August von Wille 画: "1870年頃の Barmen" 。バルメン(現ヴッパタール市)

は、ドイツ・ルール工業地域で最も早く工業化された。©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

【3】 ヘゲモニー国家が入れ替わる「帝国主義段階」

――1度目:オランダからイギリスへ

 


『近代世界システムにおいては、国家の「力」は、結局、経済的な力にもとづく〔…〕

 

 1国がヘゲモニーを確立するのは、つぎのような順序である〔…〕まずヘゲモニーを握るのは生産部門であり、それから商業部門、さらに金融部門〔という順序――ギトン註〕です。〔…〕まず、農=工業における生産効率の点で圧倒的優位に立った結果、世界商業の面で優越する〔…〕、それは金融面でのヘゲモニーをもたらす。

 

 〔…〕資本の蓄積という観点から見ると、つぎのようになります。』資本の自己増殖(蓄積)のしかたには、第1:商人資本〔金―品―金'〕,第2:金貸し資本〔金―金'〕,第3:産業資本〔金―品…造…品'―金'〕,という3つの形態があります。『商業や金融は、第1,第2の形態であり、太古から存在します。産業資本は第3の形態であり、近代に出現したものです。ところが資本は、第3の形態において頂点を極めると、むしろ第1と第2の蓄積形態をとるようになるのです。つまり資本は、産業資本のように技術革新によって差異=剰余価値を得るよりも、現にある差異から剰余価値を得るほうに向かう。』

柄谷行人『憲法の無意識』,2016,岩波新書,pp.158-159.  

 

 

 つまり、ヘゲモニー国家,準ヘゲモニー国家において、「産業資本」が頂点を極めると、そのまま「産業資本」の優位が続くのではなく、まもなく資本は形態転換して、銀行資本(金貸し資本),商業資本(商人資本)となって後二者が優位に立ってしまうのです。

 

 なぜそうなるかというと、そのほうがラクチンだからです。「金貸し資本」の起源は、種もみの貸付けです。種まき時の前には冬の期間がありますから、農民は穀物を食い尽くしてしまって、播くタネがありません。そこで、高床式の倉庫(神社の神殿の起源!)を管理している神主のような人が、利子を約束して種もみを貸し付けるのです。秋には、どんなに不作でも種籾の数倍~数十倍にはなりますから、利率100%でも200%でも、農民は喜んで返します。このように、「金貸し資本」は、種まき時と収穫期という時間的「差異」から利益(剰余価値)を得ているのです。実質的には生産者の生産に寄生しているのですが、とにかく、時間というものがある限り、生産活動をする他人がいる限り、「金貸し資本」の増殖(蓄積)は保証されています。

 

 「商人資本」になると、ややリスクを伴うぶん、苦労があります。海を隔てた国ごとに、できる産物には違いがありますから、商品を運んで売れば必ず利益が出ます。つまり、商人の場合には、距離的・地理的な「差異」から剰余価値を得ています。これまた、「差異」を生じさせる自然の障壁,国境などの政治的障壁,文化的障壁がある限り資本蓄積は保証されています。ただし、船が難破すれば大損するだけでなく生命の危険もあります。そういうリスクはあるのです。

 

 

冒険商人組合(Merchant Adventurers)。イングランドの毛織物貿易を独占

した特許商人団体。16世紀中葉には、絶対王政と結びついてイングランドの外国

貿易全体を独占支配。名誉革命(1688年)で特許状を剥奪され消滅した。

 

 

 「産業資本」が依拠する「技術革新」は、以上の2者と比べて、ひじょうに厄介です。「技術革新」は、他の製造者よりも低コストで製造することによって利益を出します。ところが、しばらくたつと、他の製造者も製造法をマネするようになるので、利益が出なくなってしまう(特許をとっても、特許期間のあいだだけです)。そこで、さらに新たな「技術革新」をしていく以外に「産業資本」が生き残る道はありません。この馬車馬のような運命から、産業資本家が逃れるすべは無いのです。リスクもあります。「技術革新」によって大量生産が可能になって沢山造っても、造り過ぎて売れなければ、かえって大損してしまいます。

 

 柄谷氏によれば、「産業資本」は「技術革新」によって、時間的な価格差(差異)を創り出して剰余価値の源泉にしているのですが(未来の価格体系で製造して、現在の価格体系で売る)、リスクも不安定さも大きいので、ナマミの人間にとっては、ずっと続けていくには無理があるのです。だから、「商人資本」や「金貸し資本」に転化してラクをしようとするのは避けられない。「産業資本」を続けるにしても、企業を大きくして(「社会化」して)、自分は管理部門に君臨して、技術開発もリスクの管理も人にやらせようとするのです。

