竹 林 寺 奈良県生駒市有里町
行基の墓所がある。また、707年から 712年まで
滞在した「生馬山坊」をここに比定する。
以下、年代は西暦、月は旧暦表示。
《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。
- 660年 唐と新羅、百済に侵攻し、百済滅亡。このころ道昭、唐から帰国し、唯識(法相宗)を伝える。
- 663年 「白村江の戦い」。倭軍、唐の水軍に大敗。
- 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
- 668年 行基、誕生。
- 672年 「壬申の乱」。大海人皇子、大友皇子を破る。「飛鳥浄御原宮」造営開始。
- 673年 大海人皇子、天武天皇として即位。
- 676年 唐、新羅に敗れて平壌から遼東に退却。新羅の半島統一。倭国、全国で『金光明経・仁王経』の講説(護国仏教)。
- 681年 「浄御原令」編纂開始。
- 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
- 690年 持統天皇即位。「浄御原令」官制施行。放棄されていた「藤原京」造営再開。
- 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受け、比丘(正式の僧)となる。
- 692年 持統天皇、「高宮山寺」に行幸。
- 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
- 697年 持統天皇譲位。文武天皇即位。
- 699年 役小角(えん・の・おづぬ)、「妖惑」の罪で伊豆嶋に流刑となる。
- 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
- 702年 遣唐使を再開、出航。
- 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
- 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
- 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
- 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。
- 710年 平城京に遷都。
《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。
- 714年 首皇子を皇太子に立てる。
- 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
- 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。
- 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。
- 720年 行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
- 721年 元明太上天皇没。行基、平城京・右京に寺地の寄進を受け、翌年「菅原寺」を起工。
- 723年 「三世一身の法」。
- 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位。長屋王を左大臣に任ず。
- 725年 行基、淀川に「山崎橋」を架橋。
- 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。
- 728年 『金光明最勝王経』を書写させ、諸国に頒下。
- 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原光明子を皇后に立てる。
- 730年 行基、平城京の東の丘で1万人を集め、妖言で人々を惑わしていると糾弾される。朝廷は禁圧を強化。
石 凝 院 址 東大阪市日下町
日下墓地にある「行基供養塔」と
「行基火葬場跡・石凝院跡」碑
石凝院址 出土瓦 東大阪市立郷土博物館蔵
【38】 病母にかしずく孝行息子か? 民衆暴動の扇動者か?
故郷の近隣、「須恵器」生産地域の中心部に「大修恵院」を起工した 705年から 717年まで、行基の生涯のなかではもっとも謎の多い時期といえます。
717年に何があったかといえば、「行基集団」の宗教運動に対する禁圧の「詔」が出されています。元正天皇は、行基を名指しして、その活動を具体的に指摘して断罪し、行基とその集団を厳しく取り締まらない関係官吏(僧官と地域下級官吏)を叱責しているのです。しかし、この「詔」があるおかげで、当時、行基を中心とする宗教運動が、天皇や貴族が恐れを抱くほどのもりあがりを見せていた・その具体的なようすを、私たちは知ることができます。
