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奈良市あやめ池南「蛙股池」。推古15年(607年)造成開始の「菅原池」は、

ここだとされている。生駒山麓の台地を坼く3つの谷地の合流点を堰き止めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅱ期》 603-611

  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
  • 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。4月、「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)が完成し、法興寺(飛鳥寺)に安置。
  • 611年 『勝鬘経義疏』を完成。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
  • 614年 厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。6月、犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。
  • 615年 『法華経義疏』を完成。
  • 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
  • 622年2月 没。

 

 

 

【38】《大化前代》500 ca.~645 ――宮家、豪族家の経済構造

 

 

 《大化前代》の経済構造は解りにくい。「一族郎党」「領地」「荘園」「税」「年貢」‥‥そういった日本史の経済用語が、まるで通用しない。まして「奴隷制」「貢納制」といった “マルクス主義歴史学” の用語など、実態から懸け離れた空想でしかない。最近の日本古代史学者は、それらを捨てて、『日本書紀』などに実際に書かれているナマの用語を使うようになったが、「ミヤケ(屯倉)」「コクゾウ(国造)」「イナギ(稲置)」などと言われても、われわれシロウトには曖昧なイメージさえ浮かばないジャルゴンの集積になってしまっている。〔吉村武彦『ヤマト王権』参照〕


 逆に、のちの奈良時代あたりから遡ったほうが、イメージは持ちやすい。
 

『かつて大和朝廷を構成していた豪族たちは、それぞれの勢力基盤、経済的基盤を畿内の各地にある程度保ちながらも、7世紀を通じて次第に大王の宮の近辺への集住が求められるようになり、やがて京戸に登録されて京城内に宅地が与えられるようになった。』

坂上康俊『平城京の時代』,岩波新書, p.90. 

   

 ひとくちに「豪族」と言っても、ヤマト王権を構成する「豪族」とは、畿内(ヤマト、河内、難波、山背 やましろ)に領地ないし勢力圏をもつ氏族のことだった。7~8世紀における「律令国家」の成立とは、彼らが天皇を頂点に頂いて集結し、畿外7道に支配を浸透させてゆく過程にほかならなかった。

 

 《大化》以後のヤマト王権は、畿外諸国に「国司」を派遣し、はじめは臨時に、しだいに常駐させて地方の支配を固め、地方固有の諸勢力「国造(こくぞう,くにのみゃっこ)」の支配を打倒し、「国造」層をヤマト政権の下部に吸収していった。したがって、畿内には「国造」はいなかった。あるいは、ヤマト王権そのものが、「畿内の国造」だった。

 

 畿内の「豪族」諸勢力は、ヤマト王権の一部として、すなわち畿外諸国に支配を及ぼす側として、この過程に参加した。彼らの上層部――有力氏族――は、天皇家と通婚を重ねて王権に一体化した。

 

『畿内の有力豪族たちは、大王を推戴して朝廷を構成し、それを支える立場に自らの身を置いたのであって、彼らは大王と婚姻関係を重ねてその後ろ盾となったり、あるいは軍事や祭祀などの専門職として大王に奉仕する道を選んだのであった。〔…〕「畿内の国造〔=ヤマトの大王〕」への諸国の国造からの服属の証の後身が天皇への調庸の進上であった』

『平城京の時代』, p.89. 

 

 律令体制のもとでの租税は「租・庸・調」であったと、日本史の教科書には書かれているが、実態はやや異なったものだった。「租」は、徴税の基本ではなく、集められた租穀は中央には送られず、各・国衙・郡衙の倉庫(正倉)に貯蔵された。地方でそれを消費することも許されず、毎年ただ積み増してゆくだけであり、ようやく平安時代になってから、一部を中央官僚の俸禄に流用するようになった。

 

 むしろ重要なのは「調・庸」だった。「調」は、諸国からヤマト王権――天皇――に捧げられた、服属の証(あかし)としての「みつぎもの」であって、これが最も重要な租税だった。諸国の産物を「みつぐ」という精神的・イデオロギー的な意味がひじょうに強く、物質的な意味はあまりなかった。量もたいしたことはなかったろう。天皇が、「百官」――中央官僚に、「お下がり」として頒け与えるにも、律令制初期の官僚の数にはそれで十分だったのだろう。

 

