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紫香楽宮址 宮町遺跡  滋賀県甲賀市信楽町宮町 (Saigen Jiro - Wikimedia)

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 710年 平城京に遷都。
  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-752 大仏開眼まで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児(こんでい)」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」に入る。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立、「泉大橋」を架設。
  • 741年 「恭仁」に遷都。諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 行基、朝廷に「天平十三年記」を提出(行基集団の公認。官民提携の成立)。「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基に食封 900戸を施与するも、行基は辞退。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。
  • 752年 東大寺で、大仏開眼供養。

 

 

紫香楽宮址 鍛冶屋敷地区      滋賀県甲賀市信楽町黄瀬

銅の精錬・鋳造所の跡が発掘され、鋳造中の梵鐘鋳型などが出土。

 



【113】 「遷都」に明け暮れた5年間

 

 

 前々回と前回の、「紫香楽宮」等の考古学的調査から明らかになった年代を、文献史学から割り出された年表に加えてみます。

 

 たとえば、740年5月に「恭仁宮起工か」とあるのは、『続日本紀』741年1月16日条に「天皇は〔恭仁宮の〕大極殿〔考証の結果、これは内裏の大安殿を指す――ギトン註〕に御出まして全官司の4等官以上と宴会した」とあるので、内裏の中心建物はこの時点までに完成していた。遺跡発掘から割り出された・当時の一般的な宮殿建物の工期を用いて、そこから逆算すると、恭仁宮内裏は 740年4-5月以前に着工したことになる――という具合です。以下各項目とも同様の考証の積み重ねがありますが、いちいち記しません。

 

  • 740年 5月、聖武天皇、橘諸兄の「相楽別業」に行幸、「恭仁宮」起工か。9-11月、藤原広嗣の乱。10-12月、聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、12月、「恭仁宮」に入る。この年、金鍾寺(のち東大寺良弁審祥を招いて「華厳経」講説(~743)。
  • 741年 1月、「恭仁宮」で元旦朝賀(遷都);広嗣の乱により死罪26人等処罰247人。2月、諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。3月、橘諸兄行基を訪ねて官民提携を打診か。閏3月、5位以上に「恭仁京」移住を強制。8月、諸國に「大赦」を施行。7-10月、「行基集団」、「恭仁京」の「鹿背山東河」に架橋;その功により 750人の得度(行基集団の禁令緩和)。年末、「紫香楽宮」で「北部中心建物」起工か。
  • 742年 1月、「恭仁宮」で元旦朝賀。2月、「恭仁京」から「紫香楽」に通じる東北道が開通。8月、「恭仁宮」南の大路西端に大橋を架設;聖武天皇、第1回「紫香楽」行幸(甲賀寺予定地造成開始か)。12月、第2回「紫香楽」行幸。この年、「天平十三年記」を審査(行基集団の公認)。
  • 743年 1月2日、「恭仁京」大極殿(完成)で朝賀。4月、第3回「紫香楽」行幸。5月、「墾田永年私財法」。7月、第4回紫香楽」行幸(~11月)。9月、紫香楽宮のある甲賀郡の庸調を畿内並みとし、今年の租を免ず。10月、紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、「甲賀寺」寺地を開く;行基集団が協助;東海・東山・北陸道の当年庸調の紫香楽」納入を指示。12月、「恭仁京」の造営を停止。この年、「紫香楽宮」中央谷を埋め立て、「中心建物群」を着工。
  • 744年 1月、朝賀とりやめ。閏1月、安積親王が急死。2月、「難波宮」を皇都と定める勅;聖武天皇は「紫香楽宮」に移動。6月頃?、「中心建物群」プランを変更し、「後殿」を東西2殿とする。11月、紫香楽甲賀寺」で廬舎那仏の「体骨柱」を立つ(大仏造立開始);元正太上天皇、「紫香楽宮」に移る。この年、行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 1月、朝賀とりやめ;「紫香楽宮」に遷都(宮門に大楯・槍を立つ);行基を大僧正とす。5月、「平城京」に還都。8月、平城京の金鍾寺(のち東大寺)で、大仏造立を開始。

 

