【16】 第Ⅴ部C章a節――「仕事」の総和:「事そのもの」
ここで、私たちはいよいよ、平子論文の案内によって、「Ⅴ-C-a」節に入っていきます。
平子論文は、まず、「Ⅴ-B-a 快楽と必然性」節と比較しながら、「Ⅴ-C-a」節の内容をおおまかに紹介します。難しい話はいやだ、という人のために簡単に言ってしまうと、〈Ⅴ-B-a はホッブズの “万人の闘争” 状態で、Ⅴ-C-a になるとスミスの自由競争の予定調和的世界になる〉ってことです。「両節はいずれも、近代市民社会における個体の利己的活動と社会(秩序)の関係 を問題にしていながら、両節の視角」は、大きく異なっている、と。
『Ⅴ-B-a において登場する主体は、自分の快楽〔Lust〕または欲望〔Begierde〕の享受にのみ専念する「個別的意識」または「ひたすら個別的であるにすぎない個体性〔die nur einzelne Individualität〕である」(S.256. Ⅴ-B柱書)。〔…〕
ここでは、各個体は、自分の個別的快楽を個別的に享受することのみに固執する。彼は、諸個体の快楽を追求する諸行為が織り合わされることによって、諸個体の個別的意識を越えた一つの普遍的関係が成立する、ということを知らない。ここでは、個体の個別性と、個体相互の間主体的関係とは、決定的に対立させられている。』
平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『経済学研究』,34-2,1984.09.,pp.41左,42右.
自分(たち)の「快楽」のみに専念する人びとは、「快楽」の結果として発生する「普遍的関係」――人間関係を予期していないので、それは、何かまったく彼らの理解を超えた「必然性(さだめ)」の壁が出現したかのように、「運命」に襲われたかのように、彼らには思われるのです。これがホッブズ的世界。つぎは、ヘーゲルの原文↓。< > は、訳書の傍点付き文字(独語原文のイタリック)を示します。
生き生きとした『快楽の享受』は、『生命のない必然性』『空虚で異他的な必然性』という『<死せる>現実である自己』を結果した。‥‥
『個体が生命を受けとったことによって、しかし個体はむしろ死を掴んでしまった。』
自己意識にとって、『必然性』は、『じぶんとは絶対的に<異他的な>実在〔Wesen〕』とみなされることになる。
そのような『<抽象的な必然性>が妥当するのは、〔…〕否定的で掴みがたい、<普遍性の威力>としてであって、その威力に突きあたり、個体性は砕けちることになるのである。』
熊野純彦・訳『精神現象学 上』, 2018,ちくま学芸文庫,pp.564-567.
これに対して、『Ⅴ-C-a においては、各個体は、ヴェルク〔Werk 仕事,制作物〕を制作するための<個別的>労働に専念する。
彼の行為が、〔…〕あくまでも彼個人の個別的利害関心に発する個別的行為にすぎない限りでは、ヴェルクを制作する個体は、Ⅴ-B-a の快楽を追求する個体に酷似している。しかし、〔…〕直接には個別的目的の実現をめざす個別的行為であっても、それらが多数織り合わされて、そこに一つの普遍的関係が形成される。Ⅴ-C-a の個体は、以上のメカニズムを熟知した上で、彼の個別的労働に勤(いそ)しむのである。』
平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『経済学研究』,34-2,1984.09.,pp.42右-43左.
つまり、ヘーゲルの見るところでは、「Ⅴ-B-a」の主体と「Ⅴ-C-a」の主体の違いは、自分の行為の結果を知っているかどうかなのです。一方は、ひたすら「快楽」を追求するという非生産的活動(子供ができることは、彼らにとっては偶然の「運命」にすぎない)であり、他方は、何かモノを作ったり、他人の役に立ったり、といった生産的労働ですが、その点の相違をヘーゲルは重視していません。
唯物論に毒された現代人は、「生産的は良いことで、非生産的は悪いことだ」などと思いこんでいますが、「生産的/非生産的」は行為の結果にすぎず、しかも、行為そのものの価値に何らかかわるものではありません。
『彼〔Ⅴ-C-a のスミス的世界の個人――ギトン註〕は、彼の行為の目的(個別的ヴェルクの現実化)が行為の結果においては否定されて、各個体との一対一対応関係が消失した匿名(アノニュム)の客体的秩序〔これが ザッヘ・ゼルプスト die Sache selbst である〕が対象化されることを知っている。』
平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『経済学研究』,34-2,1984.09.,p.43左.
