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 高洞山 たかぼらやま」からの下りは、谷沿いの路を辿ってみることにした。「なめこ平」で路が岐れる。


 


 

 ↑水源はヌタバになっている。↓沢の中を歩くような路だが、岩が少ないので難はない。

 

 

 

 

 

 ↓往きに尾根筋にそれてしまったのは、ここだ。いま、右から下りて来た。往きは、まっすぐに尾根へ向かってしまったが、よく見れば道標もちゃんと付いていた。

 

 

 

 

 

 盛岡市域北方の丘なみ。もう日暮れに近づいている。

 

 

 


 高洞山賢治短歌には、↓こういうのもある。「盛岡高等農林」在学中 1917年の作だ。

 

 

 紅き陽の 高洞山の 焼痕 やけあと を あたまの奥にて 嗤ふものあり〔『校友会会報』34号〕


#496  夕ひ降る

   高洞山のやけ痕を

   誰かひそかに
   哂ふものあり
〔『歌稿B』1917年5月〕

 

 

 「焼け痕」というのが謎だが、のちに文語詩「岩手公園」に改作されたものを見ると、正体がわかる:

 

 

 弧光燈 アークライト は燃えそめて

 羽虫ははやく群れたれど

 東はるかに散乱の

 さびしき銀は声もなし 

 

 まひるを青き瓦斯の火や

 酸のけぶりに胸いたみ

 ゆふべはひとりこゝにして

 きみおもふ日の数つもりしか

 

 なみなす丘ははるばると

 青きりんごの色に暮れ

 ひとりそばだつ高洞山 たかぼら 

 山火の痕ぞかぐろなる〔…〕

『文語詩稿一百篇』「岩手公園」〔下書稿㈠手入れ〕


 

 「山火」は、賢治の用語では春先の「野焼き」を意味する。じっさいに、当時は「野焼き」が行なわれていたのだろう。山腹の「野焼き」の跡を「焼け痕」と言っているのだろう。

 

 しかし、単なる叙景ではない。実験室での労働で健康が蝕まれ(結核罹患に気づかず無理をしたため)、また、この直前に退学処分となって盛岡を去った親友保阪嘉内への思いがつのる。

 

 高洞山については、↓つぎのような童話作品もある。『風野又三郎』は、有名な『風の又三郎』の初期稿で、舞台は同じ「谷川の岸の学校」、季節も同じ9月初めだが、又三郎は子供たちの前で正体を現し、偏西風に乗っての大旅行を語る:

 

 

「又三郎さんは去年なも今頃ここへ来たか。」

 

「去年は今よりももう少し早かったらう。面白かったねえ。九州からまるで一飛びに馳けて馳けてまっすぐに東京へ来たらう。〔…〕

 電信ばしらの針金を一本切ったぜ、それからその晩、夜どほし馳けてここまで来たんだ。

 ここを通ったのは丁度あけがただった。その時僕は、あの高洞山のまっ黒な蛇紋岩に、一つかみの雲を叩きつけて行ったんだ。そしてその日の晩方にはもう僕は海の上にゐたんだ。〔…〕今年だって二百十日になったら僕は又馳けて行くんだ。面白いなあ。」

『風野又三郎』「九月三日」 

 

 

 この初期稿が書かれたのは 1924年2月頃で、賢治は「花巻農学校」の教師となっていた。彼の短い生涯の中では幸福の絶頂期だったと言ってよい。過去の苦悩の傷痕のような「高洞山」には、「一つかみの雲を叩きつけて」すすいでしまう。そんな心境だったにちがいない

 

 

 ↓駅に戻ってきた。

 

 

 

 

 列車の時間まで間があるので、JRバスの停留所に移動↓。こちらは本数が多い。

 

 

 

 

 翌日、(「石ヶ森」のあと)盛岡市内の「岩手公園」(盛岡城跡)へ行って、賢治の見た高洞山のすがたをたしかめてみた。案の定、視界は高いビルでふさがれていたが、かろうじて高洞山を見つけることができた。

 

 

 

 


 「岩手公園」は、ちょうどソメイヨシノが満開だった。

 

 

 

 

 踏査記録⇒:YAMAP

 

 

 

 

 

タイムレコード 20240414 [無印は気圧高度]
 (1)から - 1538高洞山[518mGPS]1603 - 1609「なめこ平」[470m] - 1629肩への分岐[367mGPS]1632 - 1634尾根路分岐[337m]1637 - 1649貯木場[269m]1701 - 1714「上米内」駅[203m] - 1737「外庄ヶ畑」バス停[249mGPS]。

 

 

 

 

 

 

 翌日は、朝から快晴になった。石ヶ森 いしがもり」へ向かう。こちらも賢治詩に登場する山だ

 

 

 

 

 

 

 シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。

 

 

 

 

 「滝沢市」は盛岡のベッドタウンで、現在ではたいへん人口が増えている。アクセスも楽だ。盛岡駅から、ほぼ 15分ごとにバスがある。

 

 しかし、賢治の時代にはさびしい寒村だった。賢治がこの土地に足しげく通ったのは、高等農林の学生として、この地域が彼のグループに割り当てられた地質調査のフィールドだったからだ。

 

 

 

 

 石ヶ森」↑。大きな山ではないが、堂々たる体躯だ。うしろに岩手山も覗いている。石ヶ森、谷地山、岩手山、と並んでいる。

 

 「石ヶ森」の賢治短歌は、こういうのがある。まるで仏教の悟りを開いたかのような表現だが、意味は、「石ヶ森」一帯の地質について、ある確信を得た、というにある。



        ※ 石ヶ森
#336  こゝに立ちて誰か惑はん

   これはこれ岩頸なせる石英安山岩 デーサイト なり

〔『歌稿B』1916年7月〕 

 

 「岩手山」と「石ヶ森」のあいだにある広大な高原台地は、「石ヶ森」と同じ火山噴出岩「石英安山岩」でできている。だから、全体が「岩手山」よりも古い火山体で、「石ヶ森」は、そのへりで、浸食され残った「岩頸」にちがいない、というのだ。

 

 火口の火道などに溜まった溶岩は、ほかの場所よりも硬いので、火山の集合体が浸食されると、尖った峰となって残る。それが「岩頸」「岩鐘」などといわれるものだ。盛岡~北上地方には、この成因による火山がたいへん多い。

 

岩頸だつて岩鐘だつて

みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ

〔『春と修羅』「雲の信号」より〕 

 

 

 ↓ここが登山口。標識も何もない。

 

 

 

 

 「石ヶ森」↓。少し歩いただけで形が変わった。やはり大きな山ではない。

 

 

 

 

 アカマツ、クリ、コナラ、ミズナラの雑木林。まだみな枯れ樹だが、ムシカリが咲いている。きゅうに暖かくなった。


 

 


 

 「高小山」というコブを越えると、平坦な尾根になる。山ランの練習にしてしまってはもったえない。ゆったりと散歩しよう。

 

 

 

 

 

 足もとにタチツボスミレ。樹種も、ホオノキ、ハリギリなど山地になってきた

 

 

 


 

 

 


 

 

タイムレコード 20240415 [無印は気圧高度]
 「滝沢小学校口」バス停[154mGPS]1015 - 1036「滝沢中学校」裏の登山口[187mGPS] - 1100高小山[255m]1103 - (3)につづく。