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菅原東遺跡・埴輪窯跡群」。奈良市菅原町近く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅱ期》 603-611

  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横つ道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
  • 614年 厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。6月、犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。
  • 615年 『法華経義疏』を完成。
  • 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
  • 622年2月 没。

 

 

 

奈良県明日香村島庄、「石舞台」古墳。蘇我馬子の墓所と伝える。

墳丘が崩れて横穴式石室が露出している。これほど完全な形の

古墳石室を、復元でなく目近に観察できる場所は珍しい。

 

 

 

【45】《第Ⅱ・Ⅲ期》 古代農村の形成と消長

 


『発掘調査によれば、畿内の集落遺跡は7世紀に入る頃から継続的に営まれはじめるが、10世紀に入ると、安定を欠いて短期的に出現・消滅をくりかえすようになる。北部九州でも同様に7世紀前半に成立した集落が、その後の安定期を経て9世紀前半に一挙に消滅する事例が目立つ。一方、東日本の広い地域では、8世紀に入る前後から営まれだした集落が、10世紀になると消えていくという。

『平城京の時代』, p.186.    

 

 つまり、集落跡の考古学研究によると、畿内では 6-7世紀の境、すなわち “聖徳治世期” に出現した古代農村集落、その後 10世紀はじめ(平安初期)までは安定して存在したというのです。同様のことは他の地方でも明らかにされていて、‥北九州ではやや遅れて 7世紀前半、東国では 7-8世紀界(律令成立期)に、やはり安定した集落が成立するのですが、9世紀ないし 10世紀になると、それらがいっせいに消滅してしまいます。

 

 この現象は、律令制――「公地公民」制・「班田収授」による古代の農村編成が、平安時代には崩壊して、「荘園」体制に変ってゆく‥‥という変化を想起させるかもしれません。しかし、よく見ると違うようです。日本史の教科書に書かれているのとは違って、日本の「古代農村社会」は、律令国家でも「大化の改新」でもなく、それらよりずっと前の “聖徳治世期” に出現しているのです。

 

 私たちは、「日本古代」のイメージを改める必要があるのではないか? まだまだ解らないことが、ひじょうに多いのですが、律令制でも「荘園制」でもない、“もうひとつの古代” のすがたを探ってみたいと思います。

 

 歴史では、農村の地理的景観のような・外から見える特質やその変化は、「制度」「法律体制」「経済条件」といった目に見えないものと同じくらい重要です。むしろ、文字に書かれて残された歴史以上に、“土地に刻まれた歴史” のほうが、より正確な歴史の変化を語っている場合が少なくありません。

 

 そういうことで言うと、6世紀末~7世紀初めの “聖徳治世期” は、「大化の改新」や「律令の公布」よりもずっと大きな変化を倭国の農村にもたらした、しかも、そうして成立した古代農村社会は、律令体制が崩壊して「荘園制」に移行するまでつづいた――ということになります。

 

 これは、文字史料から組み立てられてきた常識を、くつがえしてしまう認識かもしれません。では、“聖徳治世期” に、いったい何が起きたのか? ひとつ考えられるのは、古代農村社会の成立という変化が、推古朝――“聖徳治世期” における溜池築造などの農業インフラ開発の進展と、無関係だったとは思えないことです。

 

 これまでの日本史の常識では、7世紀半ばの「大化」クーデターの前と後とでは、「大化」以前は豪族の私的大土地所有、以後は「国家公民」体制という、大きな違いがあるように言われてきました。しかし、この常識はもう、額面通りに受け取ることはできなくなった‥と私は思うのです。

 

 前々回【38】で見たように、「大化」クーデターのさいには、クーデターの首謀者であった中大兄皇子が、みずからの「押坂王家」に伝来する「屯倉(みやけ)」181か所、「部民(べのたみ)」1万5千戸余りを朝廷に「献上した」と、『日本書紀』には書かれています。が、クーデターが成功して朝廷の実権を握ることになった中大兄皇子すなわち「押坂王家」にとって、「王家」の領有する土地・農民と、国家が領有する「公地公民」のあいだに、どれだけの違いがあったことでしょうか? 同じことは、“聖徳治世期” の「上宮王家」についても言えます。

