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興 福 寺    五 重 塔

730年、光明皇后(藤原光明子)の発願で造立。

現在のものは 1426年再建。

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
  • 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
  • 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
  • 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
  • 681年 「浄御原令」編纂開始。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
  • 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
  • 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731建立)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)5件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか7院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鐘寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」を造営開始。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立。
  • 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」に遷都の勅。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「廬舎那仏」(大仏)造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。
  • 745年 「紫香楽」に遷都か。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。
  • 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。

 

 

興 福 寺    東 金 堂

726年、聖武天皇 の造立。

現在のものは 1415年再建。

 

 

 

【62】 光明立后と「藤原4子政権」

 

 

 「長屋王の変」がもたらした衝撃は、下級官人層以下をオカルトに熱狂させただけではありませんでした。朝廷内では、その年 8月に藤原光明子が皇后に立ち、翌々年にかけて故・藤原不比等の4子がつぎつぎに太政官・議政官に加わる政権構図の大転換が起きていました。「長屋王の変」そのものが藤原氏が裏からしかけた陰謀だったとみる見解〔通説。私はそう思わないが――ギトン註〕をとるならば、これはむしろ既定の政権再編計画の実行だったことになります。

 


『長屋王とその一族がこの地上から消え去り、聖武天皇の血統的コンプレックスを刺激する最も主要な原因はなくなったといっていい。

 

 だが、聖武とすれば、まだ大きな課題が残っていた。彼自身を起点とする皇統の創出であった。〔…〕8月10日に公表された〔…〕光明立后は、皇太子を失うという挫折から立ち上がった聖武の再起第一歩にほかならなかった。

 

 それから 14日後、聖武は 5位以上の官人と諸司の長官らを内裏に招き入れ、かれらにつぎのような宣命(せんみょう)を親しく伝えた。

 

 〔…〕皇太子が亡くなってしまったけれども、皇太子の母である安宿媛〔藤原光明子――ギトン註〕は健在である。だから、彼女をあらかじめ皇后に立てておいて、いずれ近い将来、彼女が生むであろう皇子を皇太子に立てようと思う、ということである。〔…〕だが、皇后は皇族出身の女性という慣例があったために、この後〔宣命の後半で――ギトン註〕、聖武は弁解に四苦八苦するのである。〔…〕聖武は即位してから 6年がたつが、いまだに皇后がいないというのは体裁が悪い、だから安宿媛を皇后にするという〔…〕不比等の天皇家への忠誠を考えれば彼女〔藤原不比等の娘である光明子――ギトン註〕を決して粗略に扱ってはならない、かつて祖母〔元明天皇――ギトン註〕がそのようにいったから彼女を皇后にするのだというのである。〔…〕

 

 聖武天皇が藤原氏というものをパートナーにえらび、自分を起点にした皇統を創り出すのにどれほど苦慮しているのかが、この宣命からは窺える。』

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.91-97.  

 

 

 

 

 藤原光明子の立后とならんで、もうひとつの大変動は、皇族の長屋王に代わる「藤原4子」政権の誕生です。ただし、ここで芽生えた藤原氏の抬頭は、まもなく疫病の流行という思わぬアクシデントによって挫折を余儀なくされるのですが。

 

 

『まず、長屋王一族が亡くなった翌月 4日、藤原武智麻呂が大納言に任命された。武智麻呂は不比等の長子である。』

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.98-99.  

 

 

 これで、以前から参議だった房前とあわせて、天皇の下の最高合議決定機関である太政官・議政官に藤原氏が2人いることになりました。これは、各有力氏族から1人ずつ議政官を出して国政を決めるという・これまでのルールを破るものでした。その後、731年に大伴氏の大納言・大伴旅人、732年2月に阿倍氏の中納言・阿倍広庭が死去し、議政官のポストがあきますが、同年8月11日に藤原宇合麻呂が参議に任命され、あいたポストは藤原氏によって占められてしまいます。

 

 こうして「藤原4子政権」が成立するのですが、その 4日前・8月7日に、私度僧の禁圧を一部ゆるめて「行基集団」の活動を事実上容認した「詔」(⇒前回【61】)が出ています。実質的には、政権の誕生と政策の決定は同時であり、「藤原4子政権」の成立が「行基集団」の容認を確定的にしたと言ってよいと思います。

 

 「藤原4子政権」が「行基集団」を容認したということは、長子・武智麻呂が容認に転換したことを意味しますが、この時点でとりわけ容認方向に向ける役割をしたのは、3男の宇合(うまかい)だったと思われます。藤原宇合は、726年から政権入閣後の 732年まで、「知・造・難波宮・事」の職にあって、難波宮の修築造営に従事していました。

 

