【3】『精神現象学・序文』の「弁証法」
『彼〔ヘーゲル――ギトン註〕の理論の基本的構造である「精神の現象学」は、現象知(Erscheinung Wissen)を辿りながら、絶対知(absolutes Wissen)へと昇っていく梯子の役割をなすものである。「哲学的真理」即ち絶対知(概念知・哲学知)をうるには「概念の労苦(Anstrengung des Begriffs)」を引き受ける「哲学的思索」が必須である。ヘーゲルの主張する「絶対知の哲学」は、世界精神(Weltgeist)の現段階として精神史の中に要求されたものであり、時代精神を表現したものであった。〔…〕
ヘーゲルの思索のその理念は「無限性の探究」にあるといえるであろう。ここでは無限性へむけて知の水準を高めていく概念の弁証法の原理が探究された。〔…〕イエナにおいては、精神が具体的な認識において無限性を実現していくための「論理」と「体系化」が模索された。『精神現象学』の完成へとむかうヘーゲルの思索の全容がここに徐々に形を現わし始める。〔…〕
意識(Bewußtsein)が成長する段階では、意識は自己の疎外(Entfremdung)と自己の形成(Bildung)を弁証法的運動の中に展開する。ここでいう「自己疎外と自己形成の根源的構造」は、これはそのままヘーゲルの弁証法の基本構造と考えてよいであろう。〔…〕ヘーゲル哲学における「自己疎外と自己形成」は、人間精神が真なるものを求めて、自分自身を乗り越え、自分自身となることである。これはすなわち、意識が絶対精神(Absoluter Geist)にまで成長していく生成の過程そのものである。そして「自己が疎外され、その中から自己の形成がはじまる」という、この弁証法の構造は、ヘーゲル特有の絶対者観と歴史観の中に位置づけられている。』
才野原照子「「自己疎外と自己形成」に即してヘーゲルを読む ―『精神現象学』「序文」を中心に―」,pp.455,452.
ヘーゲルにとって、意識は有限です。しかし、「絶対者」は、スピノザの「神=自然」と同じく無限です。有限な意識が、どのようにしたら、無限の「絶対者」の知、すなわち絶対知に高まってゆくことができるか、それこそが、ヘーゲルが構築しようとする学問体系の課題であり、最終目標なのです。この上向の運動において、意識は、「自己疎外」による「自己形成」という方法によって、自己を高めて行きます。ここでいう「自己疎外」とは、自己とは反対のもの、自己とは対立するものに転化し、あるいは対立するものを生み出し、あるいは対立するものを自己のものとして理解し包摂することです。このようにして、有限の意識は、自己の内容をより豊かにし、高めてゆくことができるのです。
『結局、テロリズムは避けえなかった。ヘーゲルにはそのことが深い確信となる。
対立と闘争(肯定と否定)を同時に包み込む「一(いつ)(同一性 Identität)」なるものを探索する方向が模索される。それゆえ、「一」を構成し「無限なる意識に高まる」ための「意識と思弁の構造」が構想された。「懐疑と反省」により「有限なる意識を内在的に超出」すると、「理性は自らによって自らを基礎づける」ことができる。ここでは、止揚(揚挙 Aufheben)の過程が「自己媒介(対立項を関連づける)」の論理で説明された。「否定的理性と思弁的理性の概念」を生み出すことで弁証法は徐々に形を現わしてくる。「有限なるもの」とそれに対立する「無限なるもの」、さらに対立しあうものを「無化」したところに想定される「無限なるもの」、という「三重性の構造」の構想が生まれるのである。無限性という思惟の真の性格は、三重性の構造で説明できた。「懐疑と反省の論理」としての「弁証法の原理」の骨格である。
「絶対的なるものの構造」は「同一性と非同一性との同一性」で説明された。「意識が経験をつむ道程の構成の論理づけ」と「絶対的なるものを<知ること>の境位にある哲学」が「現象学」として完成していく。「自らの反対を生き延び」、「対立を突破し」、「意識が経験をつむ道程」の「叙述」である。現象学の後には「純粋なる学」即ち哲学、即ち形而上学(本来の哲学、認識となる認識、即ち絶対精神に至る道)が始まる。こうしてヘーゲルの論理学は徐々に定式化と体系化にむかうことになる。懐疑論は「本来の知」への導入の役割を果たすものとなり、「純粋なる学」に先行するもの、すなわち哲学の第一段階「緒論」に位置づけられた。』
才野原照子「「自己疎外と自己形成」に即してヘーゲルを読む ―『精神現象学』「序文」を中心に―」,pp.455-456.