「Ⅴ-C-a」の世界では、生産活動を行なう個々人は、自分の「ヴェルク」(制作物,作品,仕事)を現実化することを目的として活動するのですが、最終的な結果としては、各人の行為は否定され、「匿名の客観的秩序」が成立します。
たとえば、市場(いちば)で売買される商品の場合を考えてみると、農民Aの紡いだ糸も、農民Bの紡いだ糸も区別なく、一定の品質をそなえた糸として、同じ価格で取引されます。そうやって、商品社会に現出した大量の綿糸は、AさんともBさんとも無関係に、一国の経済と景気変動を左右する存在となります。
このようにして、おおぜいの個人の行為が総和されて現出する「匿名の秩序」を、ヘーゲルは、「事そのもの die Sache selbst」と呼びました。個々人の「ヴェルク(作品,仕事)」はそれぞれが1個ですが、総和された「事そのもの」は、全体で一つの実体となる(人々には、そう見える)のです。
事(物象, ザッヘ)は、物(もの, ディング)とは異なります。どこが違うかというと、「物」は、意識の前に客観的に存在していて、それを意識は、知覚によって認識します。しかし、「事」というのは、意識が主観的に作り出したものです。「事件」にしろ、「行事」にしろ、「悪事」にしろ、元々そういうものがあるのではなく、人びとが考えたり、計画したりして、そういうものがある‥あることにしよう、と取り決めて、現出させたものです。
そして、「Ⅴ-C-a」において重要な点は、市場に集まって取引する各人が、そうした「総和」のメカニズム:各人のバラバラな行為が総和されて一定の価格が成立し、「事そのもの」が現出するということ――を知ったうえで取引しているということです。この〈知っているか、いないか〉が、快楽にふけって眼の前しか見えない Ⅴ-B-a の個人との大きな違いです。
『彼は、個別性と普遍性(社会性)とを媒介する行為として個別的制作活動を営むという点で、Ⅴ-B-a の主体とは区別される。Ⅴ-B-a の主体が、「各人の各人に対する闘争」を現出させるホッブズ的主体であるとすれば、Ⅴ-C-a の主体は、各個体が彼らの個別的利害関心に従って利己心をフェアに発動させ合うことが、神の「見えざる手」の働きに導かれて社会全体の福祉を実現することを確信しているスミス的主体である。
ヘーゲルのザッヘ・ゼルプスト論は、分業と「見えざる手」を基軸とするアダム・スミスの自由主義的理論構成のヘーゲルなりの受容形態である。〔…〕
Ⅴ-B から Ⅴ-C への展開は、全体としてホッブズ的世界〔各人の各人に対する闘争、個体の自立と社会との矛盾を基調とする世界〕からスミス的世界〔各個体が各自の個体的行為に専念することを通じて個体の自立と社会の存立とを両立させるシステムが形成される世界〕への転換である。『精神現象学』において、この転換を論理的に支えたものが、〔…〕アダム・スミスの自由主義的立場よりなされる重商主義批判の論理であった。〔…〕
Ⅴ-C-a においては、個人の個体的行為と社会的秩序の存立とを架橋するスミス的な社会的分業の論理が前提されている。』
平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『経済学研究』,34-2,1984.09.,pp.43左-44左,45左.