 

 いやむしろ、「公地公民」体制のようなものがない「大化」以前には、国家の行なう土木事業や水田経営と、「王家」の「屯倉」「部民」経営のあいだには、実態として大きな違いはなかったと思われます。

 

 「上宮王家」の「屯倉」においても、それ以外の場所においても、溜池による灌漑は、用水供給域の稲作生産を飛躍的に増大させ、また安定化したはずです(たとえば、弥生時代はじめの稲作では、「連作」は稀で、水田の大部分が休耕地でした)。溜池の灌漑を受ける地域では、集落は、安定的に存続することができたでしょう。周辺の天水にたよる集落と比べて、飛躍的に豊かになった灌漑域の住民は、ひきかえに貢租(「出挙」など)や力役の徴収が増えたとしても、嫌がることはなかったと思います。

 

 灌漑・排水施設の保守・維持と利用には、恒常的に多大の労力を要するだけでなく、広範な地域での組織的な意思決定と、その着実な実施が不可欠です。インフラ施設を存続させる必要性は、集落の形成と組織化に寄与し、その面でも、集落の恒常性を高めたでしょう。

 

 もっとも、畿内全域において、古代農村集落の出現が “聖徳治世期” に集中している理由を、聖徳・推古政権による・溜池など農業施設の建造にのみ帰することは困難です。すべてを彼らの力に帰しえないだけの広がりが見られます。まだ解明されていない社会経済的変化が背景にあるのかもしれません。しかし、さしあたって容易に確認できる要因としては、大陸、とりわけ朝鮮半島からの新たな土木技術の導入を挙げることができると思うのです。

 

 そのことを今回、「大阪府立狭山池博物館」で展示している「狭山池」発掘調査の成果から学ぶことができました。これについては、次回 (18) で御覧に入れたいと思います。

 

 

飾履」(復元品)。牟田尻中浦A3号墳出土。6-7世紀。海の道むなかた館。

福岡県・宗像は、弥生以来の朝鮮半島との交易を担った海人族の根拠地。

この金銅製の靴は、ヤマト・斑鳩の「藤ノ木古墳」副葬品とも似ている。

 

 

 

【46】《第Ⅱ期》 「肩岡池」補足―― “段々の池”

 

 

 前回にフィールドワークをアップした後、図書館で関係文献を漁ったところ、ネット検索では解らなかった諸点を解明することができました。そのなかで、《第Ⅱ期》の「肩岡池」、「菅原池」、《第Ⅲ期》の「広大寺池(和珥池)」について、ここで取り上げて補足しておきたいと思います。

 

 「肩岡」には、斑鳩法隆寺の近くにある王寺町の「芦田池」があてられています。このあたりから大和高田にかけての地域は、古代には「葦田(あした)の原」と呼ばれた原野で、未開発の荒地や湿原が広がっていたようです(↓地図参照)。

 

  「あすからは若菜つまむと片岡のあしたの原は今日ぞ焼くめる」

 

 湿原が森林化しないように、毎春に「野焼き」をしていたのでしょう。この歌は柿本人麻呂の歌と伝えられていますが、『万葉集』にはなくて、『拾遺和歌集』に載っています。人麻呂の個人歌集から、平安時代に『拾遺集』に拾われたのでしょうか。

 

 ともかく、このあたり「片岡」は、当時まだ半ばは狩猟・採草地で、水田開発のフロンティアだったことがわかります。


『いったいこの時期に何の目的で池の築造が行われたのであろうか。

 

 ここで注目されるのが〔…〕遣隋使の派遣である。当時、隋帝国では〔…〕広通渠、〔…〕通済渠・永済渠〔つまり「大運河」〕の開削工事など、つぎつぎと大規模な土木工事が行われていた。〔…〕それらを見聞した遣隋使が帰国後、つぶさにその状況を朝廷に報告〔…〕刺激された朝廷は、さっそく大規模な地域開発に乗り出した、〔…〕

 

 その主たる目的は王権の基盤となっていた畿内の整備、および開発ないし再開発にあったとみるべきであろう。〔…〕その主導者は、当時「皇太子」として「万機(よろずのまつりごと)」(国政の執行権)を委ねられていたという聖徳太子であった可能性が最も強い』

『新訂 王寺町史 本文篇』,2000,ぎょうせい,pp.22-24.    


