若 草 山 から奈良市街を望む。
黄色枠は平城京・平城宮の範囲。
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。
- 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
- 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
- 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
- 668年 行基、誕生。
- 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
- 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
- 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
- 681年 「浄御原令」編纂開始。
- 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
- 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
- 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
- 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
- 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
- 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
- 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
- 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
- 702年 遣唐使を再開、出航。
- 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
- 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
- 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
- 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、若草山に「天地院」を建立か。
- 710年 平城京に遷都。
《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。
- 714年 首皇子を皇太子に立てる。
- 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
- 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
- 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
- 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
- 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
- 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
- 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
- 723年 「三世一身の法」。藤原房前、興福寺に施薬院・悲田院を設置。
- 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位。長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
- 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731建立)。
- 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池院」を建立、「檜尾池」を築造。
- 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」を起工。
- 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
- 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。
- 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしていると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)5件を起工。
- 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか7院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔。
東 大 寺 三 月 堂 左半分が、諸仏を安置する奈良時代の建物「正堂」。
礼堂(右半分)は鎌倉初期1199年の増築。
【57】 東大寺創建のナゾ――「天地院」の発掘
「奈良の大仏」で有名な東大寺ですが、その創建には2系統の文献史料があって、どちらが史実なのか、いまだに不明です。きょうは、そこから切りこんでいきましょう。
まず、東大寺に伝わる『東大寺要録』によると、708年に行基が若草山の中腹に創建した「天地院」が東大寺の起源で、その後 733年に華厳宗の僧・良弁が「金鍾寺(金鐘山房)」を建立したといいます。正倉院所蔵の絵図には、不空羂索観音を本尊とする現・東大寺「三月堂」の位置に「羂索堂」が記されており、この堂はもとは「金鍾寺」の「羂索堂」であったと推定されています。また、正倉院文書によると、740年頃には、付近に「福寿寺」が建立されています。
741年に「諸國に国分寺・国分尼寺建立の詔」が発布されると、「金鍾寺」は「金光明寺」と改名されて大和國国分寺となったことが、『東大寺要録』引用の太政官符により判明しています。やがて「金光明寺」は「東大寺」と呼ばれるようになる。「福寿寺」なども統合されて、一帯の諸坊堂宇の全体が華厳宗寺院「東大寺」となる。
他方、正史である『続日本紀』によれば、聖武天皇が、728年に2歳で夭折した皇太子を弔うため、同年に「山房」を造営し、僧9人を選んで住させた。それが「金鍾寺(金鐘山房)」の初めで、僧のひとりが良弁だったとされます。そのあとの経緯は、東大寺の寺伝と同じになります。
そうすると、開基や建立の経緯を除いて、目に見える状況だけ考えてみると、現・大仏殿の東の若草山斜面には、708~740年頃には「天地院」「金鍾寺」「福寿寺」などの「山房」が並んでいたわけです。「羂索堂」のような仏堂もあった。その後それらが統合されて、大和國国分寺「金光明寺」となり、大仏・大仏殿の造立を経て「東大寺」と呼ばれるようになった、――そのように、まとめることができるでしょう。
しかし、ここで私たちに大きく関わるのは、行基が創建したという「天地院」です。文献史学では、正史を重視する立場から「天地院」の存在は疑問視されていたのですが、最近その遺構が発掘されたことから、がぜん、こちらの系統が真実味をおびてきました。
『東大寺大仏殿の北東、約 750メートルの山あいの、若草山から西に伸びる尾根筋のところに、行基が創建したという天地院とよばれる寺院址が近年発掘調査によって確認された。〔…〕
「東大寺要録」によれば、天地院は和銅元年(708)に行基によって建立されたとある。発掘調査では、〔…〕江戸時代初期の「寺中寺外惣絵図」に記されている天地院址であるとみて間違いないとしている。』
千田稔『天平の僧 行基』,1994,中公新書, p.97.
『東大寺二月堂の北東約400m、尾根上に位置する東西約120m、南北約50mの平坦地「丸山」において防災用の貯水槽設置が計画され、1990~92年に橿原考古学研究所によって平坦地東端にトレンチ調査が行われる。結果、基壇状の高まりに3x3間の塔跡が検出され、行基創建と伝承される天地院跡と推定されている。和同開珎は塔の西端、北2列目の柱堀方の根石埋土内より2枚出土し、創建時の埋納物と推定されている。
伝承では天地院は行基により和銅2年に創建されたとされるが、発掘調査における出土土器からも、奈良時代における活動は平城Ⅱ型式の時期に限定されるとし、伝承が事実である可能性を報告書では示唆している。』
奈良文化財研究所「和同開珎出土遺跡データベース」.
