小説・詩ランキング

 

 

 

 

 

 

 

【14】 第Ⅴ部B章c節――「徳」と「世路」の戦い

 

 

 前回見たように、近代の入口にさしかかった人間の意識は、「快楽」を謳歌して自己および他己の自立した「個体性」を確保し、一方では自分の「心胸(むね)」のうちにある法則が、そのまま普遍的なものだと思いなして、世間に通用させようとします。その結果は「万人の万人に対する戦い」とならざるをえません。しかし、他方では、その「戦い」の経験から、既成の「公共の秩序」というものも、諸個人の「心胸(むね)の法則(のり)」どうしの鬩ぎ合いの中から形成されてきたもので、そこにこそ「普遍性」があることを学びます。かくて、「意識」はその深奥において分裂し、一方では自分の「心胸(むね)」が絶対普遍であると信じ、他方では、それが戦っている当の「公共の秩序」こそ普遍であることを認めざるをえないのです。

 

 そこで、この分裂を修復するために、まずは、すべてを他人のせいにして、世の人々を非難することをはじめます。世の中が混乱しているのは、他の人々が、自分の個人的な「心胸(むね)」の思い込みにすぎないものを、絶対的に通用する正しい道理だと言って譲らないからである。しかし、この言葉はそのまま自分に返ってきますから、「意識」は壁に突き当たってしまう。つまり、「没落」します。

 

 そこで、「意識」は、根底から反省して、まったく新たな態度をとることになります。《徳》というものを設定して、自分の個別性も他人の個別性も全否定して抑圧し、私欲を抑える「訓育」を自らに課すとともに、他人に対しても要求する。

 

 そして、私念が争い合う世の中を、利欲にとらわれた近視眼的な人びととして批判し、自分は自分の個別利害を完全に否定して研鑽を積み、ひたすら世の中のためにだけ行動しているのだ、と主張します。

 

 しかしながらその実、いったい何が普遍的で、何が《徳》なのか、「徳の騎士」自身にもいっこうに判ってはいないのです。
 

 

『普遍的になると、人間はを具えるようになりはしますが、しかしその徳はまだ〔…〕主観的個別的であることをまぬがれません。そこでおのずから世の中と対立します。自分は清廉高潔な人間、誠心誠意をもって道徳を実践している人間であるのに、人世行路の世路(せろ)は、世は濁世であって、〔…〕私利私欲やインチキがばっこしているというように、むやみに悲憤慷慨する〔…〕のがの段階です。』

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』, 1996,ちくま学芸文庫,p.201.    

 


『ここに新たな意識の形態《徳》――ギトン註〕が登場する.安定した本質的なものにおいて自己実現をはたそうとし,安定を掻き乱すかに見える個体性(心を万人に通用させようとする)の廃棄に向かう意識の形態である。

 安定した〈絶対的秩序〉と〈万人の万人に対する闘争〉という二つの側面の間で錯乱した意識は,この原因を自らの個体性にみとめ,この個体性を廃棄しようとする.
〔…〕そして,この〈徳〉は,自分が個体性に囚われていないことの証として,「真の訓育」という「全人格を犠牲にする」(ibid.)ことをなす.〔…〕

 「転倒させられた普遍者」である「絶対的(公共の)秩序」が,世の成り行きの「内的な本質」ということになる.そして,の意識は,自分の個体性を廃棄することで,その内的な本質を実現することができると確信する.こうした利他的な態度()こそが利害関係にまみれた現実の中に(潜在的にある)普遍的な秩序をもたらすことができると考えるのである.

 




 ところが,この「普遍的な秩序」は,まだ非現実態の彼岸にあり,徳はそういうものがあると信ずるだけである.そこで,の意識は,「善なるもの」を普遍的なものとして掲げて,〈世の成り行き〉〔「世路」――ギトン註〕との戦いに入る.〔…〕

 すなわち,の意識は,「善なるもの」を名目としてたてるだけであって,自分にも世間にも潜在的に同じ普遍性があるはずだから,「善なるもの」は自然に実現されるはずだと期待しているだけなのだという.しかも,の関心は,普遍的な「善なるもの」ではなく,その実態は〈自分〉の「資質や能力」の実現にあるので、闘争においては,が思い込んでいた純粋な普遍は失われ,は世の成り行きとの闘争を真剣に行うことが出来ないという。』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,pp.13-14.

 


 このように、「個別」の否定と抑圧を主張しながら、その実、「訓育」による自分個人の能力・資質の称揚を打ち出している《徳》という態度は、きわめて中途半端なもので、意識の分裂も社会の混乱も修復することができない。むしろ、分裂に拍車をかけているとさえ言えます。

 

 

『ヘーゲルは,「実体」の外に出た近代的個人のの意識を,実体に根差した古代ギリシアの〈徳〉に比して,なんら豊かな内容をもたないものであると,批判する.』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」,p.14.

 

 

 

【15】《徳》を掲げる義人――克己と悲憤慷慨の戦い

 

 

 《徳》の意識は、「利他的な態度(徳)こそが、利害関係にまみれた現実の中に(潜在的にある)普遍的な秩序をもたらすことができると考え」ます。

 

 《徳》の意識は、世の人びとを、自分の個別的利害にとらわれているとして痛烈に批判します。その反面として、「公共の秩序」は本来正しいもので、これを “本来の” あり方に回復することを主張するのです。世の中の「世路」――「世のなりゆき」は、本来あるべき普遍的な秩序が、「万人の戦い」のせいで「転倒させられているのだ」ということになります。

 

 しかし、そうだとすると、「世のなりゆき」の根底には、《徳》の意識が求めている「絶対的(公共の)秩序」が,「内的な本質」として存在していることになります。そして、自分および諸個人が、「自分の個体性を廃棄」しさえすれば、「その内的な本質を実現することができると確信」することになるので、‥これでは、「世のなりゆき」に対してまともな戦いを挑むことさえできない。