 ざっと見てわかるように、最初のうちは「恭仁京」関係記事が並んでいますが、しだいに「紫香楽宮」関係記事が増え、743年末には、ついに「恭仁京」造営を停止して、「紫香楽」遷都に向って突き進むようになります。744,745年は、2年連続で正月の「朝賀」をとりやめ。ところがそこで突然「難波宮」が急浮上し、「紫香楽」を追い抜いて、744年2月に突然の遷都宣言。天皇の周辺に、なにかただならぬことが起きている気配がします。

 

 そして、744年中に今度は「紫香楽」派? が巻き返して、10月には「甲賀寺」で大仏の造立を開始、翌正月には、「紫香楽」遷都に漕ぎつけることとなります。が、その 745年5月には、またまた逆転して、結局もとの「平城京」に還都して落着――となります。

 

 めまぐるしい動きですが、顕著に現れるのは、紫香楽」遷都・及びそこでの廬舎那大仏造顕に向けた・聖武天皇の強烈な意志です。その意志は周囲には理解されず、元正太上天皇を中心とする「良識派」の抵抗を呼び、「紫香楽」に対抗して「難波」遷都の急激な動きが浮上したように見えます。

 

 他方、「行基集団」公認の過程が、これに重なっています。「行基集団」との官民提携の進展が、聖武天皇の紫香楽」仏都への傾斜を促しているようにも見えます。

 

 そして、最終的な決着点は「平城京」還都であり、平城京東大寺での大仏造立となるわけですが、「平城京」還都で決着したに関しては、東大寺の役割を無視できません。「聖なる仏都」の建設に向けた聖武天皇の意志が、そこに終息ないし収れんしたことを意味するからです。

 

 もともと、聖武天皇の「廬舎那大仏」造顕計画は、一方では「行基集団」の労働力に頼りながら、他方では、東大寺(金鍾寺)良弁らによる宗義確立を必須の理論的基礎としていました。良弁らは 740年に「華厳経」の講説(研究ゼミ)を開始し、743年まで続けています。この講説は聖武天皇の指示で行なわれたとする論者もいます。そして、聖武天皇が「大仏造立の詔」を出したのは、まさに良弁らが研究を終えた 743年なのです。

 

 ただ、ここには非常に大きな問題が隠れていると私は考えます。740年から745年までの「遷都」の歴史を、単にミヤコがあちこちに移ってまた元に戻った、というだけの茶番劇として見るのは意味のないことです。そこに、皇族や貴族の間の陰謀や争いばかりを見る見方――世間の類書でもてはやされている――も、浅薄で一方的過ぎます。歴史に、事実ではなく講談や与太話を求めたいのなら、それもよいでしょう。

 

 問題の発見と解明のカギは、聖武天皇――「行基集団」――東大寺。この3者の関係にあると考えます。そして、この経過の渦中に 743年紫香楽宮」で出された「墾田永年私財法」が重要です。この法改定は、行基集団」にとって、また東大寺にとって、何を意味したのか?

 

 「行基集団」にとって、「華厳宗」に基づく「廬舎那仏」造営に協助することは、本来の宗旨とは異なる行動であったはずです。にもかかわらず、なぜ総力を挙げて助力したのか? 「行基集団」は、「難波宮」遷都のあった 744年には、摂津・難波で、ひさびさの大土木造営事業を展開しています。これは、紫香楽での甲賀寺建設・大仏造営と並行して行なっているのです。両方に不足ない人員と組織力を注ぎ込むことができる教団の力も驚異ですが、“あっちにもこっちにも” 全力で献身する・確信にみちた信徒の団結にも驚かされます。そして、745年「平城京」で改めて開始された大仏造営にも、引き続き協力しているのです。この一貫した(宗教的に言えば、宗旨を選ばない)献身ぶりは、一体なぜなのか?