「詔」に描かれた「行基集団」の活動は、元正天皇と、「律令」を奉じる朝廷官吏の眼から見れば、違法で許しがたい盗賊のようなふるまいでした。
他方、『行基年譜』『行基菩薩伝』など、仏教側の史料は、そうした状況については沈黙し、この時期の行基について、①病気の母を引導して転地療養を行ない、「孝養の礼」を尽くしたこと、②諸所に寺院を起工したこと、だけを記しています。これらもまた事実であったとすると、↑「詔」が叙述する激しい宗教運動と、寺院建設に専心する孝行息子のような行動とが、どういう関係にあるのかは、大きな謎です。
そこでまず、『行基年譜』と『行基菩薩伝』をもとに、この期間の細かい年表を作り、『続日本紀』から朝廷の重要な記事をひろって、これに加えてみると(黄色マーカー)、つぎのようになります。
- 701年 「大宝令」を施行。
- 702年 10月、「大宝律令」を全国に頒下。
- 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。帰郷して「家原寺」を開基。
- 705年 10月、行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。この年、生母を引導して右京・佐紀堂に安居。
- 707年 行基、「生馬仙坊」に移り、生母を孝養。
- 708年 元明帝、新都造営の「詔」。
- 710年 3月平城京に遷都。10月、生母が逝去。行基、なお「生馬草野仙坊」で麁服苦食の生活。
- 712年 行基、「草野仙坊」を出る。
- 716年 10月、行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
- 717年 4月、行基を糾弾し違法布教の禁圧を厳命する元正帝の「詔」(第1禁令)。
- 718年 4月、大和國添下郡に「隆福院」を起工。
- 720年 9月、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
- 722年 2月、平城京右京3条3坊に「菅原寺」を起工。
701-702年に朝廷が『大宝律令』を公布施行したことは、行基の「山林修行」の継続を困難にしたかもしれません。『大宝令』「僧尼令」は、寺院外に「山居」して修業することを禁じており、葛木山での「山居」修業と「元興寺」「薬師寺」での修学を交互に行なっていた行基は、寺の高僧から注意を受けたでしょう。当時、僧尼自治統制の最高機関「僧綱」は「薬師寺(本薬師寺)」に置かれていました。
704年に行基が、葛木山での修業をやめて帰郷したのは、『三階経』を読んで「自利行」に疑問を持ったことが大きかったと思われますが↓、「山居禁止の布告」という外的要因も働いていたと考えられます。
『山林修行は、本来的に自己一身の解脱をもって良しとする小乗的実利的性格を持っている。行基が〔…〕山林での苦修錬行の生活〔…〕に終止符をうっ〔…〕たことは、「山林に拱黙するは乃ち是れ一途(いちず)の独善なり」〔『続高僧伝』「功迫伝」〕〔…〕という〔…〕中国人僧侶が到達した疑問に、行基も到達したことを示している。〔…〕
三階宗の教籍を読み進めた行基は、それまでの生活が自利的小乗的生き方であったことに気づき、深刻な懐疑におそわれ〔…〕た。』
吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.31.
ところが、705年に「大修恵院」の造成が始まるやいなや、その完成を見とどけることもなく、行基は母を連れて「右京・佐紀堂」へ移っているのです。『行基年譜』等は、これを病気の母の転地療養のためとしています。「右京」とは、のちの「平城京」西部。「佐紀堂」の址は残っていませんが、「佐紀古墳群」のある「大和西大寺駅」周辺の区域でしょう。「安居」とありますから、修業よりも病母の世話に専念する生活だったように読めます。
このあたりは、古墳造営集団「土師(はじ)氏」の集居地のひとつで、その一部は平安初期には「菅原氏」と改名して菅原道真を輩出し、「菅原天満宮」の本拠となります(⇒:蘇我馬子と…(17)【47】)。「土師氏」の拠点としては、河内の「陶邑」「蜂田郷」のすぐ隣接地にも「土師郷」がありました。行基は、「土師氏」のつてを頼って転居したのかもしれません。
行基はさらに、約1年後の 707年には、約 8km西方の生駒山中にある「生馬(いこま)仙坊」に移っています。のちに行基の墓所となる「竹林寺」の地にほかなりません。この「生馬仙坊」(=「草野仙坊」)でも病母の療養に付き添い、710年に母が逝去すると、712年まで3年間の服喪生活を送る‥‥ 『行基年譜』等には、このように書かれています。
しかし、これを、朝廷の政治史と重ねてみると、行基が「生馬仙坊」にいた5年間は、「平城京」の造営が布告され、大々的に建設工事が行われた時期と一致していることがわかるのです(↑年表参照)。これは偶然とは思われません。
佐 紀 池 奈良市佐紀町
【39】 初期「行基集団」の根拠地