 この点が、中世の「地子」や江戸時代の「年貢」とは決定的に違う。「収奪」の意味は、収穫や労働を奪い取ることではなかった。そんなことは必要がなかったし、容易でもなかった。むしろ、魂を抜き取ることに主眼が置かれたのだ。奈良時代のことだが、朝廷は、未「帰化」の蝦夷に、毛皮や昆布などの「みつぎもの」を献上させる一方、定期的に糧穀を下賜していた。もちろん租庸調は取らない。そのかわり、しばしば数十人単位の蝦夷を捕えては、奴隷(奴婢)として諸司・高官に頒布した。これに対して、蝦夷のほうからは、糧穀の下賜をやめて公民に編入(編戸)し、税(租庸調)を取ってほしいと、多くの地方で願い出た。奴隷の扱いを受けないようにするためだったろう。そうして結局は、公民に編入され、魂を抜き取られた。蝦夷の「反乱」の多くは、こうして「帰化」した蝦夷と、未「帰化」の蝦夷の間で起きた争いに、朝廷が介入したことから起きた。〔高橋崇『蝦夷(えみし)』,1986,中公文庫,pp.99-127.〕

 

 「調」は、《大化前代》に起源があり、古墳時代以前にまで遡る。「卑弥呼」女王時代の纏向(まきむく)から、みつぎものを持参したと思われる・東海~西日本各地の様式土器が出土している。

 

 「庸」は、教科書では「力役」とされるが、じっさいに諸国から人夫を強制徴発して中央に送ったわけではない。諸国からは、郡司層、里長層の子女が中央に採用されて(応募が殺到したので、試験があった!)、朝廷の警備、雑役、炊事などに従事した。彼らを養う原資として諸国から集められた “仕送り” が「庸」で、その品目は米のほか、諸国の国衙直属の工房で製造された布・塩・真綿などだった。朝廷の土木工事の力役は畿内で徴発されたが、彼らは有給で、「庸」布の一部がその支払いにあてられた。〔以上、『平城京の時代』,pp.64-72.〕


『日本の調は、かつて国造が服属の証として大王に献上していたミツギモノの後身であり、日本の庸は、これも国造が服属の証として大王に奉仕させてきた人々への仕送りの後身という面をもっていた。

『平城京の時代』, p.88.    

 

 こうした状況から遡ると、《大化前代》のイメージが湧くのではないか。ヤマト王権が収取する重要な租税は諸国からの「みつぎもの」だった。しかし、畿内の諸「豪族」は、それぞれ自分の “領地” と「部民(べのたみ)」を支配し、その経済力に基いて朝廷に奉仕した。“領地” と言っても、境界のはっきりした荘園ばかりではなかったろう。土地よりも、住民を登録して逃がさないことが重要であったはずだ。“領地” での収取は、↓次に述べる「出挙(すいこ)」以外は、不定量の「みつぎもの」であったかもしれない。土木工事などの「力役」は、強制ではあっても手当が支払われた可能性がある。

 

 『論語』に「苛政は虎よりも猛なり」と言うが、時代が遡るほど、政治よりも自然の脅威のほうが深刻だったはずだ。“領主” である諸豪族は、飢饉に備えて穀物を貯蔵し、貸し出して利子を取る高利貸し、すなわち「出挙」を、主な収入源にしたようだ。6~7世紀には、ヤマト王権の領地を「屯倉(みやけ)」と言い、里の首長を「稲置(いなぎ)」と言ったが、いずれも収穫物の貯蔵庫が語源になっている〔吉村武彦『ヤマト王権』,pp.144-145〕。ただし、「出挙」は、決して慈善事業ではなかった。多くの場合に貸し付けは強制で、ひどい場合には、貸し出し無しで利子だけ取った。まさに「押し貸し」だった。

 

 それにしても、「律令」という法的システムが導入される以前の段階では、支配者が生産物や労働力を収奪するには、自然の脅威から「守る」、あるいは、服従の証として「みつぐ」――という口実が必要だったのだ。

 

 6~7世紀の大王家(天皇家)は、決して一体的な存在ではなかった。各・宮家(皇子、皇女)はそれぞれ独立して「屯倉(みやけ)」と「部民(べのたみ)」を持った。たとえば、聖徳太子の母「穴穂部(あなほべ)皇女」の呼び名は、彼女が育った「穴穂(あなほ)宮」〔現・奈良県天理市田町「穴穂神社」付近か〕からきている。「穴穂部」は、「穴穂宮」を経済的に支える領地と住民を指す名称。

 

 

高市池」跡。奈良県橿原市木之本町にある凹地。「高市池」の跡

として有力視されているが、規模は小さい。どれほどの水田面積を

潤すことができただろうか? 左の白い倉庫は奈良文化財研究所。

 

 

 太子(皇太子)である厩戸皇子の場合は、畿内・畿外の各地にそうした「屯倉」をもっていた。「上宮王家」の台頭にともなって、多くの領地と住民が彼らに帰属した。たとえば、587年に敗死した物部守屋の「部民・田荘」は没収されたが、その半分は、厩戸の寺である四天王寺に施入されたという〔『飛鳥の都』,pp.59-60〕厩戸は、皇太子に特別に与えられる「壬生部(みぶべ)」という部民・領地も受けている。