 

 そのあたりに問題の糸口があると考えているのですが、その内容は、おいおい議論を詰めていきたいと思います。

 

 

平 城 京     〔A〕東大寺大仏殿 〔B〕平城宮址 〔C〕平城宮朱雀門

          〔D〕生駒山             若草山から望む。

 



【114】 帝王も楽じゃない

 


 さて、一連の動きの出発点は、740年5月頃にあったと見てよいようです。「関の東」への大行幸と「恭仁京」遷都は、この時点で聖武・諸兄の間で――最終的に?――取決められたと見られます。そう考えなければ、各所の頓宮の設営も、「恭仁宮」内裏の建築も、まに合わないからです。ちょうど符合するように、聖武諸兄の「相楽別業」を訪れて懇談しています。

 

 同年 8月末に「藤原広嗣の乱」が起きていますが、聖武・諸兄としてはまったく予定にない出来事でした。しかし、それが「乱」となるかならぬか、はっきりする前に、先手を打って「乱」と決めつけ鎮圧軍を差し向けたのは、実力政治家諸兄の強剛な手腕だったと言えます。「広嗣の乱」のせいで、「大行幸→―恭仁京遷都」は、1か月ほど予定が遅れた可能性がありますが、諸兄政権は、むしろこの「乱」を上手に利用して、所期の目的の達成に寄与させたのです。すなわち、パンデミック後の「平城京」内外の・下級官人層を中心とする「アノミー」状態を解消するために、「遷都」による人心の刷新と引き締めを行なう。……すでに詳しく述べたとおりです。


 741年元旦に「恭仁宮」で朝賀が行なわれ、これは遷都宣言と言ってよい行事です。毎年正月の「朝賀」は、本来ならば「大極殿(だいごくでん)」に「高御座(たかみくら)」を据えて天皇が座し、大極殿院〔前庭〕に百官を列立させて行なう大儀礼です。国家の行事として、「即位礼」「大嘗祭」と並ぶものです。その意味は、官人すべてを一同に並ばせて、天皇に対する忠誠を誓わせることにあります。しかし、この時点で「恭仁宮」にはまだ「大極殿」ができていなかったので、「内裏」に幕を引きめぐらして、その中で行なっています。

 

 743年元旦には「恭仁宮・大極殿」はようやく完成していましたが、前年末に聖武天皇は「紫香楽宮」に御幸していたために、朝賀を元旦に行なえず、正月2日に行なっています。744,745年は、「朝賀」じたいが取りやめになっています。こうして3年連続で元旦の朝賀を行なえなかったのは異例なことで、通常業務以上に儀式を重んずる古代官人の常識からすれば、よほどのことであるわけです。

 

 ともかくもその当初 741年中は、「恭仁京」の建設が盛んに進められていました。が、同年末になると、聖武天皇は早くも「紫香楽宮」の建設に着手するのです。742年以後は、「恭仁京」の建設も続けながら、「紫香楽宮」建設のほうに徐々に軸足を移していきます。その過程で重要なのは、5度にわたる聖武天皇の「紫香楽」行幸です。

 

 第1回行幸は 742年8月で、何をしに行ったのか、わかる史料がないのですが、「刺(さすの)松原」に行ったとありますから、「甲賀寺」予定地の視察ではないでしょうか。山を崩して削平する工事が開始されたか、あるいは、すでに始まっていたその工事の進捗状況を見たのだと思います。この行幸のための天皇宿舎として、「宮町」地区の「北部中心建物」が建てられています。

 

 この時点では、中央官司の要員はまだ「紫香楽」にはほとんどいませんから(初めて「造離宮司」を任命したのが、第1回行幸の直前)、これらの工事には「行基集団」が寄与していたと思われます。

 

 年末から翌元旦にかけての第2回行幸は、742年12月29日に「恭仁宮」を出発しています。

 

 

『聖武天皇は、わざわざ年末もかなり押しつまったときに、なぜこのような行幸を行なったのであろうか。〔…〕

 

 聖武天皇の目的は、紫香楽宮で元旦を迎えることにあった〔…〕そのため、〔ギトン註――恭仁宮での〕朝賀の儀式が一日ずれることもいとわなかった。

 

 〔…〕聖武天皇は〔ギトン註――紫香楽宮の〕「北部中心建物」に入った。その建物と狭い前庭に、行幸に従ってきた官人たちを集め、〔ギトン註――元旦の〕儀式を行なったのであろう。〔…〕朝賀に類するものであろう。

 

 おそらく聖武天皇は、官人たちに廬舎那大仏の造顕予定地を見せ、大仏や甲賀寺の造営に協力することを求めたのであろう。〔…〕

 

 朝賀は、臣下が天皇に忠誠の意思を示す儀式で、大儀として重視された。〔…〕聖武天皇は、自分がやろうとしていることに対する官人の賛同と忠誠を求めたのではないか。

栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,pp.245-246. 