行基が「天地院」を創建したとされる 708年といえば、『行基年譜』などの行基側の史料では、生駒山東麓の「生馬仙坊」で病母を孝養していた、あるいは、行路人の救済と布教を開始していた年代です。その時点で、のちに平城京となる地を隔てた東側にも山坊を建立したというのは、ちょっと信じがたい気もします。
しかし、かりにこの東大寺史料を事実だとしてみます。するとどういうことが考えられるか? 708年といえば、元正天皇の「新都造営の詔」が出ています。いよいよ平城京造営開始。工事のために集められた役民や、資材運搬の運脚夫が向かってゆくなか、行基も、新都の東側にも救済の拠点を設ける必要を感じたかもしれません。
また、この時点では、行基の宗教活動は、まだ多分に「山岳仏教」の特質を引きずっていたでしょう。「生馬仙坊」に対応して、新都の東側にも山岳寺院を設けて、初期「行基集団」の根拠地としたかもしれません。
天 地 院 址 奈良市川上町 若草山中腹「丸山」
右の貯水槽建築の際行なわれた発掘調査で
塔基壇の遺構が検出され「和同開珎」等が出土。
【58】 東大寺創建のナゾ――若草山原の「一万人集会」
こうした初期集団と山岳仏教に深くかかわる「天地院」の存在が、大きな意味をもってくるのは、「長屋王の変」〔729年〕後に出された朝廷の「第5禁令」との関係においてです。
『「続日本紀」天平2年(730)9月29日条には安芸・周防の國の人々がみだりに禍福を説き、多くの人を集めて死魂を祀って祈るところがあるという記事を載せている。ここにいう死魂とは鬼神のことであり、〔…〕道教的な鬼神信仰に近い行為ではなかったかと思われ〔…〕る。
この記事に続いて、京に近い東側の山原に、多くの人数を集めて妖言をはき、民衆を惑わしている者がいて、多い時は一万人、少ない時でも数千人が集まり、このようなことは法律に違反するので、放置すれば被害がますます大きくなるから許してはならないと記している。〔…〕
都の東の丘陵で、怪しげなことばでもって、人々を惑わしている人物とは誰であろうか。当時、数千人から一万人の人々を集めることができた人物は、そんなに多くいたはずはない。一説に、この人物こそ行基ではないかとする見解がある。私も行基ではなかったかというおぼろげな想定をもっている。』
千田稔『天平の僧 行基』,1994,中公新書, pp.96-97.
行基が、数千人~1万人の聴衆を集められる宗教者だったことは、『続日本紀』749年2月2日、行基死去の際に掲げられた伝記にも記されています:
『〔…〕はやくから都や田舎をあまねく廻って、多くの人々を教化した。僧侶や俗人の多くの人々が、教化を慕ってつき従い、どうかすると千人単位で数えるほどであった。行く先々で和尚の来るのを聞くと、巷にいる人がなくなるほどで、争い集ってきて礼拝した。』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(中)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, p.71.
『私も行基ではなかったかというおぼろげな想定をもっている。というのは、平城京のまさに東、〔…〕若草山から西に伸びる尾根筋のところに、行基が創建したという天地院とよばれる寺院址が近年発掘調査によって確認されたからである。〔…〕
この場所に和銅年間に行基が天地院をつくっているとするならば、行基の活動のひとつの拠点であったはずである。京の東の丘陵に数千人から一万人もの人々を集めて妖言をはいた人物は、行基その人であったという想定も、あながち否定できない。』
千田稔『天平の僧 行基』,1994,中公新書, pp.97-98.
