超えて「広域」(ヨーロッパ共同体)を実現することもそのなかに入っていました。〔…〕京都学派や日本浪漫派のような「近代の超克」の議論の枠組みは、ドイツから来ていたと言えます。したがって、この会議〔河上・中村光夫・小林秀雄らの「近代の超克」シンポジウム。タイトルとは逆に「近代の超克」を批判するものだった。――ギトン註〕の特徴は、そうしたドイツ的思考への批判にあると言えます。〔…〕
日本の近代哲学は、ドイツ観念論の語彙と思考法で形成されてきました。そういうものが「哲学」と思われてきたわけです。しかし、哲学は、自分の生と経験に即した明晰な思考でなければならない。その意味では、〔ギトン註――小林秀雄のような〕文学批評家と呼ばれた人たちこそ、哲学的だった〔…〕彼らはほとんどがフランス文学・哲学系でした。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,pp.104-105.
映画「黄色い星の子供たち」より。
小林秀雄の・この討論会での発言は、たとえば、ドイツ観念論的な「生硬で空疎」な言葉遣いに対する批判です。そこには、「日本人の言葉としての肉感」が無いというのです。それは、単なる揚げ足取りではありません。厳しい言論統制のもとで、内容的な批判は憚 はばか られるがゆえに、内容に必然的影響を及ぼす語彙・文体の特質を批判の対象としている、と見るべきです。
ここに見られるのは、ドイツ流対フランス流の対立ですが、別の言い方をすれば、「哲学と文学の対立」ということになるでしょう。が、↑上で柄谷氏が指摘する点を踏まえれば、「本当は2種類の哲学の対立である」とも言えます。あるいは、批判の対象となる西田らの哲学が、現実から遊離した極めて空疎な “言語の遊戯” であることに注目すれば、西田らの本質は、哲学というより “文学” ないし美学的思考であり、趣味判断の領域に属するようなものだと言ってもよい。したがって、その点を踏まえるならば、「2種類の[文学]あるいは[美学]の対立」だと言うこともできる。(pp.105-106.)
『重要なのは、第1に、それらがいずれも「美学」でしかないということです。第2に、ここには、彼らが現に戦争している当の英米が完全に抜け落ちていることですが、それは彼らが「美学的」であるということと密接につながっているのです。』
柄谷行人『〈戦前〉の思考』,2001,講談社学術文庫,p.106.
柄谷氏は、「いずれも美学でしかない」と言っています。つまり、ここには西田らの弱点が現れているだけでなく、それを批判している小林秀雄の側の致命的弱点もまた現れていることになります。
そして、そのことは、西田にしろ小林にしろ、「英米」の哲学が眼に入っていない、「英米」を無視した場所でのみ議論が展開されていることと深く関わります。というのは、彼らが「超克」すると称する「近代」が、そもそも発祥したのは、イギリスにおいて(市民革命と産業革命!)だからです。
また、河上,中村,小林らの討論会の隠された主題は、ファシズム統制下における知識人の「自由」――ということにほかならなかった。参加者の誰もがそのことを意識し、しかし決して口にすることなく発言していた。その状況を踏まえるならば、私たちがこの討論会から読みとるべきは、「自由」とは何か?‥その在り方いかん、の問題です。そして、「自由」の故国は、フランス以前にイギリスであるはずです。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!