 「難波宮」は、かつて孝徳天皇がここに遷都し〔651年。前期難波宮〕、3年後に崩御したために荒れた状態になっていました。聖武天皇が同じ場所に「後期難波宮」を造らせたのは、はじめは平城京に対する「副都」とする意図だったようですが、紆余曲折を経て 744年には正式に「難波宮・遷都」の「詔」を公布します。

 

 「難波宮」の みやこ ないし宮城としての機能には、西国方面に、さらに大陸へと向かう港である「難波津」の存在が欠かせません。藤原宇合の在職中の仕事も、「難波津」の改修・整備に比重がありました。その間、730年には行基も、摂津國西成郡津守村に「善源院」「善源尼院」「度(わたり)布施屋」「比女嶋堀川」「白鷺嶋堀川」を起工して、めざましい活動を展開しています。「堀川」は運河ないし河川改修工事です。この津守村は、現・大阪市中央区の御堂筋・三津寺交差点の付近であったと推定されます(吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,pp.114-117, 134)。行基もやはり、「難波津」に近い交通の要所で、土木工事を組織していたのです。

 

 つまり、両方の工事は互いに目と鼻の先で行なわれていたわけで、宇合が行基集団の活躍に目をとめないことはありえなかったと言えます。


 

『天平 2年〔730年〕時の行基の工事量は、知造難波宮事のそれに勝るとも劣らないものであった。

 

 行基の活動は摂津職官人の職務を代行したような大規模なものであったから、行基集団の動向は宇合によって観察され知悉されていたはずである。しかも行基の工事においては、国家の経済的負担とは無関係であったから、知造難波宮事として行基への評価は高まらざるをえなかった。かくして宇合の武智麻呂への行基推挽が実現したのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.134. 


 

前 期 難 波 宮  朝 堂 院 西 回 廊    大阪市中央区法円坂1丁目 

 

 

 

【63】 天災におののく聖武――マクベスの呪い

 

 

 ところで、「藤原4子」のさらに上にいる聖武天皇ですが、この時点ではまだ、行基や、民衆布教を行なう僧尼らに対しては、関心をいだいていなかったと思われます。聖武の関心はむしろ、‥亡き皇太子のために「山房」を造らせたことからも窺われるように、吉凶禍福の占いや、道術呪符などにあったと思われます。

 

 この時期には毎年のように大きな自然災害があいついでおり、当時の常識では、それらはみな支配者である天皇の心がけが悪いために起きることでしたから、聖武は自然災害や吉凶の運行に気が気ではなかったのです。

 


『長屋王の変の翌年・730(天平2)年は畿内一帯を旱魃が襲った。6月27日には神祇官の役所に落雷があった。29日には再び雷雨があって、神祇官で火災が発生している。〔…〕翌閏6月17日、聖武は新田部親王に命じて先月の落雷の原因を神祇官の官人に占わせた〔「卜い」すなわち亀卜――ギトン註〕。その結果、全国の諸社に奉幣を行なわせ、礼拝・陳謝〔「礼謝」。謝罪ではなく、拝むこと――ギトン註〕させている。〔…〕

 

 長屋王の変後、落雷・旱魃・疫病・地震といったように、この国を連年のように自然災害が襲ったのである。』

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.100,102.  

 

 

 しかし、この段階では必ずしも異常なほどの「災異」があったわけではなさそうです。『続日本紀』の記録を見ると、旱魃がやや多いかな、という程度です。逆に、冷害・凶作といった記事は無く、飢饉にはなっていないのです。「疫病」が襲うのは 735-737年のことで、社会変動や政変を引き起こすほどの災害は、それ以降に起きています。

 

 にもかかわらず、聖武天皇はたいへんに気にして、ほぼ毎年、神社への奉幣や罪人の大赦を行なわせています。つまり、「災異」は聖武の主観的なものであったのです。『マクベス』のように、長屋王の暗殺で汚れた手、洗っても洗っても落ちない血の汚れを清めようとして必死であったようです。

 

 この間、災害を防ぐための礼拝としては「諸社」への奉幣だけが記され、写経・頒布・転読といった護国仏教的儀式がないのも特徴的です。「長屋王の変」はやはり、仏教・大寺勢力と結びついた陰謀で、その結果、日本固有の神々が怒っている――と思って畏れたのかもしれません。

 

 731年には、日食と赤潮以外には「災異」はなく、8月25日には、「今年は穀物が稔りよく、朕はたいへん嬉しく思う」などと詔していますが、それでも、京中を巡行した時に獄舎の中から「悲吟叫呼之声」が聞こえたと言って、再審を行なうように命じます。そして結局、11月には、死罪以下全員を免罪釈放してしまいます。12月には全国に大赦を行なっています。

 