 

放光寺(片岡王寺)」。「芦田池」の 700m北にある。

四天王寺式の伽藍が発掘され、飛鳥時代の軒丸瓦を寺宝としている。

聖徳太子の創建とも、「押坂王家」の片岡皇女の創建とも言われる。

 

 

 ところで、この「肩岡池(芦田池)」を調べていて引っかかったのは、池の面積です。『大和志』によると、近世の「葦田池」の面積は「三百三十余畝」つまり 3.27ha +α あります。しかし、『王寺町史』によると現在の面積は 0.85ha にすぎないのです。18世紀には、現在の4倍近い広さだったことになります。

 

 現地に行ってみるとわかりますが、この池は谷地のいちばん下を堤防で堰き止めていて、その奥にはさらに堰堤があって、「中池」という 1.09ha の溜池があります。『王寺町史』を見ると、さらにその奥にも、現在は潰滅した池のあとが3つほど見られます↓。

 

 

『新訂王寺町史 本文篇』,p.394.   

 

中池」。「芦田池」の上部にある池。

さらに上部へ谷地が続いている。

 

中池」の上部。現在は市街地化しているが、

池の跡の一部が公園になって残っている。

 

 

 現在は「芦田池」と「中池」のあいだにある市街地も、近世にはおそらく池の一部で、この谷間全体がいくつかの堰堤で段々に区切られて溜池になっていた。それらの池の合計が、「三百三十余畝」だったと考えられます。

 

 「芦田池」の 700m北に「放光寺(片岡王寺)」という古いお寺があって、聖徳太子の創建とも、敏達天皇(推古の次)の皇女の創建とも言われています。明治時代までは、境内に塔と金堂の跡があったといわれ、最近、隣接する小学校の敷地を発掘したところ、そこからも建物柱穴などが検出され、鬼瓦が出土しました。奈良時代には四天王寺式伽藍配置の広大な寺院だったと推定されます。しかも、寺宝として伝わる「素弁・軒丸瓦」は、6世紀末に遡る古い様式のもの!‥「太子創建」との伝承も、あながち否定しさってしまうことはできません。

 

 ところで、その「放光寺」の住職が書いた『放光寺古今縁起』という鎌倉末 1303年の文書に「芦田池」のことが記されており、しかも「葦田上・中・下池」と記されているのです。

 

 つまり、「芦田池」――「肩岡池」は、江戸時代よりも相当前から、谷斜面を段々にして、広い範囲に貯水していたことがわかります。

 

 このような “段々の池造成” は、「肩岡池」以外の池でも行われたと考えられます。たとえば、河内・喜志の「戸苅池」も、現状は 0.57ha のたいへん小さな池ですが、谷奥には葦や雑草のしげった湿地がつづいていて、一部が「黒須池」という池になっています。近世の『河内志』によると、「戸苅池」は「三百畝」2.97ha で、やはりここも、段々に区切られた広い池だったと思われるのです。

 

 現在は単なる斜面の畑になっている飛鳥の「藤原池」も、“段々の池” に造成されていたと考えれば、谷地全体に池が広がっていたかもしれません。その場合には約3ha となり、それほど小さくない溜池だったことになります。

 

 

 

 

 

【47】《第Ⅱ・Ⅲ期》 「菅原池」「和珥池」補足

 

 

 前回のトップに出した地図↑ですが、赤い丸で囲んでみると、聖徳・推古政権の関わった溜池の場所が、河内からヤマト南部にかけての一円の区域に、すっぽりと収まることがわかります。おそらくこれが、「上宮王家」と大王家、そして蘇我氏の勢力範囲だったのでしょう。

 

 ただ、上の図を見ると、「菅原池」と、「和珥池」候補の「広大寺池」の2つは、“勢力圏” の外にあるというか、他の池とは離れた場所にあります。それがどうしてなのかは分かりませんが、この2つの池を調べてみると、共通する特徴が、しかもほかの池には見られない特徴のあることが分かりました。