 

 《徳》の意識は、「世のなりゆき」に対して、なにか別のものを提示して対置するわけではなく、彼が求める「本来の普遍的な秩序」の内容というのは、結局のところ、「世のなりゆき」に依存してしまうことになるからです。

 

 

『徳は抽象的な善(普遍)を提示するに過ぎない〔…〕〔徳の主張する〕善とは,〔…〕世の成り行きの現実の中に現にあるものでもある.だから〔ギトン註――《徳》が「世のなりゆき」をいかに批判しようとも〕世の成り行きは〔…〕傷つけられない.」(GW9,S.210)〔…〕逆に〈世の成り行き〉は,「抽象的な普遍であるだけでなく,個体性によって生気づけられ,他に対して存在する,言い換えれば現実的な善」(ibid.)を提示するのである。』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,p.14.

 


 勝負は、さいしょから決まっているようなものです。「徳の騎士」は、「世のなりゆき」の前に挫折し、敗退します。

 

 

Daniel Barkley: "Blue horse"

 

 

『徳の敗北は明らかとなる.が、世の成り行きに見ていた普遍的なものが、個体性によって成り立っていることが、〔ギトン註――《徳》の意識の眼に〕見えてきたとき,世の成り行きの普遍性を維持しようとするのであれば,〔…〕自らが否定しようとしていた個体性も維持しなければならない、ことに気付く〔…〕

 世の成り行きは,〔…〕普遍的なものを現実にもたらすという・個体性の原理の積極的な姿を見せてきた.

 

 こうして,徳の意識は,世の成り行きとの戦いを通じて,この世の成り行きの肯定的側面,すなわち〈普遍者を現実にもたらすという個体性の原理〉を学びとる.徳は,「世の成り行きは見た目ほど悪くないことを経験した.というのは,世の成り行きの現実は,普遍者の現実だからである.〔…〕個体性は,現実性の原理なのである」(GW9, S 213).

 

 すなわち,この一連の経験は,自己の即自(個体に内在する本性)を現実に移すことが,公共的な秩序を成り立たせている、という経験なのである.〔…〕

 世の成り行きの個体性は、確かに、自分だけのために利己的に行動していると考えている.(しかし)この個体性は、自分が考えているものよりも良い.その行為は同時に、潜在的かつ普遍的な行為である.〔ギトン註――社会の中の個人は、〕自分が利己的に行動しているとき,自分が何をしているのかを知らない.〔ギトン註――人が〕 “全ての人間は利己的に行動する” と断言するとき,“全ての人間はその行為が何を意味するのかについての意識を持たない” と主張しているだけである.」(ibid.)

 

 こうして,個人が意図せずしてもたらす現実はまさに普遍性と分かちがたく結びつくという原理が,敗北した〈徳〉の意識の自覚にのぼってきた.つまり,徳の意識は,〔…〕普遍的なもの(潜在的なもの)を現実化する「個体性」の原理を学び取っている.

 

 これは,自己の普遍性(潜在的能力)を現実に移すことが,公共的秩序を成り立たせていく(たとえば社会契約論の発想)ということであり,自己の素質を開発し発揮することが,公共の利益になる(たとえばスミスの予定調和的・自然的自由のシステムとしての商業社会)ということの確信である.』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,pp.14-15.

 

 

 こうして、私たちは、スミス的な調和の世界が描かれる・つぎの「Ⅴ-C」章の入口に立ちました。

 


『次の「理性」章 C〔…〕の叙述は,諸個人が「個体性の原理」を通じて,市民的共同性を規定し自覚していく経験の歩みと見ることができる.諸個人が自己の潜在的能力を、〈自己の行為〉を通じて作品(仕事)として他者に差し出しながら,共同的なものをどのように規定し自覚化していくのか、のプロセスが描かれていく』

片山善博「近代的個人とは何か ヘーゲル『精神現象学』理性章Bを理解するために」 in:『日本福祉大学研究紀要 現代と文化』,128号,2013.9.,p.15.

 

 

 

 

 以上で見たように、第Ⅴ部B章は、一面では、それぞれの自分だけの個別性を、普遍性であるかのように主張する「万人の万人に対する戦い」によって混乱に陥っているホッブズ的社会でした。しかし、それはことがらの一面であって、他面においては、混乱しているように見える世の中も、それなりに継続性をもって、ダイナミックな安定の中に存在しているのでした。そこに、「普遍性」の潜在を見てとり、人びとが個別性を完全に除却すれば、世の中は、本来あるべき「普遍性」の秩序を回復するにちがいない、と考えて、利己的な世の人びとに戦いを挑んだのが「徳の騎士」でした。

 

 しかし、「世のなりゆき」に屈服して敗退した「徳の騎士」が、その戦いから得た教訓は、そもそも、「世のなりゆき」のダイナミックな安定性、「普遍性」の潜在というものは、個別者の「個別性」のみを追求する利己的活動によってこそ、成立しているという事実です。個々人の利己的な個別的活動をはなれて、「普遍的」秩序などというものは存在しないのです。(これは、資本主義だけの現象ではありません。じつは「社会主義」社会でも、中世の封建的な社会、あるいは、律令王朝的な社会でも、この原理は変わりがないのです!)

 

 だから、「個別性」を抑圧しようとしたのは、まちがえだった。むしろ、「個別性」を伸長してこそ、「普遍性」の実現はある意味で可能になる。

 

 こうして、「Ⅴ-C」章の扉が開かれます。



 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらは自撮り写真帖⇒:
ギトンの Galerie de Tableau