奈良時代の僧「行基(ぎょうき)」は、ここに橋をかけたとか、ダムを造ったとか、全国に伝説的な行跡の地があるが、じっさいのところ、奈良県と大阪府以外の場所には行っていない。「行基の墓」とされる場所も、数えきれないほどあるが、信憑性のある埋葬墓は、生駒山東麓の「竹林寺」にあるものが唯一だ。ここは、文献史料で記されたとおりの場所から、銀製舎利瓶を納めた金銅筒が出土し、筒には行基の経歴などの墓誌銘が刻まれていた。
「竹林寺」の行基墓を訪ね、竜田川をはさんで生駒山とは対岸の矢田丘陵を散策、丘陵北端にある「霊山寺」に至るコースを歩いてみた。「霊山寺」も、行基が創建した寺院のひとつだ。
シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。
行基(ぎょうき)の生涯は、おおまかに3つの時期に分けられるだろう。河内國大鳥郡で生まれた彼は、37歳まで金剛山の急峻な谷で、その後 46歳まで生駒山中の僧房で修行し、青年時代を深山の幽篁のうちに過ごした。
ところが、山を下りて布教と寺院建立の活動を始めるやいなや、超俗の法師は、混迷する古代社会の真っただ中に跳びこむこととなる。北は蝦夷地から、南は隼人の異郷から、重い税貢を背負ってきた人びとが、帰りの旅費も与えられずに都(平城京)の周辺で膨大な群衆となり、さまよっていたのだ。当時、民衆への布教は厳重に禁じられていたが、行基は禁を犯して、流民の群れと交わった。行基というリーダーを得、神とも仏とも仰ぎ集う人びとを見て、律令政府の役人たちは、行基を妖術使いと思い恐れ、執拗な弾圧を繰り返す。これが、第Ⅱ期。
逮捕・処刑も間近か、と思われた頃、行基は故郷の河内に、ひとまず移り、ここで布教をつづける。河内では、都の周辺とは異なって、渡来系の豪族たちが行基に協力し、匿ったので、ここでは弾圧を恐れることなく事業を継続することができた。豪族(「郡司」層)たちの援助のもと、彼らの意向を反映して、行基の事業は、道路・橋梁の建築、溜池など灌漑施設の造成、そして造寺・造仏を中心とするものになり、「行基集団」と呼ぶべき社会勢力を形成する。かれらは当時、「知識」と呼ばれた。
混迷していたのは民衆だけではなかった。橘諸兄(たちばな・もろえ)をはじめとする高位の貴族、そして聖武天皇自身が、膝を屈して行基の協力を求めるようになった。「知識」集団の労働によって造立された東大寺の廬舎那仏(大仏)が「開眼供養」を迎えたのは、行基が大僧正に叙せられて没した3年後のことだった。
「行基墓」のある「竹林寺」へ行くには、近鉄「一分」駅からが近い。
駅前の踏切を渡って住宅街を少し歩くと、竜田川を渡る。これが和歌に詠われた竜田川か。なんでもないドブ川だが、東国から来た御のぼりさんには感慨深い。
「いつしかと 冬のしるしに 立田川 紅葉とぢまぜ うす氷せり」
藤原 俊成
もっとも、当時の「竜田川」は、この川ではなく、大和川の下流のことだそうだ(⇒:wiki「竜田川」)。
生駒山も見える。「一分」駅から「竹林寺」へ行く道は、高速道路が分断しているので分かりにくい。こちらに最短経路の案内を書いたので、はじめて行く方は参考にされたい⇒:YAMAP
「竹林寺」に近づくと、最初に出会うのは古墳時代前期の前方後円墳。
「行基墓」は、境外、約20メートルにある。土盛りは、鎌倉時代に、発掘した舎利瓶を埋め戻すさいに築かれた。
やや離れて、「忍性墓」があり、周辺にたくさんの僧の墓がある。↓「忍性墓」は、もとは五輪塔だったのが、中台と水輪・火輪だけ残っている。
忍性(にんしょう)・叡尊ら西大寺流律宗(真言律宗)は、非人・病者・孤児の救済、道路・橋梁の建築などの社会事業に信仰実践の場を見出した。その点で、行基は彼らにとって、仰ぐべき先覚者だったのだろう。
しかし、同時に彼ら律僧は、特権的商業や、宋との貿易にも携わって、致富に努めた(⇒:『生きるための日本史』(14)【53】勧進聖)。明治の政商・資本家の先駈けといってよい側面が、彼らにはある。慈善家・改革者の側面だけを見ることはできないと思う。
それは行基にも共通する側面ではないだろうか。第Ⅱ期には流民の救済に努めて朝廷から激しく弾圧された行基が、第Ⅲ期には聖武天皇に協力して大僧正の地位にまで昇ったことに対し、“変節” “変心” “民衆への裏切り” などと非難する人が多い。しかし、この両側面を兼ねることが、この歴史的社会に生き得た・ひとつの伝統的タイプであって、そこには変節も矛盾もないのではないだろうか。
「一分」駅に戻って踏切を渡り、矢田丘陵へ向かう。
山路に入ってまもなく、尾根筋の遊歩道に合流↓。
「大和西大寺」方面が見える。
「神武峯 259m」は、ピークの近くを巻く↓。樹種がおもしろい。クリ、コナラ、リョウブ、ナツツバキ、アセビなどは、雑木林としてありふれているが、アラカシ、アオダモは関西に多いのだろうか。クヌギとアベマキの特徴ある樹皮も目立つ。このあと、追分・霊山寺まで、ほぼ同じ樹相が続いた。
↓「榁木(むろのき)山」。はじめて山らしい形の山を見る。「榁木」は、針葉樹のネズの古名だそうだ。しかし見たところ、ネズどころか竹やぶで覆われている。
「榁木山」のピークを踏んでみたが、案の定うっそうとした竹やぶの中で、路も展望もない。よって写真は省略。私の高度計で 279メートル。とにかく、竹がぎっしり生えている。
↑「榁木峠 270m」。「弘法大師堂」がある。
↓矢田山展望台。ここはまだ山頂ではないが、山頂と勘違いしている人がおおぜい群れている。易しい山に来る団体客はマナーが悪い。道標を力まかせに引っこ抜いたり、大声で他の登山者に言いがかりをつけたり。俗界の外なら何してもいいと思っている。長居すると何をされるかわからないので、風景だけ撮って早々に退散。
「生駒山」↓。頂上のテレビ塔まで、よく見える。
「信貴山(しぎさん)」と「高安山」↓。
↓ここが本物の頂上。矢田山 343m。
山頂付近からは、奈良市街~若草山方面が見える↓。
タイムレコード 20230205 [無印は気圧高度]
「一分」駅[117mGPS]810 - 832「竹林寺」[144mGPS]852 - 907「一分」駅[115m] - 927東生駒南第6公園[154m]932 - 938「矢田丘陵遊歩道」入口[171m] - 953尾根路出会い[230m] - 1000「帝塚山住宅」分岐[234m] - 1006「神武峯」巻く[255m] - 1017「黒谷梅林」分岐[252m] - 1041「榁木山」[279m 268mGPS]852 - 1045「榁木峠」[275m]1050 - 1110「小笹の辻」[313mGPS]1120 - 1130矢田山展望台[333mGPS]1140 - 1145「矢田山」頂上[340mGPS]1148 - (2)につづく。