 

 「広大寺池」から見ていきましょう。この池の特徴は、貯水池と水の受益地が離れていることです。池の堰堤の中央から、歴史的にこの池の水に優先権を持っていた「稗田」集落の中心まで、約2.5キロメートル。用水が貫通するほかの村落(もちろん水田農村)は、水利用から排除されるか、決められた少量の水だけを与えられてきました。1617年の 5村庄屋取決め文書によると、6日6夜は「稗田」村が独占利用、他の 2村が 1日1夜ずつ「番水」を受け、残り 2村は直接水を受けることもできず、番水の村から余り水を流してもらう――となっています。利用域の中で、池から最も遠い「稗田」集落の・ほとんど独占的な利用権が、伝統的に認められていたのです。池の日常管理は、池と接している池田村が行ないましたが、その池田村も「番水」権はなく、「うて樋(び)土手の上部を越えて、あまり水を流す・とい〕の水に限って「池守給」として利用できるだけです。

 

 この地域は流水が乏しく、広大寺池の貯水は貴重であるにもかかわらず、「稗田」集落が独占できたのは、なぜなのか?

 

『最末流にありながら稗田村の強い地位は、聖徳太子にまつわる伝説は捨象しても、早くから村として発生し、池水を得ていたものが、遅れて池がかりに加えられた村より卓越した権利をもっていたといえよう。

『日本歴史地名大系 30 奈良県の地名』,1981,平凡社,p.488.    

 

 「聖徳太子にまつわる伝説」というのは、むかし稗田村は貧しくて稗を食べていたので、聖徳太子が憐れんで「広大寺池」を造って利用させたという創建伝説であり〔「稗田」は古代氏族「稗田」氏に由来する。「稗を食べていた」云々は典型的な民衆語源説話であり、事実とは考えられない〕、池の西300メートルにある「聖徳太子・駒つなぎ場」という伝承地であり、池の西南にあった「広大寺」も、聖徳太子の創建した寺とされていたことです。これらの伝説は、「稗田」村が自己の優先権を伝統化するために作り、あるいは伝えてきたものであることは明らかでしょう。

 

 あるいは、聖徳太子伝説と並んで、「弘法大師が、この池を造った」との伝説も伝えられてきました。聖徳太子だけでは権威付けに足りなければ、弘法大師をも、矛盾を承知で持ち出してくるしたたかさを、見ることができます。〔『奈良県の地名』,pp.487-488,636-637. 『角川日本地名大辞典 29 奈良県』,1990,p.440.〕


『この池は引水河川に大きいものがない。〔…〕大河川のない溜池地帯では、集水面積が狭小で上流の余水をうけることが多い。このため溜池地帯では配水慣行とともに引水にも非常に複雑な規制が存在する。このように複雑な相互関係のなかに存在するのが、大和農村の特質である。』

『奈良市史 地理編』,1970,p.97.   

 

 

環濠で囲まれた「稗田」集落。

 

 

 ところで、「稗田」集落は、現在も幅 7-15m の環濠に囲まれた・奈良県でも代表的な環濠集落であり、集落内にあって環濠に接する「賣太(めた)神社」は、「稗田阿礼」を主神としています。この集落は、「稗田阿礼」の出身地と伝えられているのです。

 

 「稗田阿礼(ひえだのあれ)」といえば『古事記』編纂者の一人であり、天武天皇の舎人として『帝紀』『旧辞』等を暗唱して、太安万侶による筆録時〔712年。奈良時代初め〕まで保持したとされています。「阿礼」の実在性はともかく、「稗田」氏は、故実伝承などで朝廷に仕えた古い氏族だったと考えられます。

 

 「稗田」氏の根拠地だったとすれば、「聖徳太子」とのつながりも、あながち事実無根とは言い切れなくなります。古代の「稗田」集落は、手近な流水も、溜池を造れる地形も乏しい条件の下で、「上宮王家」ないし大王家の力を借りて、やや離れた台地沿いの谷地に自村のための溜池を確保した――というような経緯だったのかもしれません。