 732年。「春より旱(ひでり)して夏に至るも雨(あめふ)らず」。諸国の「天神地祇・名山大川」に奉幣させ、「野ざらしの骨や腐った死体を土で覆って埋め」、大赦を行なわせています。

 

 733年。前年の旱魃のせいで、大和・河内・和泉・吉野・紀伊・淡路・讃岐・阿波・遠江等で飢饉になり、賑給〔食糧の配給〕・賑貸〔種もみの貸与〕を行なった記事が 1-3月に集中しています。しかし、この年の作は大過なかったようです。

 

 734年4月、大地震があり、「百姓の廬舎が壊れて圧死者多し」。山崩れ、地割れが生じた。7月、大赦。

 

 735年。5月には大赦を行ない、宮中と4大寺(大安・薬師・元興・興福)で「大般若経」の転読を行なっています。災厄防止に仏教を動員したのは、「長屋王の変」後初めてです。閏11月には再び大赦。

 

 この年 8月に大宰府から、管内で疫病が猖獗しているとの報せがあり、中央への調の運搬を停止しています。奉幣、読経をさせ、長門以東の諸國に「道饗(みちのあへ)祭」〔悪鬼・疫神の侵入を防ぐため街道で行なう祭祀〕を行なわせています。

 

 「この年は穀物の実りが非常に悪く、夏から冬まで天下に〈豌豆瘡〉がはやり、夭折する者多し」と、『続日本紀』編者の文で記されていますが、なぜか、疫病以外の「災異」や不作に関する詔は出ていません。

 

 

前 期 難 波 宮  朝 堂 院 西 堂 址 

 

 

 

【64】 パンデミックと橘諸兄の執権

 


『疫病は翌年はいったん下火になったが、737年になって再び大宰府管内を中心に流行しはじめ、西日本一帯を経て、畿内にも蔓延するに至った。そして、疫病はついに政府の高官たちをもその餌食にしはじめたのであった。』

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.108.  

 

 

 6月1日には、「百官の官人、疫に患(わづら)へり」との理由で「告朔〔毎月ついたちに行なう朝会〕」を中止しています。

 

 4月17日、藤原房前が疫病で死去し、7月13日に麻呂、25日、武智麻呂、8月5日には宇合が、つぎつぎに後を追って没しています。こうして「藤原4子」が全滅する事態となったのです。

 

 藤原氏以外の議政官も次々に犠牲になり、参内が可能な議政官は、ほとんど参議の橘諸兄ひとりとなってしまったので、以後は諸兄が国政の中心となります。同年 9月に大納言、翌 738年には右大臣に任じられています。

 

 橘諸兄は、もと皇族で「葛城王」と呼ばれていました。敏達天皇(推古の夫で天智・天武の曽祖父)の5世孫ないし6世孫(史料によって違う)で、5世以下の皇族は「皇親」の待遇を受けられないので臣籍に降るのは普通のことでした。しかし、諸兄の場合は単なる遠縁の皇族ではなく、聖武天皇のキサキ藤原光明子の異父兄でした(↑系図参照)。しかも妻・多比能は、光明子の同父母妹なのです。聖武夫妻の補佐役として、長屋王などよりはずっと相性の良い続柄であったといえます。

 

 諸兄が 736年に臣籍降下を上表して允可されているのは、聖武の補佐役となって発言力を強める意図があったと思われます。臣下になったほうが天皇の指示を受けやすいし、長屋王のようにライバル視されないで済む。また、行動の自由がきくからです。聖武にも、諸兄を補佐役として親政に近い政治を実現する意向があったかもしれません。それが、翌年の「藤原4子」潰滅によって、期せずして意図した以上のめぐりあわせになったといえます。

 

 「橘諸兄政権」といわれるのは、自派の官人数名を参議として入閣させる 739年以後ですが、しかし実質上は、「藤原4子」病死の時点で「諸兄政権」誕生と言ってよいでしょう。

 


『政府首班の座は藤原4子から橘諸兄に移ったように見えるかもしれないが、それは、聖武が〔…〕乗り換えたというのではない。藤原4子のあいつぐ死去によって、聖武と光明子の信任が、橘諸兄ひとりに重点的にかからざるをえなくなったということである。』

遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,p.109.  

 

 

行基の諸活動に対する政府要人らの容認と保護は、先述のように養老年間〔717-724〕に始まっていた。藤原房前や阿部広庭の容認策は、天平10年(738)右大臣に任じた橘諸兄にも引き継がれたのである。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.152. 

 

 

 

諸 兄 塚 (伝・橘諸兄 の 墓)    大阪府岸和田市池尻町 

行基四十九院」の一つ久米田寺の裏にある古墳が、橘諸兄の墓と伝承され

ている。史実の確証はないが、行基集団と諸兄の繋がりを示すもの。

 

 

 

 

 

 

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