行基が 712年に「生馬仙坊」を出たあと、どこにいたのかは記事が無くて分かりません。716年には、近くの平群(へぐり)郡内に「恩光寺」を起工、翌717年に「禁令の詔」が出ています。
「恩光寺」の場所は不明ですが、旧・平群(へぐり)郡は、現・生駒市の南半分と平群町・三郷町・斑鳩町・安堵町をふくみます。この郡内で「行基開基」の伝承を持つ寺は、近鉄生駒線に沿って、生駒駅の北、南生駒駅付近、東山駅・元山上口駅のあいだ――の3か所にあります(千田稔,『天平の僧 行基』,1994,中公新書,p.88)。「恩光寺」の正確な場所は確定しないが、「生馬仙坊」と同じく生駒山と矢田丘陵に挟まれた谷にあったと言ってよいでしょう。
そうすると、717年の「禁令の詔」に書かれているような活動(次回、詳しく見ます)は、少なくとも「生馬仙坊」を出た 712年以後はずっと行なっていた。いや、‥5年間では短かすぎる。朝廷を揺るがすほどの信者や修行者を集めるには、相当の期間がかかったはずですから、705年に故郷から大和國に移ってきて以来続けていたと考えたほうがよいのではないでしょうか。
そして、その活動は、朝廷の「平城京」造成工事にかかわっていた。造成工事に駆り出された役夫や、資材を運ぶ運脚夫が救済と布教の対象だった、ということが考えられるのです。
年表↑を見ると、「禁令」にもめげず、翌718年には「隆福院」、720年には「石凝(いしこり)院」、722年には「菅原寺」を起工しています。もう「平城京」の工事は一段落したはずですが、「平城京」への税貢の運搬に使役される諸国の運脚夫のために、救済活動を続けていたと思われます。
そこで、これら、この時期に起工された行基の寺院を地図上に振ってみると、つぎのようになります。
横長の画像は、字が小さくなっちゃってよく見えませんね。適宜、部分拡大しながら説明していくとしましょう。
地図の白っぽいところが丘陵~山地で、左のほうが生駒山、右のほうが矢田丘陵。図の右端が平城京の中央――朱雀大路のあたりです。西(左)のほうの難波・河内から、2つの丘陵地を越えて、「辻子谷越」と「暗峠越」という2本の街道すじが、平城京まで通っているわけです。
「辻子(づし)谷越え」と「暗(くらがり)峠越え」は、河内國・難波と大和國を結ぶ最短経路として古くからあった道で、生駒山を昇り降りする険しい道すじでした。しかし、朝廷と国司から厳しい督促を受けていた運脚夫たちは、最短ルートを選ばざるをえないことが多かったでしょう。西国からの庸調は、これらの道すじを通って都に運ばれたと思われます。平城京建設のための資材の運搬や、都城建設の徭役に赴く人びとも、同じ道すじを行き交ったことでしょう。
西のほう(難波,河内側)から見ていきましょう↓。生駒山を越える北側の峠道が「づし谷越え」で、南側の峠道が「くらがり峠越え」。450~550メートルの標高差があります。荷物がなければ楽しいハイキング・コースですが、重い米や反物、また建築資材を背負って越えるのは、どれほどの苦役だったでしょう。
峠の西側の麓に、720年に「石凝院」が起工されています。「石凝院」は、のちに行基が死去した時に火葬した場所でもあります。比定地は、東大阪市・日下町共同墓地の中で(↑上部写真参照)、道すじから少し離れています。が、近くの「石切劔箭(つるぎや)神社」(写真↓)境内からも飛鳥~白鳳時代の古瓦が出ていて(⇒:法通寺跡)、「石凝院」の場所はこちらだった可能性もあります。「石切劔箭神社」は、「辻子谷越え」の沿道にあります。
峠を越えた東側には「生馬仙坊」(現・竹林寺。写真:最上部↑)があります。「生馬仙坊」の位置は、2つの峠道の中間あたり。716年起工の「恩光寺」の候補の一つ(宝幢寺)は、「暗峠越え」の沿道にあります。
石切劔箭神社 東大阪市石東切町
境内本殿裏手の「法通寺址」で、
7世紀初めの古瓦が発掘されている。
生駒谷を越えて東へ進みましょう。「辻子谷越」道は「椚(くぬぎ)峠」、「暗峠越」道は「榁木(むろのき)峠」で矢田丘陵を越えます。2つの道は「砂茶屋」で合流して、平城京の「三条大路」に接続します。「砂茶屋」は近世の地名で、奈良時代には茶屋などもちろんありません。
「菅原寺」は、少し後の時期になりますが 722年の起工。行基が最初に転居した「佐紀堂」は、そのすぐ北方のあたりと思われます。
718年起工の「隆福院」の候補地は3つ(霊山寺,追分廃寺,滝寺廃寺)ありますが、いずれも「暗峠越え」と「砂茶屋」分岐点の近くです。その周辺だけ、さらに拡大してみます↓。
「隆福院」が、3つのうちどれなのかは、決め手がないようですが、私は現地の印象から、「追分廃寺」の可能性が高いと思っています。
追 分 廃 寺 奈良市大和田町
写真中央の四つ辻が「追分」。梅林造成工事のさいに古瓦が
出土したが、当時は保護法規がなかったために、考古学調査
なく、遺跡は破壊された。そのため、詳細は闇である。
追 分 廃 寺 奈良市大和田町
「追分」付近から、平城京方面を望む。