 

 

稗田環濠集落。集落の入口。右の石碑は、天保10年(1839年)の道標。

 

稗田環濠集落。「鬼門の七曲り」:北東角は環濠がジグザグになっている。

 

稗田環濠集落。「賣太神社」入口。

 

 

 

 

 つぎに、「菅原池」。現在は「蛙股池」と呼ばれていますが、住居表示変更前は、灌漑域にある「菅原町」(旧菅原村)の領域内であり、この「菅原」村は、菅原道真を生んだ「菅原」氏の発祥地として知られています。「菅原」氏は、もと「土師(はじ)」氏と称し、土師器の生産を担当する氏族だったと思われます。菅原町に隣接する「菅原東遺跡」で、古墳時代に埴輪を焼いた(かま)跡群が発掘されています。現在でも、この町は窯業がさかんです。その「土師」氏が、奈良時代または平安初期に、居住地の地名を取って「菅原」と名乗ったのです。

 

 当然のことながら、菅原町には「菅原天満宮」(菅原神社とも言う)があり、すぐ隣りに菅原氏の氏寺「菅原寺」(奈良時代に「喜光寺」に改称)があります。「蛙股池」の堰堤から、ここまでの距離は、約1.9キロメートルで、やはり池と利用地が離れています。

 

 しかし、「広大寺池」―「稗田」の場合とは異なって、用水の独占はなかったようです。それというのも、「蛙股池」は貯水量が多く、じつはこの池は、近在にある多数の溜池の「親池」なのです。ただ、「蛙股池」に流れ込む河川や引き込み用水は存在せず、池の水は天水に頼っています。「蛙股池」の水がいったん流れ尽くしてしまうと、また貯めるには3年かかると言われているそうです。

 

 それだけに、池水の利用は計画的に行なわれなければならず、灌漑域の村々を集めた広域的な話し合い・調整機構はあったと思うのですが、取決め文書等が残されていないところを見ると、大きな争いになったことはないのでしょう。〔『奈良県の地名』,pp.616-618. 『角川日本地名大辞典 奈良県』,pp.289,595-596.〕

 

 ともかく、関係者全員を、そうした話し合いのテーブルに就かせるためにも、やはり何らかの権威は必要です。その権威として役立ってきたのが、「菅原天神」だったのではないかと思うのです。かたや、「聖徳」「弘法」の権威を振りかざしての争いと独占、かたや、「天神」の権威のもとでの調整と和合という・この相違は、両権威の性質もさることながら、池を造ることのできた谷間地形のちがい、谷の深さによる貯水量の相違が大きく影響しているのではないかと、私は考えます。

 

 それにしても、「和をもって貴しと為す」〔十七条憲法〕と教えた聖徳太子が、自派の独占を正当化する権威として利用され、逆に、不遇を訴える怨霊そのものであった菅原道真が、謙譲と調和を主導する権威としてあがめられたのは、歴史の皮肉と言えるかもしれません。

 

『蛙股池は、丘陵の浸食谷に築造された山地型の池で、谷を利用した不規則型であり、西大寺・青野・疋田・菅原の共有池である。〔…〕この池を親池として多数の小池が存在している。池郷はこの溜池群を中心として形成されている。小池の水が全部消費されると、親池から補給される組織になっている。貯水はほとんど自然貯水のため、古くから池水はとくに大切に管理されてきた。もし全用水が放出されると、満水までには3年を要するといわれている。

『奈良市史 地理編』,1970,p.99.   

 

 

蛙股池(菅原池)」。中央の森の中に「あやめ池神社」がある。もとは

弁財天の小祠で池の守護神だったが、菅原天満宮を勧請して末社となった。

 

蛙股池(菅原池)」。「あやめ新橋」は、小学校の通学と

「あやめ池神社」参拝のために 1966年に架けられた歩行者専用橋。

 

奈良市菅原町「菅原天満宮」。鳥居左に「菅原町水利組合」の名も見える。

 

奈良市菅原町「喜光寺」。本堂内の阿弥陀三尊像。阿弥陀坐像は平安後期(重文)、

脇侍は南北朝の作。金箔がかなり残っているうえ、写真撮影自由という有難さ。

 

奈良市菅原町。この町も、環濠ではないが水路は多い。

正面奥の緑地は、残された池と島で、菅原道真生誕地の碑がある。

 

『菅原の地は、土師氏(のち菅原氏)の本拠で古くから開けていた。〔…〕菅原神社の東南あたりに菅家旧館があったところといい、いま池中の島に菅相公降誕の地の碑文が立っている。』

『奈良市史 社寺編』,1985,p.410.   