「Ⅴ-C-a」のスミス的個人は、Ⅴ-B-b の「心胸(むね)の法則(のり)」を通用させようとする個人や、Ⅴ-B-c の「徳の騎士」とも異なります。彼らは、自分の主張は個人を超えた普遍的なものだと思いこんで、それを世間に圧(お)しつけようとして、勝ち目のない戦いを挑んでいました。しかし、「Ⅴ-C-a」の個人――市場(いちば)に集まる小生産者や商人は、そんなことは言いません。ひたすらに自分個人の利益だけを目的として「ヴェルク」を作り、取引するのです。
「わしの仕事は、世間のためになる清い仕事なのだから、おまえたちも世のため人のためと思って、これを買え」などと言ったら、商売は成り立ちません。だれもが自分の利益だけを求めて取引する。しかし、その結果として、安定した「公共の秩序」がもたらされ、個人の活動が活発に行われれば行われるほど、全体の福祉は増大する。しかも、そのしくみを皆が知っている(信頼している)からこそ、安定した秩序が成立している。それが「スミス的世界」なのです。
【17】 「仕事」→「社会的分業」→「所有」
各個人のバラバラな個別的活動「ヴェルク」と、それらが総和されて成立する社会編成「事そのもの」(一国で取引される商品全体,国民総生産,国民生産力,国民経済,‥‥)の関係について、さらにつっこんだ理論的考察を見ていきましょう。
『以下に、Ⅴ-C-a におけるザッヘ・ゼルプストの導出の論理を素描することにする。〔…〕
諸個体は〔…〕各自の個別的目的を実現する行為に専念する。諸個体が、各自の個別的目的を実現する行為に勤(いそ)しむことによって、かえって、諸個体の個体性を、秩序の持つ普遍性へと連結させてゆく・「個体性と普遍性との浸透」(S.294)としての社会システム〔これが ザッヘ・ゼルプスト die Sache selbst である〕が形成されることを、諸個体はすでに知っている。
諸個体の目的実現行為の結果は、(1)ヴェルク〔das Werk〕(2)ザッヘ・ゼルプスト (3)ザッヘ という3つの観点から考察される。
諸個体の行為の結果は、それが、各個体の企図した個別的目的が・実現されているか否か、という観点から把握される時、ヴェルクと呼ばれる。ヴェルクは、個体の自己関係的な行為の連鎖(目的定立――手段選択――目的合理的行為――結果)の枠内にとどまる規定である。〔…〕
ヴェルクにおいて各個体は、自分の能力、才能、資質を存分に発揮しようとする。目的――行為――ヴェルク、これらのあいだに統一が認められることが、個体が満足を得るゆえんである。〔…〕
しかし、個体がこれら三者の統一を見出せるためには、厳しい試練が求められる。〔単なる自己満足では「ヴェルク」たりえない。つまり、売れなければ「商品」ではない。――ギトン註〕
行為とは、<主観的>なものを、<客観的>なものの中へ、各人の<意識>内に企図されている<個別的>なものを、客観的<存在>という<普遍的>場面(エレメント)の中へ移し入れることである。客観的に存在するに値しないもの、またそれだけの重圧と緊張に耐えられないものは、容赦なく打ち砕かれる。行為の世界とは、過酷な世界である。〔…〕個体は、自分の目的をヴェルクに結実させるためには、目的、能力、手段、行為の全面にわたって、存在を獲得するに足るだけの普遍性と客観性とを要求されるのである。
さて、ヴェルクは、存在として何故普遍的でなければならぬのか。〔…〕ヴェルクは、万人に公開されており、ヴェルクを志向する行為は、万人衆視の下で行なわれる他ないからである。
つまり個体は、ヴェルクを作出するという・それ自体は個別的な行為を媒介として、〔…〕他のすべての諸個体との間主体的関係に入らざるをえないのである。行為とは、それ自体すでに、相互承認行為である。ある個体の行為が、<彼の>ヴェルクを成就しようと考えているのと同じ空間に、他の諸個体も、彼らなりの目的を立てて参入してくる。各個体は、他の諸個体のヴェルクを排斥して、自分自身のヴェルクを成就しようとする。こうして、行為の現実化=ヴェルクの成就をめぐって、無数の諸個体の行為が交錯し〔…〕合う結果として、もはやどの特定の個体のヴェルクとも言えない、あらゆる個体のヴェルクであるとともに・諸個体から相対的に自立した・一つの匿名(アノニュム)の対象的現実が、成立してくる。
これが、ザッヘ・ゼルプストである。』
平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『経済学研究』,34-2,1984.09.,pp.45左-46左.