ここで、ある意味言い古されたことを書いておきますが、アウフヘーベン(止揚)――対立物との綜合――とは、自己が対立物に転化するという第1段階の運動があってはじめて、第2段階として起こりうる運動なのです。革命でいえば、革命家が反革命の政治家をギロチンにかけるかわりに、自分が反革命に転化してギロチンにかかるくらいの大きな飛躍がなければ、「止揚」などということは起こりえない。ドイツ語を知ったかぶりして、「アウフヘーベン」「止揚」の名のもとに安易に行われるのは、えてして単なる野合であり、妥協と摺り寄りにすぎないことを銘記しておくべきです。
かつて、民進党が、「緑の党」のなかに解消しようとした時、その実質は、護憲派の議員を「排除」するための策略だったのですが、当時そのことを知ってか知らないでか、民進党のある護憲派の議員は、テレビに出て、「アウフヘーベンだ」などと言って、このゴマカシを正当化していました。結果として、この議員自身が「排除」されてしまったのは、言うまでもないことです。
『真なるものが主体であり、精神的なもののみが現実的なものである。真なるものの場面は概念である。概念の真実の形態は学問的体系にある。真理が真理という名に値しうるのは、哲学によって産みだされたときのみである。ほかのあらゆる学問は、それが哲学なしでどれほど多くの理論を作りだそうとしても、哲学なしには、生命も、精神も、真理も、もつことができない。学問が真に学問として存在するに至るのは、概念の自己運動による。真の思想と学問的洞察は、概念的把握の労働によってのみ獲得されうる。〔…〕
ヘーゲル哲学における「自己疎外と自己形成」の問題は、これはそのままヘーゲル哲学の弁証法の基本構造として考えてよく、以上このような学問的体系のまさに核心といえる部分である。ヘーゲル哲学の根本思想の核心である部分、人間精神が真なるものを求めて自分自身を乗り超えて自分自身となっていくところ、これは即ち、意識が絶対精神にまで成長していく生成の過程そのものといえるであろう。 』
才野原照子「「自己疎外と自己形成」に即してヘーゲルを読む ―『精神現象学』「序文」を中心に―」,pp.456-457.
以上、ネットで読める・わかりやすそうな論文を拾って、「弁証法」の説明を追ってきましたが、やはりこの論者も、個人の問題として「疎外」と「弁証法」を理解しようとしており、私が求めているような解釈とは、かなり開きがあるようです。
【4】ヘーゲルのいう「疎外」とは何か?
ここで、岩波書店版『ヘーゲル全集』「精神現象学」に収録されている訳者金子武蔵氏の「事項索引」と「総註」を利用して、「疎外」というコトバの意味を概観するのですが、その前に、私のもともとの構想のほうに、ヘーゲルを調べながらちょっとした発見というか変化があったので、最初にそれを書いておきたいと思います。
何度か書いているように、私のほうの構想では、出発点は個人ではなく、“社会” ないし村、荘園、地域、といった・ある広がりのある集団なのですが、ヘーゲル自身はともかく、ヘーゲルから「疎外論」を引き出して解説している人たちは、出発点にもっぱら「個人」を立てています。
しかし、私の構想でも、出発点の “社会” は一枚岩の実体で、その中にまで踏み込んでいくことはできない――というものではないかもしれません。“社会” といっても結局は人間の集まりです。おおぜいの人間が集まって “社会” をつくっているしくみ、あるいは過程のようなものは、どんな時代にもあるはずです。その「過程」にこそ、その “社会” 独特の性格が現れるはずです。たとえ縄文時代であっても、そこにみられる「平等」「自由」などの特質は、自然にそうなっているというようなものではなくて、むしろその社会特有のしくみによって人びとの行動と思考が規制されて、そういう社会が成り立っているのだ。私は前回、あまり深く考えないで、そう書いたのですが、改めて反省してみると、そういう・出発点となる “社会” の成り立ちもまた、考察の対象にしてよいのではないか?‥と思われてきたのです。
つまり、縄文社会では、「平等への固執」という原理が、そのまま目に見える「平等」として表れていたのは、なぜなのか?‥そこをふくめて考えてみようというわけです。
