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 矢田山頂上から遊歩道を戻って、「東明寺分岐」で「矢田自然公園」方面に折れる。こっちには、なぜか団体客は来ない。古い矢田丘陵の良さを満喫できる。

 

 

 

 

 「東明寺分岐」↓。さっきは左から来たが、右へ下りて行く。このへんはヒノキ林。やがて雑木が増えてくる。クリ、クヌギなど。


 

 

 

 

 ↓この辻は、道標は左になっているが、むかしからある路は右だ。左は変なほうへ出そうだ。右へ行く。

 

 

 

 


 「矢田自然公園」。「峠池」の中央堰堤を渡る。渇水期なので、右側の下池は干上がっている。

 

 


 

 

 


 「自然公園」から「霊山寺」方面へ下る。

 

 

 

 

 「追分」集落に到着。矢田丘陵・「自然公園」方面をふりかえる。

 

 

 

 


 「追分」集落の全景を見渡せる場所があったので、そこから1枚↑。丘の “頂上” のような場所に蟠踞している。ここは、奈良時代には、行基が「隆福院」を設けた地。丘陵を縫って難波(大阪)と平城京(奈良)をむすぶ「暗越(くらがりごえ)街道」がつらぬく。

 

 「暗越街道」は、難波から「(くらがり)」で生駒山地を越え、「竹林寺」の付近を通って、「榁木峠」で矢田丘陵を越え、この「追分」から「霊山寺(りょうぜんじ)」に下り、大和西大寺南方の「菅原寺」に向かう。「霊山寺」は行基の創建と伝えており、「菅原寺(喜光寺)」も行基の創建、行基はその一隅にあった僧庵で終焉を迎えた。まさに、第Ⅱ・Ⅲ期の行基が、崇拝者の群れをしたがえて往来した山間の隘路。きょうはその路を歩いている。

 

 「追分」の四つ辻↓。奈良へ向かう街道と、郡山方面への道の分岐になっているので「追分」と云う。かどの家は、江戸時代に「本陣」だった屋敷。

 

 「左 こうり山 道

  右 大坂 道」

 

 という石の道標が立っている。 

 

 

 

 

 

 四つ辻の向かい↓にも道標がある

 

 

 

 

 

 こちら↑の道標の近くで、1968年、「追分梅林」造成の工事中に、大量の古瓦が出土した。その様式から、奈良時代の寺院や宮殿を葺いた軒瓦(のきがわら)であることがわかり、さらに、奈良「興福寺」の創建期の瓦と同范(どうはん)〔同じ木型で造られたこと〕であることが判明したので(⇒:「同范瓦」とは?)、奈良時代初めの寺院の址として「追分廃寺」と命名された。

 

 現在では、「追分廃寺」は、行基が 51歳時〔718年〕に建てた「隆福院」と推定されている(⇒:「奈良歴史漫歩」)。

 

 「追分」の直下にある「霊山寺」は「隆福院」の後身と考えられ、この付近には他にも、「追山廃寺」「滝寺」など、古代瓦を出土した寺院跡がいくつもある。

 

 この生駒矢田丘陵から富雄川流域に至る一帯は、第Ⅱ期の行基が流民や下層民衆を集めて布教し、律令政府の弾圧に抵抗した古代社会史の舞台であった。

 

 『続日本紀』養老元年〔717年〕条には、つぎのような元正天皇の詔(みことのり)が記録されている:

 

 

 「4月23日、次のように詔した。

 

  〔…〕(まさ)に今、小僧(しょうそう)である行基とその弟子たちは、道路に散らばって、みだりに罪業と福徳を説き、徒党を組んで悪事をたくらみ、指に火をつけて焼いたり、臂(うで)の皮を剥いで経文を写したり〔インド仏教の古い風習という〕、家々をめぐって災祥を偽り説き、食物以外の物を要求し、詐(いつわ)って聖道と称し、人民を惑わしている。僧侶も俗人も乱れ騒いで、各層人民は生業をおろそかにしている。〔…〕まことに監督の官が厳しい取締りをしないから、このような弊害を生んでいる。今後このようなことがあってはならない。これを村里に布告し、つとめて禁止せよ。〔…〕

 

  5月17日、次のように詔した。

 

  国中の人民が四方に流浪し、たくみに課役を逃れようと図り、〔…〕僧侶となることを求めたりしている。〔…〕もしこのような者たちがいて、安易に匿(かくま)い留めておく者があるならば、状況を調べ、律令のおきての通りに罪を科せ。〔…〕

 宇治谷孟・訳註『続日本紀(上)』,現代語訳,1992,講談社学術文庫,pp.182-184〔一部改〕.

 

 

 「追分」付近から奈良方面を望む↓。たしかに、こんな山の上では、朝廷の取締りも容易ではなかっただろう。 壮麗な仏堂のまわりに、布施をもとめて集まった人びとの難民キャンプのような状景がひろがっていたのではないだろうか‥

 

 

 

 

 「追分梅林」↓。北斜面なので、まだほとんど咲いた樹はない。

 

 

 

 

 

 霊山寺」に、裏から入る。↓「三重塔」。鎌倉時代の建築。

 

 

 

 

 ブロンズ製の「行基像」。近鉄奈良駅前にある現代彫刻のコピーだが、なかなかに風格のある秀作だ。

 

 

 

 

 

 これほど由緒ある伽藍の正面入口が、なぜ山門でなく鳥居なのかは、こちらを読むとわかる。昔も今も、天皇の政府が国粋主義に凝るたびに弾圧されたということだ。そのたびに現世利益に傾きはしたが、そうやって大衆の支持を集め、結果として難局を乗り越えてきたのだ。

 

 「霊山寺」前の「富雄川」↓。行基終焉の地「喜光寺」までは、ここから約4キロ。もうくたびれたので、「喜光寺」は、去年撮った写真を貼りつけておこう。

 

 

 

喜光寺「行基堂」

 

 

 

 

 

 

タイムレコード 20230205 [無印は気圧高度]
 (1)から - 1145「矢田山」頂上[340mGPS]1148 - 1156「東明寺分岐」[316mGPS]1156 - 1200「小笹の辻」分岐[339m]1208  - 1221休憩所[267mGPS]1241 - 1305「矢田自然公園」出口[190mGPS] - 1330追分[150mmap]1340 - 1351霊山寺三重塔[103mGPS]1402 - 1418「霊山寺」バス停[86mGPS]。