『諸個体は、彼の個体性をヴェルクとして現実化することを志向しながら、 〔…〕それを、彼のヴェルクとしては、現実化することができない〔…〕
諸個体が現実化するものは、ザッヘ・ゼルプストである。ザッヘ・ゼルプストは、すべての個体の行為の複合として成立する・対象的世界であるから、「万人のザッヘ」(S.300)であって、特定の個体の私的占有物とはなりえない。
しかし、個体は、自分の行為の所産を、個体的に領有することを求める。〔…〕個体が、本質的に「共有財産〔a common stock〕」(アダム・スミス)として成立する他ないザッヘ・ゼルプスト・の一部を、自分のものとして裂き取り、私的に領有する様式、これが、ザッヘである。〔…〕
そこには、他の諸個体によって承認されねばならぬ・という契機が、不可避的に入りこむ。他の諸個体に承認された領有、これが、「所有〔Eigentum〕」である。〔…〕各個体は、ザッヘ・ゼルプストに対する彼の貢献を、「彼の業績〔sein Eigentum〕」(S.296)として宣言することによって、彼のザッヘを所有しようとする。〔…〕
分業〔による協業――ギトン註〕に基づく〔…〕労働の生産物は、一種の「共同のストック」になると、スミスは考えている。〔…〕スミスの「共同のストック」に相当するのが、ヘーゲルのザッヘ・ゼルプストである。』
平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『経済学研究』,34-2,1984.09.,pp.46右-47左.
こうして、近代人の法意識のカナメというべき「所有権」の論理が導出されました。重要点は、各個人の個別的な利己的活動が、そのまま直ちに「所有権」を生み出すわけではないという点です。各個人の利己的活動は、いったん総和されてスミスの云う「共同のストック」、ヘーゲルの「事そのもの」を成立させ、それを再び各人が自分の分け前を主張して取り合う結果として、「ザッヘ」つまり所有物が確保される。こういう迂回のメカニズムがあるのです。
このように考えるならば、近代的所有権というものは、近代のそもそもの初めから、決して「絶対的」なものではなかった。各人は、自分の「所有権」を確保するためには、国民経済に貢献した自分のヴェルク(活動)の “業績” やら、万人は神の前に平等だから富者は喜捨をせよといった “正義” やらを主張して闘争し、その結果として自分の所有権を他の人びとに認めさせたのです。
したがって、実働に従(たずさわ)っていない企業役員が報酬を得たり、特許権使用料、著作権料、賃貸料、…等々が法律で保護されたり、社会保険、生活保護などの社会保障制度があったり、といったすべては、「事そのもの」→「ザッヘ」の「分配」システムの一部にほかならないのです。
【18】 「マルクス主義」が躓いたのは、ここだ!
『ザッヘ・ゼルプストは、あらゆる個体の行為の総計であるが、もはやどの特定の個体との対応関係も消し去れられて、あらゆる個体から独立した社会的関係として現れる。〔…〕それを織り上げる諸主体から切り離されて、一つの客体的システムとして定立される時、それは実体〔Substanz〕,本質〔Wesen〕〔「制度」の意味もある――ギトン註〕,類〔「人類」の「類」――ギトン註〕〔Gattung 人間の類的本質〕と呼ばれる。〔…〕
ザッヘ・ゼルプスト、実体、本質〔制度――ギトン註〕、類〔人類――ギトン註〕〔…〕これらは主体相互の間主体的関係でありながら、主体から疎外され物象化〔「ザッヘ」化,「事」化――ギトン註〕された客体的システムを、主体との緊張関係を意識しながら、表示する概念である。』
平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『経済学研究』,34-2,1984.09.,pp.47左-右.
「ザッヘ・ゼルプスト」つまり「事そのもの」は、個人の行為の総和でありながら、そこでは個人の行為(ヴェルク)は否定され、「事そのもの」としてできあがった体制は、個人の利害に対立します。これは、ヘーゲルの用語でいえば「疎外」にほかならず、ヘーゲルはこれを「物象化」(「事」化)と呼びます。
しかし、忘れてはならないのは、こうした「事そのもの」への「疎外」の根拠は、各人の個人的な「ヴェルク」作成行為のうちにあったということです。「ヴェルク」は、行為そのものの成り立ちからして、それを使用する他人、評価する他人、等々他人を意識しないでは遂行しえない間主体的行為であったのです。
自分はひたすら自分のために仕事をしているだけなのに、どこかから「社会」がやってきて個人を圧迫する――などと言う人は、自分が何をしているのかさえ分かっていない珍紛漢なのです。
『主体の行為が対象化される客体を、諸主体相互の間主体的関係として、設定し行為することによって、決定的に主体と客体が非同一化する・ザッヘ・ゼルプスト・モデルの行為論によってこそ、疎外の必然性が行為そのものに内在していること・が理解される。
同時にまた、疎外の根拠が、〔…〕社会的関係に、あるいは、諸個体がザッヘ・ゼルプストという物象化された社会的関係を聳立させる彼らの行為の独特のあり方・に求められる。
さらに、疎外の克服の展望は、主・客の非同一性を起点とするザッヘ・ゼルプスト・モデルにおいては、本質的に動学的(ダイナミック)なものにならざるを得ない。
主体が、主体と客体との同一性を取り戻すためには、主体は、客体的世界が有している普遍性の高みにまで自分を厳しく陶冶してゆかなければならない。つまり疎外の止揚は、〔…〕外的要因の除去、悪しき制度(例えば私有財産制度や、資本賃労働関係など)の撤廃に求めることはできない。〔…〕
マルクスの労働疎外論は、〔…〕物象化された社会的関係〔匿名の共有財産(事そのもの die Sache selbst)が Sache として各個人に分配され所有物になる社会のしくみ――ギトン註〕の内部での個体の主体形成(陶冶)のあり方を問う・という本来の主題が忘却され、個別的生産過程における個別資本による個別的労働者の搾取に矮小化されることになった。』
平子友長「ヘーゲル『精神現象学』における疎外論と物象化論(1)」, in:北海道大学『経済学研究』,34-2,1984.09.,pp.48左-49左.