 註※「剰余価値の源泉」: これが、マルクス主義経済学(剰余労働価値説)と柄谷理論の異なる点です。もっとも、柄谷氏によれば、剰余労働価値説は本来、マルクスではなくリカードー左派の学説であり、マルクスは『資本論』では必ずしも剰余労働価値説に立っておらず、マルクスの態度はあいまいです。柄谷理論はシュムペーターと似ていますが、シュムペーターは、時間的差異の創造といったことは考えていません。


 

『重要なのは、この現象がとりわけヘゲモニー国家に生じることです。〔…〕ヘゲモニーは確立されるやいなや、没落しはじめるのです。ある国が、』生産・商業・金融の『全領域でヘゲモニーを得ることがあっても、それがまもなく失われるほかない〔…〕と同時に、生産においてヘゲモニーを失くしても、商業や金融においてヘゲモニーは維持されうることを意味します。

 

 〔…〕オランダが〔…〕全領域で覇権をもった期間は短い』が、製造業で『イギリスに追い抜かれた』あとも、『商業・金融におけるヘゲモニーは〔…〕維持しました。


 一方、イギリスは製造部門で覇権を握って「世界の工場」となり、やがて商業・金融の領域でもオランダを凌駕するようになった。〔…〕しかし、〔…〕1870年以後、重工業の部門でドイツやアメリカに後れをとったのです。むろん、イギリスは海外投資と金融の部門では圧倒的な優位を保ったし、また軍事的にも「世界の7つの海」を支配していました。にもかかわらず、ヘゲモニー国家としては没落する過程にあったのです。』

柄谷行人『憲法の無意識』,2016,岩波新書,pp.159-160.  

 

 

アフリカ大陸をまたぐセシル・ローズ(Edward Linley Sambourne 画)。

1892年、英国のケープ植民地首相セシル・ローズは、ケープタウンとカイロ

を結ぶ電信線の建設計画を発表した。当時のポンチ絵。 ©Wikimedia.

 

 

 

【4】 2度目の「帝国主義段階」――

英国の没落、独・米の抬頭、第1次大戦まで。

 

 

 そこで、2度目の「帝国主義的」な段階〔1870-1930年〕ですが、歴史的には、この時代に「帝国主義」という言葉が広く使われるようになりました。ただし、はじめは、すぐれた国家政策だ、という意味で。当時、「帝国主義者」「植民地主義者」には、「偉大な人」「すばらしい政治家」以外のニュアンスはありません。それほど「帝国主義」は、この時代のモードだったのです。「帝国主義」に、一般に悪いニュアンスが伴うようになったのは、第1次大戦が起き、とりわけそのなかで、ロシア革命で政権を握ったレーニンらが、諸国とロシアの密約を暴露してからと思われます。

 

 

『近代の帝国主義がめざすのは、領土の拡張』よりも『交易の拡張、いいかえれば交換様式Cの拡張です。それは、支配した地域に市場経済を浸透させ、それによって剰余価値を得るものです。

 

 しかし、帝国主義にもさまざまな形態があります。最も多いのは、領土の拡張、資源の獲得をめざすものです。

 

 他方で、大英帝国のように、植民地化した諸国に対して自由貿易を強制するものの、政治的支配はしない〔※〕というケースがあります。〔…〕アメリカの帝国主義も、そのようなものです。

 

 帝国主義は、たとえ他国への侵略や統治がなくなったからといって、消えるものではありません。たとえば、現在の新自由主義は、見境なく無限に交易の拡張をめざすものであり、その意味で帝国主義的なのです。』

柄谷行人『憲法の無意識』,pp.143-144.  

 註※「政治的支配はしない」: 英国の植民地政策は、時期によって変遷があります。たとえばインドに対して、19世紀半ばの「自由主義」期まではムガール帝国の存続を許していましたが、セポイの反乱〔1857-58〕を鎮圧した後は、直接統治に転じています。これはちょうど、「帝国主義」期〔1870-1930〕への移行に対応していると言えます。

 

 

 この時期〔1870-1930年〕には、「帝国主義」とは何かということについて、さまざまな理論が現れました。ホブソン,ヒルファーディング,レーニン,幸徳秋水,‥‥。彼らの理論の違いは、それぞれ自国の「帝国主義」の分析に基づいていることから来ています。「帝国主義」として具体的にどんな政策をとるか、また資本がどんな動きをするかは、国ごとに異なっていたのです。

 

 

Karl_Eduard_Biermann 画: "1847年ベルリンの Borsig 製鉄工場" ©Wikimedia.