天 地 院 址 奈良市川上町 若草山中腹「丸山」
しかし、「京の東の山原に数千人~1万人」という「第5禁令」の出た 730年9月という時点を、行基側の史料で見ると、この年には行基は摂津國で「院」と橋梁・港湾の築造に忙しく、とても平城京の東の丘に行っているヒマはないように思われます。9月には、2院1橋を起工しています。前回掲げた詳細年表の該当年次だけ、もういちど貼っておきましょう:
- 729年 2月、長屋王の変。4月、「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。8月、藤原光明子を皇后に立てる。
- 730年 行基、摂津國兎原郡に「船息院」「尼院」を起工(2月)、同郡に「大輪田船息」を築造。摂津國西城郡に「善源院」「尼院」を起工(3月)、同郡に「長柄橋」「中河橋」「堀江橋」を架設。摂津國鴨下郡に「高瀬橋院」「尼院」を起工(9月)、同郡に「高瀬大橋」を架設。摂津國河辺郡に「楊津院」を建立。4月、光明皇后、皇后宮職(旧不比等邸?)に「施薬院」(+悲田院?)を設置。9月、平城京・東郊の「山原」で数千~1万人を集め、妖言で惑わしていると糾弾(第5禁令)。
もっとも、その前年 729年には、2月に「長屋王の変」が起きて、禁圧が緩んだはずなのに、この年いっぱい、行基の活動は記録されていません。もしも、「京の東の山原」での「1万人集会」が、730年ではなくその前の年のことだとしたら、ここに行基が来ていたとしても、場所と時間のつじつまは合います。
【59】 京郊の「一万人集会」――「妖言」を吐いたのは行基か?
そこで、問題の 730年の「第5禁令」を再度見ると、これは、「安芸・周防」での鬼神信仰の盛行について、禁圧を述べているのがメインで、「京の東の山原」は、そのあとに付け加えて述べられているにすぎません。「安芸・周防」ではたいへんなことになっている。ゆゆしい事態だ。…そういえば、みやこでも似たようなことがあった。――そういう言及だとしたら、730年9月の時点で起きていたとは限らないのではないか? 前年にあったことを書いているとも取れなくはないでしょう。
そこで、ここでも仮に、「京の東の山原」で1万人を集めていたのが行基だったとすると、どういうことになるか? 教団の弾圧を進めていた長屋王が倒されたことを聞いて、逼塞して嵐の過ぎるのを待っていた「行基集団」の人びとは、徐々にまた平城京に集まって来たでしょう。もう集まってもだいじょうぶだ。それなら行基菩薩を呼んで来い、ということになる。
人 形(ひとがた)左2枚、斎 串(いぐし)右2枚 岐阜県関市 弥勒寺西遺跡出土
いずれも、穢れをなすりつけて流す禊(みそぎ) に使われたもの。
この時点――「長屋王の変」直後――の状況は、729年4月の「第4禁令」を見ると、よくわかります:
『4月3日、次のように詔した。
内外の文官・武官と全国の人民のうち、異端を学習し、幻術を身に蓄積し、厭魅〔図形・人形などを用いて人を害する呪い。またその人形や図形――ギトン註〕・呪詛〔「厭魅」を用いて人を呪うこと――ギトン註〕によって、多くの人びとを害し傷つける者があれば、主犯は斬刑に、従犯は流刑に処する。
もし山林に住みついて、詳(いつわ)って仏法を修行すると言い、自らも教習し人にも伝授して、〔ギトン註――道術の〕呪符を書いて封印し、薬を調合して毒を造り、万人を怪しませ、勅命の禁止に違反する者も、同罪である。
その妖書〔災祥を説き吉凶を予言する類の不穏な書――ギトン註〕は、この勅が出てから 50日以内に〔ギトン註――妖書を持っている者は〕自首せよ。もし期限内に自首せず、後になって告発された場合は、主犯・従犯を問わずすべて流罪にするであろう。その告発した人には絹 30疋を賞として与えるであろう。その絹は罪人とされた家から徴発する。』
宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』全現代語訳,1992,講談社学術文庫, pp.300-301.〔一部改〕