「疎外」の根拠は、外的な制度や弊害などではなく、個人(労働者)の行為自身のうちにある。……のだとすれば、「疎外」を克服するには、資本主義をやめる、資本家を追放して搾取をなくす、などということをしてもダメだ、ということになります。「物象化された社会的関係の内部での個体の主体形成」のあり方が問われなければならないと。
「ベルリンの壁」崩壊の 5年前に書かれたこの論文は、「マルクス主義」経済学者としては空前絶後の提言をしていたと言えるかもしれません。
それでは、「物象化された社会的関係の内部での個体の主体形成(陶冶)」とは、何なのか? ‥単に、個人が教養を高めるとか、訓練を受けるというようなことではないでしょう。むしろ、ヘーゲルの理論枠組みに沿って考えるならば、次の Ⅵ「精神」の部で展開されるような歴史過程を経ること、あるいは、それに相当するような・個体と社会の相互形成 Bildung が行われなければならない、ということになるのではないでしょうか?
それが達成されないかぎり、ヘーゲルの論理に従えば、個人はまだ「人倫」の出発点に立っているにすぎない。その状態でいきなり「人倫」を実現しようとすれば、圧倒的なポリス共同体の権威と「しきたり」――「マルクス主義」という名の――に心底から帰依させて、人びとの個体性を消失させるほかはないことになります。もちろん、そんなことをすれば、「快楽」以前の、第Ⅴ部以前の状態に戻ります。つまり、「主人と奴隷」状態に戻るほかはないのです。
そして、実際にそれを強行したのが、ソ連をはじめとする「社会主義」国の失敗と自己崩壊の歴史ではなかったか?
たとえば、「共有財産」である「ザッヘ・ゼルプスト」が、個々人に「ザッヘ」として分配され所有される過程を民主化するためには、単に、自然発生的な資本主義生産システムを破壊して、人為的な「社会主義」統制経済にすればよい、ということではないはずです。社会的な意味での・人びとの「人倫」意識・「道徳」意識が高まらなければならない。それを、共同生産システムのようなもの、たとえば「コミュニズム」で実現しようというのも、ひとつの方策です(「社会主義」国家とは、まったく異なる考え方です。詳しくは⇒:【経済論レヴュー】 斎藤幸平『人新世の「資本論」』(7))。しかし、試行にあたいする方策は、けっして一種類にはとどまらない。
ニューディールが構築した社会保障システムも、労働組合権の保障と助長政策を伴なう場合には、一定の効果ある方策として評価できると思います。
マルクス自身、『資本論』第1巻で、イギリス政府の労働監督官報告書を引用して、当時の英国の工場での労働者の「疎外」状態を激しく告発しています。マルクスは、英国政府の「改良主義」的な労働政策を、高く評価しているのです。なぜなら、それは、単なる生産物の所有権分配システムを超えた、「事そのもの die Sache selbst」→「事 Sache」の “分配” 過程にかかわる問題だからです。
「ザッヘ」「事」とは、単なる生産物ないし商品ではありません。そうしたモノとの関係を織りこんだ「人と人との関係」「社会編成」が、「事そのもの」であり「ザッヘ・ゼルプスト die Sache selbst」なのです。
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