 

 

菅原東遺跡・埴輪窯跡群(6世紀)」。手前が5号窯(発掘後、埋め戻してある)。

 

菅原東遺跡・埴輪窯跡群」。3号窯(かま)の内部。

 

 

 

【48】《第Ⅱ期》 「依網池」補足

 

 

 溜池のなかでもっとも低地にあって、現在の大阪市に近い「依網(よさみ)」についても、すこし進展がありました。この池は、18世紀初めに、大和川の付け替え工事――新大和川流路の開鑿〔1704年完工〕によって池の大部分がつぶされてしまいました。1735-36年刊行の『河内志』には、「池ノ内池」として「広三百余畝」〔約 3ha あまり〕と記されています。これは、付け替え工事後に残った小さな池であるようです。

 

 新大和川開鑿以前の「依網池」の広さは、わからないものでしょうか? 残念ながら、面積を記した資料は『河内志』以前にはないようです。しかし、研究論文のなかに、1万分の1地形図に表された地形・土地利用条件を基に、古代以来の「依網池」改修史と各時代の池の範囲を復元したものがありました。⇒:「復原研究にみる古代依網池の開削

 

 この論文によると、近世初期(17世紀初め?)の「依網池古図」を基に復元した満水面積は、42.8ha という広大なものです(これは砂泥の堆積で干上がった部分を除外した水面面積らしく、↓図測してみると「池」の面積はもっと広い!)。狭山池の 1931年大改修後(近代の最大時)面積 39.3ha と比べれば、「依網池」の巨大さが推し量られます。ただ、狭山池などと違って平坦な沖積低地にあるため、砂泥の堆積で池底は浅く、平均水深 1~1.5m程度であったと推定されています。

 

 中世以前については、池の面積までは表示されていませんが、論文の復元図に縮尺が付いており、PDFリーダーを使って、おおよその面積を測ることができます。


 

フリーウェア Foxit Reader で求積作業中の画面

 

 

 ↑図中の「Ⅰ」は「仁徳朝」と考えられている時期で、実年代は 5世紀初頭との推定です。すでに、約14.8ha という巨池を現出しています。「Ⅱ」は推古朝の 7世紀初頭ころ。607年の築堤記事に照応するものでしょう。図測すると約29.5ha で、『書紀』推古朝記事に記された池のなかで最大です。この時期に新造された西除川上流の「狭山池」と連動して、「依網池」の規模も拡張されたと考えられています。「Ⅲ」は、奈良朝の「行基」集団による治水事業を経て成立した古代の最大域で、約53.7ha。近世の絵図から推定された面積よりも、さらに一回り大きかったことになります。

 

 このように、古代畿内の溜池のなかで、ずばぬけて巨大な規模を誇る「依網池」ですが、周辺に設定されていた「依網屯倉」の領域経営の一環として建築・維持されていたと思われます。

 

 607年建造記事の翌年、唐から来朝した答礼使裴世清の一行を、謁見場の「小墾田宮」に案内した「導者」として「物部依網連(よさみのむらじ)(いだき)」の名が挙がっています。おそらく「蘇我-物部戦争」以前から「依網屯倉」に関わっていた物部一族のひとりであったでしょう。そして、蘇我氏と「上宮王家」は、一帯の地を物部氏から没収して引き継ぐとともに、水利施設の修築拡張などの “衣がえ” を行なって、新権力者の威信を示したのでしょう。

 

 さて、今回はフィールドワークの補足に手間取って、予定の全溜池「まとめ」と「狭山池博物館」には届きませんでした。これらは次回にうぷすることになります

 


 

 

 

 

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