まず、2段目で「内外文武百官及天下百姓」と言っており、僧尼ではなく俗人を対象としていると、いちおう見られます。そして4段目で「妖書」の所持禁止を細かく述べている点からも、この「詔」の対象は字の読める人、すなわち下級官人層以上の人々であるといえます。
そして、行為の内容は「異端」の学習、「幻術」の習得、「厭魅〔人形 ひとがた 呪い〕」の実践です。「わら人形」の釘打ちのようなオカルト術ですが、こうした術は、それを記した「妖書」で広められ、この「長屋王の変」直後の時期には、在京の官人のあいだに盛行していたことがわかります。長屋王が「禁令」で托鉢布教僧を厳しく排除したために、仏教よりもさらに異端な方向に人びとの関心が向かったのかもしれません。その結果は、長屋王自身が、「厭魅」を実践しているとの・あらぬ疑いをかけられて自滅ないし密殺されることとなったわけです。ともかく、「異端・幻術・厭魅」に熱中したのは官人、人数でいえば下級官人が大部分であったと思われます。
「詔」が、すぐに妖書を持参して自首すれば許すとか、密告を奨励するとかしているのは、この流行が一部の人の非行ではなく、相当に多くの官人を巻きこんでいたことをうかがわせます。
つぎに3段目ですが、「いつわって」を除いて読めば、ここに書いてあることはほとんど仏教僧の「山林修行」そのものです。「封印書符」は道教ですが、道術を多少加味した山林修行僧は珍しくなく、「僧尼令」でも、道教の「符」による呪禁は許されていました(吉田靖雄『行基と律令国家』,p.108)。そもそも、この前年 728年には、聖武天皇自身が若草山の斜面に「山房」を建造させて9人の僧に住持させています。彼らの「山房」での山岳修業の実践と、ここで禁止されている山林での「詳道仏法」との相違は微妙なものでしょう。
つまり、3段目の禁止には無理があるわけで、なぜこのような禁令を出すかといえば、「山林修行」が盛んになりすぎて、あるいは「山林修行僧」のところに崇拝者が集まりすぎて、朝廷の高官が不安を感じるほどになっていた、「長屋王の変」直後はそういう状況だった、ということだと思います。
以上に対して、ここで禁止対象に挙げられていない行為としては、①一般の人民が情に任せて僧形になって私度僧のふるまいをする、②僧尼が正式の許可を得ないで托鉢行をしている、③巷に離合集散して、みだりに罪福を説き、朋党をなして行動している、④自分の指を焼いたり皮を剥いだりしている、⑤戸別訪問して、いいかげんなことを説いて、謝礼を要求する、⑥聖人・菩薩を自称して人びとを妖惑している、⑦気軽に病人の家を訪問して、祈祷・巫術〔神降ろし〕を行ない、吉凶を占い、謝礼を要求する。――これらはみな、「行基とその弟子ども」を名指して糾弾している「717年の禁令」に挙げられているものですが、今回の禁令にはまったく出てこないのです。
そうすると、ここで朝廷が禁圧しなければならないと考えている・この 729年段階の流行は、初期「行基集団」とはかなり異なる宗教現象だったと言わざるをえません。私度僧を含む僧尼の集団が街頭で説教したり戸別訪問したりして布教してゆく・初期「行基集団」のような活動ではない。その種の運動は、長屋王政権の弾圧政策によって、729年段階にはすでに終息していたと見るべきでしょう。
代わって現れてきたのは、下級官人層を中心とする人形(ひとがた)呪いやオカルト魔術、そして、「山林修行僧」への異常な人心の集中・傾倒だったのではないか、ということが考えられます。おそらく、長屋王政権によって、「行基集団」のような宗教行為に接する機会を奪われた人びとの関心が、そうした方面に向っていったのでしょう。とくに、「山林修行僧」に関しては、聖武天皇みずから若草山麓に「山房」を設けて修行をさせている。呪符や調薬を含む「山林修行」の実践を、天皇みずからが公認・奨励しているように、一般人には見えたかもしれません。
このような状況のもとで、行基が若草山に呼ばれてやってきて、説法をしたとすれば、数千人~1万人はかんたんに集まったでしょう。人びとは、宗教に、心の「よすが」に飢えていたのです。
8世紀の 郡 衙(郡役所) 美濃國牟義郡 岐阜県関市 弥勒寺東遺跡
【60】 「一万人集会」――行基は無関係か?
しかし他方で、呼ばれてきた(ものと仮定して)当の行基の受け取り方は、どうだったでしょうか?