 

 

紫香楽宮址 宮町遺跡          滋賀県甲賀市信楽町宮町

 


 第3回行幸は、743年4月の 14日間。2370人の官人を陪従させて、「紫香楽宮」で全員に禄を支給しています。

 

 

『このように大量の官人たちに同行を命じたのは、廬舎那大仏と甲賀寺の造営予定地を披露し、さらに多くの官人たちの協力を求めるためであった。

栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,p.246. 

 


 第4回行幸は、743年7月から11月までの4か月間で、「紫香楽宮」に長期滞在しています。そしてこの間に、さまざまなことを行なっています。

 

 まず、9月に、甲賀郡の「庸・調」を畿内(大和・山城・摂津・河内・和泉)と同じ扱いにしています。すなわち、「調」は半額、「庸」は免除。あわせて、今年の「租」を免除しています。「紫香楽」を都とするための前倒し措置ということができます。

 

 10月15日には「大仏造顕の詔」を出します。重要なので、内容の検討は後ほど節を改めてすることにします。

 

 翌16日には、東日本の「庸・調」を「紫香楽宮」に納付させる指示。19日には、

 


『廬舎那仏像を造り奉らむが為に、始めて寺地を開く。是(ここ)に於て行基法師、弟子等を率ゐて衆庶を勧め誘(みちび)く。』

青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.27. 

 

 

 とあります。「初めて寺地を開く」は、「甲賀寺」造営工事の一段階です。正確にどんな段階なのかは分かりませんが、翌年 11月には「体骨柱」を立てていることからすると、すでに森林の皆伐と山崩しは終えていて、あらかた平らになった土地を踏み固めて整地する段階ではないでしょうか。行基が「衆庶を勧誘した」とありますが、単に寄付を募っただけではなく、「知識」集団を組織して工事の労役や石工・木工などの技術作業を行なったのです。

 

 

『このように、第4回目の足かけ4か月の行幸の間に、廬舎那大仏の造顕、甲賀寺の造営など、聖武天皇の重要な事業が正式に認知された〔それまでは「行基集団」の協力を得て私的に行なわれていた寺院建設が、朝廷の事業として進行し始めた――ギトン註〕。それだけでなく、この天平15年を中心に、〔…〕宮町盆地で「中央谷」の埋め立てが進み、「中心建物群」の建造が進んでいた。

 

 以上の 4回の行幸を通覧すると、4回目の廬舎那仏造顕の正式スタートこそが中心であると捉えることができる。それに向けて準備が積み重ねられた。紫香楽宮もそのための拠点として造営が進められた〔が、聖武の終局的意図は、「紫香楽」を、廬舎那大仏を戴く聖なる首都とすることであった――ギトン註〕

栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,pp.250-251. 

 

 

後期難波宮 大極殿址         大阪市中央区法円坂1丁目

 

 


【114】 「紫香楽京」vs「難波京」――聖武 vs 元正

 

 

『以上のような聖武天皇の行動は、さまざまな波紋を投げかけた。

栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,p.252. 

 


 4か月間の行幸から「恭仁宮」に戻った 743年末には、「恭仁宮」の造営を停止します。「紫香楽宮」と「甲賀寺」の建設が本格化したので、「恭仁宮」には人員と物資を割けなくなったのです。

 

 

『これは、紫香楽地域における廬舎那大仏・甲賀寺・紫香楽宮の造営に国力を集中する方針を鮮明に示したことを意味する。しかしこの決断は、聖武天皇の行動に懸念を持つ元正太上天皇や橘諸兄、それに連なる貴族たちを大きく刺激した。彼らは行動を起こしはじめた。

 

 その現れが、難波遷都の動きである。

栄原永遠男『聖武天皇と紫香楽宮』,2014,敬文舎,pp.252-253. 