 

 

 まず、オーストリアのヒルファーディングをとりあげます。「ヒルファーディングは、帝国主義を金融資本から説明しようとしました。」

 

 ひとつ前の「自由主義」段階で書かれた『資本論』では、「産業資本が歴史的に優位に立った有様が描かれて」いました。「商人資本」は商業資本、「金貸し資本」は銀行資本となって、「産業資本」の1要素として産業資本主義に取りこまれてしまったのです。

 

 ところが、後進資本主義国であったドイツやアメリカでは、銀行資本が産業資本と融合して、むしろ「メイン・バンク」のような形で製造企業を支配する現象が目立ってきました。これらの国々で工業化の中心となった「重工業のためには、巨大な資本の投下が必要であり、それには」株式会社形態での資金の調達と、銀行による融資が不可欠だったのです。このようにして銀行資本と産業資本が融合する現象を、ヒルファーディングは「金融資本」と呼びました。

 

 後進諸国:ドイツやアメリカは、「金融資本」によって重工業を発展させ、軽工業中心のイギリスを追い上げていったのです。「金融資本」は、民間で自然に形成されていったわけではなく、むしろこれらの国々は、政府が「国家資本主義的政策をとっ」て金融資本を支援し、重工業化を進めたのです。

 

 マルクス主義者であったヒルファーディングは、「金融資本」を「資本主義の最高の段階だと考えた。」なぜなら、「金融資本の段階で、生産は最高度に集積され社会化される。ゆえにそれは社会主義の基盤を形成する」からだ、というのです。

 

 また、金融資本は「政治的レベルでは帝国主義をもたらすものだと洞察しました」。(pp.149,161.)

 

 つまり、ドイツ,アメリカなどの後進資本主義国では、ヘゲモニー国家イギリスを追い上げるために、巨大な資本を投下しての重工業化が進められ、それによって銀行資本・商業資本が優位に立つ「金融資本」状態が成立し、「金融資本」は対外的に「帝国主義」となって現れます。

 

 この対外的な面を強調したのはレーニンです。「金融資本の支配は必然的に諸国家の争い:帝国主義戦争をもたらす」「そしてさらには、世界的な社会主義革命をもたらす」と予言しました(p.150.)。第1次大戦をレーニンは予言したわけではなく、この『帝国主義論』を書いたのはその勃発後でした。その後、ロシアに民衆革命(二月革命)が勃発しましたが、それは社会主義革命ではなく、ヨーロッパ世界全体に起きたわけでもありませんでした。レーニンは、予言の自演というべきか、それまで否定していたトロツキーのブランキ型暴力主義を採用し、軍事クーデター(十月 “革命”)を実行してロシアの政権を奪取しました。が、その後は「一国社会主義」に進んだのです。

 

 他方、日本の幸徳秋水は、『廿世紀之怪物帝国主義』〔1901年〕で「帝国主義を軍国主義に基づく領土拡張政策としてとらえました。」(p.147.)これは、いまだ資本主義さえ緒についたばかりの日本の「帝国主義」の特性をよく把えていたと言えます。

 

 

左から時計回りに幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎、石川三四郎

1904年11月13日、平民社にて撮影。 ©Wikimedia.

 

 

 以上の人びとと異なる帝国主義観を著したのは、イギリスのホブソンです。イギリスの「帝国主義」は、これら後進諸国のそれとは大きく異なる特質を持っていたからです。

 


ジョン・ホブソンは、帝国主義をイギリス資本主義の状勢から説明しようとしました。イギリスでは資本が過剰になり、海外投資に回された。それに伴って帝国主義的な政策がとられるようになった。そこでホブソンは、イギリスは経済政策を変えるべきだと提唱したのです。すなわち、海外投資や金融投機ではなく、国内での消費と生産を促すようにすべきだと。これは今日、新自由主義への批判として説かれる主張と似ています。ホブソンによれば、帝国主義はイギリスの経済政策である。したがって、帝国主義をやめるためには、それを変えればよい、また、変えることができる、ということになります。〔…〕

 

 イギリスでは、過剰となった資本はもっぱら海外投資や金融投機に向けられ、国内重工業の育成には向かわなかった。それはまた、イギリスは製造部門では衰退する過程にあったが、依然、世界商業・金融の圧倒的中心であったということを意味するのです。

 

 それに対して、ドイツやアメリカの金融資本は、産業資本を飛躍的に引き上げ、生産の社会化において画期的な役割を果たした。その意味で、金融資本はヒルファーディングが言ったように、「資本主義の最高段階」ということになります。しかしそれは一定の地域に、一定の時期に可能であっただけです。

 

 ホブソンがイギリスに関して見出したのは、資本が、産業資本に投資するより、海外投資や金融投機に向かったことです。それが帝国主義である、と彼は言う。

 

 そしてこのことは、今日の米国の資本、あるいは「新自由主義」についてもあてはまります。』

柄谷行人『憲法の無意識』,pp.147-148,161-162.  