その場合に、私が不安に思っているのは、ヘーゲルの議論は、18-19世紀ヨーロッパのような、近代的な自立した「個人」を前提にしてはいないか? そういう「個人」の議論を、原始、古代、中世、…そういった時代にもってくるのは無理なんじゃないか? という点です。しかし、少しずつ調べてみると、どうもヘーゲルが考えているのは、そういう「個人」だけではないようなのです。このあとの引用にも出てきますが、ギリシャ・ローマの市民、中世の奴隷、といった人びとが登場します。啓蒙時代以後に関しても、「封臣の奉公」だとか、「おのが郷(さと)」だとか、「徳の騎士」だとか、…どうもヘーゲルの頭の中は、かなり古めかしいようですw。たぶん、マルクスやフォイエルバッハや、彼らの解説をする人びとは、ヘーゲルの時代がかった物言いに眉をひそめながら、そういう反動的な言辞をていねいに抜き取って、ありがたいお説教にして垂れてきたのではないか。
しかし、ヘーゲルの “頭の古さ” は、私にとってはむしろ好都合です。
そもそも、未開社会だろうと高度資本主義社会だろうと、人間そのものは、そんなに違うもんじゃない。まえに、南アフリカの草原で暮らしているブッシュマンの人を、ムツゴロウが東京に連れてきて、街を案内したり、いっしょにテレビに出たりしていましたが、見た感じ、われわれと何の違いもありませんでした。均整のとれたカラダつきで格好いいなと思っただけです。
さて、「疎外」の語義説明に入りましょう。『精神現象学』第Ⅵ部・B章の「総註」を参照します。
entfremden〔エントフレムデン 離反させる,疎遠にする〕は、古くからある動詞で、名詞形が Entfremdung〔エントフレムドゥング 離間,疎遠,疎外〕。ルター訳聖書にもあって、ラテン語 ab-alieno の訳語として出てくるそうです。そうすると、もとはラテン語聖書から、ギリシャ語の新約聖書原典に遡ることになるでしょう:
『1:21 あなたがたは、以前は〔異教徒だったので――ギトン註〕神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。 1:22 しかし今や、神は御子〔イエス・キリスト――ギトン註〕の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に〔あなたがたを――ギトン註〕聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。』(『新約聖書』「コロサイの信徒への手紙」⇒日本基督教団)
つまり、エントフレムデン(疎外)とは、語の起源においては、神と離間し、離れてしまうこと、キリスト教に敵対すること、という意味でした。さらに、この表現の起源は、旧約聖書に記された故事にあります:
『例えば「ホセア書」〔…〕11 の 1-8 には、イスラエルはかつてヤーウェのいつくしむ息子であったのに、定住後には呼んでも答えをせず遠ざかって行ったとあること、さらに「ヨブ記」のヨブが神に遠ざけられ、神から遠ざかり、神を詛(のろ)い、神の敵となり仇となったものであることなどが起原である。
〔…〕語の由来は以上のごとく〔…〕、宗教的雰囲気のうちにおいては神から疎(うと)くなり遠ざかり疎遠になることを意味していたのに対して、
ヘーゲルは神の位置に自己ないし精神を立たせることによって、「自分から〔ギトン註――「精神」が「精神」自身から離れ〕疎遠となった精神」という概念を設定したのである。〔…〕
それでは Ⅵ-B においてエントフレムドゥング〔疎外〕という概念を設定せられたモティーフは何かと言えば、〔…〕かつて Ⅵ-A-a においてはすべての内容、すべての富は自己にとって自分のものであったのに、今やそれは「世界の主人」の所有に帰しているから、精神は「自分から疎遠になった精神」であり、そうしてこの富を取り戻すためには自己は敢えて自分から疎遠とならなくてはならないこと、すなわち教養を身につけなくてはならないということである。』
『ヘーゲル全集・5 精神の現象学・下巻』,金子武蔵・訳,1979,岩波書店,pp.1501-1503.