「追分廃寺」は、丘陵のほぼ頂上の位置にあって、平城京方面に向かっては急坂になっています。このような地形は、「行基集団」を取り締まろうとする当時の役人にとっては、障碍になったのではないでしょうか? 中世以降の武士や、現代の警察力とは異なって、王朝時代の下級役人は、取締りや警備を専門にしていたわけではありません。犯罪捜査や警備を専門とする役所ができたのは、平安時代の「検非違使」が最初です。
奈良時代の役人にとっては、ちょっと急坂があるというだけでも、鎮圧に行くのをいやがる理由になったと思うのです。現地で、崖のへりから平城京を見下ろしていると、1300年前の民対官の攻防ドラマが目に映るようで、胸が躍る気がします。
そういうわけで、私は「隆福院」=「追分廃寺」説を支持したいのです。
霊 山 寺 (りょうぜんじ) 奈良市中町
【40】 「行基集団」――意外に広い活動範囲
しかし、この時期の「行基集団」が造った施設については、さらに「布施屋」も考えておかなくてはなりません。
「布施屋」は、行路人救済のために「行基集団」が設けた施設で、各國の庸調を平城京に運んで来る運脚夫に飲食物を提供し、また宿泊させました。当時、主要な街道には 16キロごとに「駅馬」と「駅家(うまや)」が設けられ、朝廷や国司の役人は、急を要する公務出張や公文書送達の際には、この「駅制」を利用することができましたが、運脚夫にはそんなものは許されません(青木和夫・他校註『続日本紀 一』,新日本古典文学大系 12,p.333: 補註2-109)。ことに、都に庸調を納めたあとの帰りには、食糧がなくなり、行き倒れる者が続出したことが、朝廷への報告書にも記されているのです(『続日本紀』,和銅5年正月16日条)。
ただ、残念ながら「布施屋」は、「四十九院」と違って、設置時期を記した資料がありません。おそらくは行路人救済のための・仮設の建物で、寺院のような恒久的施設ではないからでしょう。
史料に残っている行基の「布施屋」は9か所ですが、吉田靖雄氏によると、そのほとんど――少なくとも3か所は、運動の初期に設けられたものです。その3か所を地図に振ってみると、↓つぎのようになります。(吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,pp.55-57. から作成)
水色が「布施屋」の場所。紫の星は、前節で説明した初期の建立寺・院です。この図を見ると、初期の寺院は、行基の郷里(和泉國大鳥郡)と生駒越えの街道沿いに集中しているのに対し、「布施屋」は、ずっと離れた場所にも設けられています。「行基集団」の活動は、寺社の範囲を越えて、畿内一円に広がっていたことがわかります。
北から見てゆくと、「大江布施屋」は、古代「山陰道」の起点である「大枝駅」〔京都市西京区大枝沓掛町〕のあたりに設けられています。
大枝駅・大枝関・大江布施屋・址
「垂水布施屋」〔吹田市垂水町1丁目〕は、「山陽道」と「難波宮」を結ぶ地点にあります。奈良時代の「山陽道」は、淀川を遡上して、大山崎の手前から木津川に沿って平城京へ向かう、かなり迂回した道すじになっていました。近道をしようとすれば、難波まで南下して、生駒越えの峠道を利用することになるでしょう。のちに行基は、「垂水」から南東へ斜めに向かって、「石凝院」の手前で「辻子谷越え」に合流する「直道」を開鑿しています。
「石原布施屋」〔堺市東区石原町・八下町〕は、「難波宮」からまっすぐ南に伸びる官道「難波大道」と、「丹比(たじひ)道(竹内街道)」の交点の近くにあります。「丹比道」を東にたどれば、竹内峠を越えて、飛鳥朝以来の大和の官道「横大路」に接続します。
このように、「布施屋」はいずれも、交通の要衝に設けられ、税貢の運搬や徭役に駆り出される人びとの困難を緩和することに注力したのです。
『布施屋設置は行基の初期の活動の所産であった〔…〕布施屋は、平城京をめざし調・庸の輸送に従事する役民のために宿泊と飲食物を布施する施設であった。布施屋設置は〔…〕行基の初期の布教活動の所産であり、救済され郷里に戻った役民らの行基評は行基が菩薩と尊称される要因となった。〔…〕
布施屋で宿泊と飲食物の接待を受けた役民らは、帰郷して行基の布施屋のありがたさを人々に伝えた。〔…〕が、彼らは所詮帰郷する人々であり、畿内の行基集団の成長に貢献できる人々ではなかった。』
吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,pp.86-87,57.
【41】 行基糾弾の詔
そういうわけで、これから、「行基集団」の活動のようすを具体的に述べて糾弾している詔勅類を見ていきたいのですが、かなり長い「詔」を2,3本扱うことになります。しかし、途中で切らないで、それらをまとめて考察したいのです。
そこで、きょうは若干短いですが、このへんで終りにして、次回は関係の詔勅をまとめて検討したいと思います。
よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!