 

 

 

【5】 第1次大戦後、アメリカのヘゲモニー獲得と

ロシア革命⇒:「福祉国家」と冷戦

 

 

『ロシア革命は大きな影響を与えました。1つには、世界資本主義が 1929年恐慌を経て大不況期に入ったからです。失業問題を放置すれば、社会主義革命になるかもしれないという恐れが、各国の対応を強いたのです。その意味で、ファシズムであれ、アメリカのニューディール派(ケインズ主義者)であれ、ロシア革命の「効果」であるといえます。すなわち、彼らはそれぞれ、金融資本を規制し、また、富を再分配し、労働者を保護し、内需を拡大する社会主義的政策をとるようになったのです。

 

 また、ロシア革命の結果として、それまでむしろ誇らしげに語られていた帝国あるいは帝国主義という言葉が、否定的な意味に転じた。たとえば、ファシズムにおいても、帝国主義は否定されています。〔…〕

 

 アメリカがヘゲモニー国家となったのは第1次大戦後です。〔…〕ヘゲモニー国家が確定した〔…〕第1次大戦後の世界は「自由主義的な」段階です。〔…〕

 

 

横須賀港に帰港するアメリカ原子力空母ロナルド・レーガン号

2017年12月4日 ©毎日新聞.

 

 

 アメリカのヘゲモニーに対してはドイツと日本の抵抗があり、それが第2次大戦となった。またそれ以後はソ連による抵抗がありました。しかし〔…〕それはアメリカをヘゲモニー国家とする世界システムを補完する役割を果たしたと言うべきです。

 

 たとえば、第2次大戦で疲弊した先進資本主義諸国は、アメリカの援助を受け、あるいはアメリカの開かれた市場に依拠しながら経済的発展を遂げたのです。彼らはソ連圏を共通の敵とすることで協力しあいました。さらに、ソ連圏の存在は、資本主義諸国における労働者の保護や社会福祉政策を推進させた。また、ソ連圏の存在は、それまで植民地ないし半植民地下にあった低開発諸国の独立を推進する力となりました。〔…〕

 

 「米ソ冷戦構造」とは、アメリカのヘゲモニーの下に成立した世界システムです。〔…〕各地で民族独立戦争やさまざまな戦争があった。が、それらは「米ソ」、さらに「国連」の管理下にありました。いつも世界戦争の危機が言われましたが、それ〔世界戦争となる恐れ――ギトン註〕は実際には無かった、〔…〕自由主義段階では、ヘゲモニー国家が存在するため、戦争は抑制されるのです。

 

 また、ヘゲモニー国家は、その内部において福祉の充実をはかる傾向があります。〔…〕

 

 自由主義の段階において、ヘゲモニー国家では、資本=ネーション=国家という三位一体のシステムが効率よく機能します。〔…〕自由な資本主義経済によって経済成長が生じるが、それにともなって階級格差が生じる。それに対してネーションが平等主義を要求し、国家が課税と再分配によってそれを実現する。それが福祉国家なのです。

 

 〔…〕アメリカは強力なヘゲモニー国家であった時期には、福祉国家でした。それを放棄するようになったのは、徐々にヘゲモニーが弱まったからです。〔…〕アメリカのヘゲモニーの没落が最初に示されたのは、1971年のドルの金兌換制停止においてです。むろん、アメリカは製造部門で没落しても、金融部門や商業部門(石油や穀物その他原料やエネルギー資源に関する)では依然として強かった。さらに、軍事的に圧倒的な優位を保持した。〔…〕

 

 アメリカの産業資本(製造業)を追いつめたのは、労働賃金の上昇と耐久消費財の飽和です。その結果、1970年代に一般利潤率の低下が顕著となった。そこで、アメリカの資本は活路をグローバルな市場に求めたのです。〔…〕資本主義市場に入っていなかった「外部」を取りこもうとした。たとえば、中国やインドを。それがグローバリゼーションと呼ばれる現象です。また、それまでの金融資本への規制を解除し、社会福祉を削減し、資本への税や規制を縮小するようになった。』

柄谷行人『憲法の無意識』,pp.150-151,163-166.  

 

 

 つまり、ひところの「福祉国家」の諸政策がつぎつぎに撤回され、資本に嵌められていた手かせ足かせが、「規制緩和」の名のもとに除かれて、資本主義 “本来” の暴力的エネルギーが解放されてきたのは、偶然でも何でもない。「世界システム」の周期的運動の結果なのです。つづめて言えば、アメリカのヘゲモニーが凋落してきた結果です。‥‥それを、資本主義そのものの終焉と勘違いしてはならない。

 

 

 

 

 

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