ここで、「世界の主人」とは、専制的なローマの皇帝、あるいは、中世のヨーロッパ世界を支配したキリスト教の神であり、この「主人」の専制にあえぐ者は、ローマ皇帝のもとで禁欲的に萎縮した「ストア派」哲学者の「不幸な意識」、あるいは中世キリスト教徒の「意識」なのです。(p.1508)
自己から疎遠になった「富」ないし「自己の内容」を取り戻すために、「自己は敢えて自分から疎遠とならなくてはならない」と言っているのは、ヘーゲルの極意というべき「弁証法」の論理から、そう言えるのです。すなわち、自分とは疎遠になり、自分に敵対するようになってしまった対象と和解し、合一する――それを「取り戻す」ためには、まずその前段階として、「疎外(離反)」「対立」を極限まで進める必要があります。つまり、まずは「あえて疎遠にならなくてはならない」のです。
それがどうして「教養を身につける」ことになるのかというと、…ここで「教養 Bildung」の語義を説明しておかねばなりません。綴りを見たとおり、この語は英語のビルディングと同語源で、前節の才野原氏の論文では「自己形成」と訳されていました。ひじょうに多義的な語なので、ぴったりした日本語をあてるのは困難です。「教養」という訳語はあくまでも、ヘーゲルの言わんとする意味のごく一部だと考えてください。
ヘーゲルの言う「自己疎外」とは、「自己形成」にほかならないのです。なぜかというと、自分とは疎遠なものがあることを意識し、対立を経験することによって、意識は自己を高めてゆく。対立の経験は、その次の段階では、敵対したそのものと和解し、「自己」を取り戻すための土台となります。たとえば、自分と違う考えの人が書いたものを読むと、人間の幅が広くなって「教養」が高まる、とよく言うではありませんか。
あるいは、「快楽(けらく)」の経験(第Ⅴ部B章)を考えてみてもよいでしょう。「理性」にとって、「快楽」にふけることは、自己を喪失することです。なぜなら、「快楽」によって、「理性」は必然の領域に踏み込み、必然の流れに身をまかせることになるからです。これは、「自由」を本旨とする「理性」の本来のあり方に反します。つまり、理性の自己喪失であり「自己疎外」です。しかし、ヘーゲルは、「快楽」や「欲望」の経験は、「理性」の内容を豊かにしてその「教養」となる、と言うのです。豊かになった「理性」は、単なる合理性を超えて「精神」となる。つまり、厚みのある現実的・社会的存在となるのです。
さいごにもう一つ、ヘーゲルの「教養」のイメージを補足しておきましょう。英語の「ボディ・ビルダー」を想起してください。ヘーゲルの言う「Bildung」とは、ボディ・ビルダーのように自己の身体に苦痛を与えて厳しく鍛え上げることです。安楽椅子に腰かけて本を読んでいるイメージではないのです。
『Bildung を要するものは、基本的には奴であるから、Ⅳ-A において奴の教養としてあげられる 畏怖-奉仕-労働 という3契機は、教養全般にとって基本的意義をもっている〔…〕畏怖の感情は封臣の場合には国権に対する尊敬の感情であり、〔…〕奉仕が労働と明別されないことが多く、また労働も人倫〔古代ギリシャの市民ポリス――ギトン註〕の場合には兵役の防衛をもって最高とされており、〔…〕
奴ないし法的人格が教養を得ることは、また実体が自分を現実化する所以であるが、〔…〕実体は「有機化されていない自然」として現にあるものであって、個人はこれを摂取し、我がものとするだけである。この「自然」はまた一定の時代のしかじかの状態でもあり、その諸契機は慣習、習俗、思考のしかた、宗教などとされている〔…〕Bildung は〔…〕所謂文化の意味をもつが、その主要契機は慣習、習俗、思考のしかた、宗教などであることになる。』
金子武蔵・訳:op.,cit.,索引p.20.
「疎外」の語義の説明――第Ⅵ部・B章――は、ギリシャ・ローマ以来の歴史過程をふりかえりながら、まだまだ続きます。もう頭の中が満タンになってしまって、この壮大な説明を受け付けなくなっているといけませんから、今回は、このへんで回の区切りを入れたいと思います。
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