行基は、すでに初期「集団」のような・托鉢行・布施行をもっぱらにする実践からは離れていました。信徒たちが、人力・資材・費用をそれぞれに拠出して集め、土木工事のような実のある事業を行なうという・新たな「利他行」の方向に踏み出していたのです。一時的に「山原」におおぜいの崇拝者を集めて「一万人集会」を行なったからといって、それだけでは何にもならない。まして、集まってくる崇拝者の心中が、「わら人形」のオカルトやら、魔法の呪符、妙薬、不老不死薬が欲しいなどというものであったなら、もう何をか言わんやでしょう。
おそらく、しばらく滞在した後で郷里に戻り、摂津國方面での新しい運動の組織化に向っていったのではないか。
ちなみに、この 729年ないし 730年の「1万人集会」を、若草山の尾根上にある「天地院」と直接結びつけるのにも、私は疑問を感じます。「天地院」の発掘場所に行ってみましたが(↑写真参照)、‥たしかに平坦な場所ですが、それほど広くはないのです。ここに1万人が集まれるかというと、疑問に思わざるをえません。1万人の集会場所としては、むしろもっと下のほうの、奈良公園で鹿の群れが草を食んでいる野原↓のほうが、ありうる気がしました。
奈 良 公 園 と 大 仏 殿
ところで、上で引用した千田稔氏とは異なって、吉田靖雄氏は、730年の「禁令」も「1万人集会」も、行基とはまったく無関係だとしておられます。この見解の違いは、「行基集団」を、どのようなものと考えるか、組織だった教団と見るのか否かに関わっていると、私は考えます。
『行基は少なくとも 50余人の出家の弟子をもち、その下に在家の郡司級の下級貴族、さらにその下に郷長クラスの識字層の弟子をもった。集団は極めて組織されていた。』
吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.76.
「行基集団」は組織化された集団だと考えれば、集団の外と内の区別は明瞭で、行基と側近僧侶の預り知らないところで、集団の一部が勝手に集会など開くはずはないといえます。京の東の丘の「1万人集会」は、行基が行なっている活動とは趣旨が違うから、これは行基とは無関係だ。そう言えるでしょう。
しかし、私は、「行基集団」はそんなに組織化されたものではないと思うのです。組織された「教団」といえるようなものが日本に成立するのは、最澄・空海以後であって、それより以前の「行基集団」は、多数の小グループの集合体にすぎなかったと思うのです。小グループのなかには、信者が資材を出し合って写経や寺院建立を行なう「知識」集団のようなものから、托鉢行をもっぱらにする私度僧の集団、京の東の丘の「1万人集会」のような・その場かぎりの群衆の集まりまでがあった。それらが、行基という精神的権威を戴いて崇拝するという一点でつながっているのが、「行基集団」の実態であったと思います。
ですから、そのような信仰グループの広がりのなかで、「1万人集会」のような自然発生的な集合がどこかに起こって、そこに行基が呼ばれて出かけてゆくことは、少なくとも後期の活動が本格化する以前にはありえたと思うのです。
【61】 ついに禁令緩和――しかし、朝廷の意図は?
行基が、730年の「第5禁令」が禁圧の対象とした京郊の集会に関わっていたと推定する根拠は、もうひとつあります。
朝廷は 731年8月の「詔」で、「行基集団」ほか私度僧に対する禁圧を一部ゆるめているのですが、これは、行基集団を、「1万人集会」のような集団から切り離して懐柔する政策ではないかと思うのです。この「詔」は、①行基法師に付き従っている者で合法的に修業している男 61歳以上、女 55歳以上の者は出家を許す。②父母・夫の喪に遇って1年以内の修業をする者も許す。これら以外の〔官許された僧尼でない〕托鉢者は厳しく捉搦〔逮捕〕せよ。というものでした。
この「詔」は、「長屋王政権」が倒れて「藤原4子政権」になり、律令による仏教統制が緩和された現れと言えます。①は対象が老人に限定されていますが、②があるので、「父母が死んだ」「夫が死んだ」と言って検挙を免れる余地を与えたといえます。したがって、「行基集団」にかぎっていえば、事実上「私度僧」の禁止を解いたに等しい効果があったと思われます。
もっとも、「行基集団」に属しない者には、この恩恵を及ぼさないものとし、「自餘の・鉢を持ちて路を行く者は、……厳しく捉搦せよ」と言っていることからも、朝廷の意図は規制を緩めることではなく、「行基集団」とその他を分断することにあったと言えます。
そうすると、この731年8月の「詔」で「行基集団」を他と区別して優遇したのは、「京郊1万人集会」のようなアナーキーな集団から、行基とその一派を引き離す意図があったと考えることができます。
それでは、「1万人集会」に集まった人びとは、行基とは切り離されて、どうなったのか? ‥‥そこに、良弁と金光明寺――のちの東大寺、華厳宗――そして大仏造営事業に期待された役割があったのだと思います。宗教と心の「よすが」を求める人々に与えられた・新たな光明。‥‥しかしそれは、行基が一心に求めてきたものとは、なんと異なっていたことでしょうか。。。
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ギトンのあ~いえばこーゆー記
こちらはひみつの一次創作⇒:
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