 

 

 栄原永遠男氏は、聖武天皇と橘諸兄元正太上天皇とのあいだに対立ができて、貴族たちがそれにつられたように把握しておられるのですが、私の見方は少し違います。

 

 聖武天皇の行動が、朝廷の慣例からすれば常軌を逸していたことは否定できません。「紫香楽」への集中が誰の目にも明らかとなるにつれ、官人・貴族一般のあいだに異和感と波紋が広がっていったと思うのです。元正橘諸兄は、貴族たちからの「良識的」な危惧の声を受けて、聖武に対立する姿勢をとらざるをえなかったのです。それぞれが別の都の建設を進行させるという、国家の分裂にもなりかねない深刻な対立でありながら、決定的な分裂や内乱に至らず、適当なところで妥協しているのは、このような対立の構造があったからだと思います。

 

 貴族・官人らの異和感の理由は見やすいと思いますが、あらためて挙げれば、①「山に囲まれた聖都」への異様な固執、②交通・産業の中心地からあえて離れる不便さ、③聖武の言動に見える・天皇としては異例の仏教臭さ、④律令支配体系から逸脱した「行基集団」との連携、⑤それだけでも容易でない新都「恭仁京」の整備を、中途で放り投げてしまう・一貫性の無さ、などなどです。


 ③については、のちほど詳しく見ますが「大仏造顕の詔」が典型的です。

 

 

『朕は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位をうけつぎ、その志は広く人民を救うことにあり、努めて人々を慈しんできた。すでに国土の果てまで朕の思いやりの恵みで潤っているけれども、天下一切が仏の法恩に浴しているわけではない。そこで、誠に三宝〔仏・法・僧〕の威光と霊力に頼って、乾坤〔天地〕相泰らかに、万代の福業を修め、動植物みな栄えることを望むものである。

 

 ここに天平15年、〔…〕菩薩の大願を発して、廬舎那仏の金銅像一躯をお造りすることとする。〔…〕

宇治谷孟・訳註『続日本紀(中)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.22.〔一部改〕

 

 

 これを、たとえば元正が天皇在位中に述べた「詔」↓と比べると、ほぼ同じことを言っているのに言葉づかいが大きく異なっています。上の聖武の「詔」は仏教の用語と概念をちりばめているのに対し、元正のほうは、もっぱら儒教・道教の言葉と考え方を用いています。奈良時代の天皇の「詔」としては元正のほうがふつうで、聖武の「詔」は一種異様なのです。

 

 

『乾坤〔天と地が〕互いに協力し合う徳はまことに深く、天皇がこのうえなく公平に治めれば、徳化の慈しみが人民にゆきわたる。だから、天子の座にあって統治する人は、かならず天に代わって徳化をすすめ、北極星に則って政治を行なう人は、また時の巡りにしたがって人民を潤し育むものである。そこで朕は京城を巡って遙かに郊野を望み見たところ、芳春の仲月〔2月〕、草木は繁り栄え、〔…〕どうして心広い恵みを与えて人々を安んじ、教化して万物を救わずにいられようか。〔…〕

宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, pp.247-248.〔一部改〕

 

 

後期難波宮 大極殿址         大阪市中央区法円坂1丁目

 


 さて、急速に抬頭してきた「難波宮遷都」の動きに対して、聖武天皇が執った対抗手段は “世論調査” でした。はじめは朝堂に百官を集めて意見を言わせ、つぎには市場に行って人民の意見を聴取し、それぞれ数字にして報告させたのです。

 

 これを見ても、聖武天皇という人が、古代国家の君主としては、いかに変わった考えを持った人だったかがわかります。このような・計数を伴なう “世論調査” は、おそらく日本では初めてでしょうし、中国や近隣諸国に例があるのかどうか、私にはわかりません。ただし、これを民主主義のようなものだと思ったら大間違えです。

 

 聖武天皇はあくまで、自分の意見を通す手段として “世論調査” を利用しようとしたのです。

 

 質問は2択で、2つの都のうち、どちらかを選ばせる。「難波」と「紫香楽」から選ばせたら、「難波」が多くなるに決まっています。「難波」は商業盛んな港町。「紫香楽」はへんぴな山の中です。そこで聖武天皇は、「難波」と「恭仁京」から選ばせるのです。

 

 ‥‥聞くところによると、「難波」に都を移そうなどと言っている輩がいるらしい。そこで、みんなの意見を聞きたい。都を「難波」に移すのがいいか? それとも今までどおり「恭仁京」を都とするのがいいか?

 

 もう「恭仁京」の造営などは停止して「紫香楽」に全国力を集中しているのは周知の事実なのですから、この聞き方は白々しいとしか言いようがありません。

 

 

 

 

 

 

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