 

 646年、中大兄皇子は「大化改新」にあたって諸豪族・皇子皇女の「部民・屯倉」の廃止(没収)を上奏し、自ら「押坂王家」の所領を朝廷に献上したが、その数は「部民」1万5000戸あまり、「屯倉」181か所にのぼったという〔同書,p.60〕。「押坂王家」と対抗し合って滅ぼされた「上宮王家」の資産規模も、それ以下ではなかったろう。

 

『上宮王家は畿内を中心とする全国各地に屯倉をもち、水田経営や出挙〔稲の高利貸し〕を行なっていた。また、皇位継承予定者たる聖徳太子には 607年に壬生部が与えられ、「上宮乳部(みぶ)」と呼ばれて王家の政治力・経済力の源泉となった。上宮王家は蘇我氏の血を受けつつも、独立した権力体として斑鳩の地に君臨したのである。』

『飛鳥の都』, p.33.  

 

 

 

【39】《第Ⅲ期》 612-622 ――溜池

 

 

 「上宮王家」の経済・権力の源泉をなした「屯倉」施設のうちで、こんにちわれわれが眼で見て確かめることができるのは、水田灌漑の貯水池だろう。『日本書紀』を見ると、607年、613年に次のような記事がある:

 

『十五年〔607年〕の春二月の庚辰の朔(ついたちのひ)に壬生部を定む。〔…〕

 

 是歳の冬に、倭国(やまとのくに)に高市(たかいち)池、藤原池、肩岡池、菅原池を作る。山背(やましろ)国に大溝(おほうなて)を栗隈(くるくま)に掘る。且、河内国に戸苅(とかり)池、依網(よさみ)池を作る。亦、国毎(くにごと)に屯倉を置く。〔…〕

 

 二十一年〔613年〕の冬十一月に腋上(わきのかみ)池、畝傍池、和珥(わに)池を作る。又、難波より京に至るまでに大道(おほち)を置く。』

家永三郎・他校注『日本書紀(四)』,1995,岩波文庫,pp.110,126.  

 

 『日本書紀』の記載の常として、これらの年代は、各池の造成が始まった時点と見るべきだろう。

 

 これらの池すべてが「上宮王家」のものとは限らないが、当時造成された多くの貯水池のうちから、推古聖徳太子に関係する溜池が摘記されている可能性がある。というのは、ここに並んでいるのは、当時造成された溜池の全部でも、主要なものでもないからだ(詳しくは (17) で)。

 

 順に、フィールドワークをしていこう。


 まず、大和国の「高市池」↑。香久山北西麓にある「奈良文化財研究所」の裏手に、数十メートル四方の窪地があり、「高市池」の跡地ではないかと言われている。すぐ上手(写真の上部)に隣接して「畝尾都多本神社」と「畝尾坐健土安神社」↓があり、2社とも拝殿は、池跡を拝む向きに建てられている。近くで軒丸瓦が出土しているので、「大官大寺」が一時この木之本町にあったとする説もある。しかし、この窪地は狭く、貯水池としてはかなり小規模なものだったように見える。

 

 

畝尾坐健土安神社」。橿原市木之本町。

 

 

 「藤原池」跡↓。明日香村の県立「万葉文化館」裏手にある谷地(やち)。左上方の木立ちの中に、藤原(中臣)鎌足の誕生地(藤原邸)跡とされる「藤原寺址」がある。「藤原」は、この地域の古い地名で、中臣氏は屋敷の所在地名から「藤原」を名乗るようになった。

 

 たしかに、谷口を堤防で塞げば水が溜まると思われるが、この谷地は傾斜がきつい。水を貯めても、小さな池にしかならないのではないか、と疑問に思う。

 

 


藤原池」跡。明日香村小原。


藤原池」跡。上方から見下ろす。
 

 

 「肩岡池」は、『大和志』〔1735-36 刊行〕によると、↓この「芦田池」のこと。奈良県王寺町本町4丁目。斑鳩から、ほど近い。すぐ南に位置する香芝市「尼寺廃寺跡」(「片岡寺」とも呼ばれる)は、聖徳太子ゆかりの「葛木寺」とする説がある。このあたりまで、「上宮王家」の勢力範囲だったかもしれない。ただ、「尼寺廃寺跡」は「押坂王家」の造営とする説も有力。

 

 大きな貯水池ではないが、上で見た「高市池」「藤原池」よりは広い。

 

 

肩岡池」とされる奈良県王寺町「芦田池」。
 

 

 「菅原池」は、現・奈良市あやめ池南の「蛙股(かえるまた)池」(↑トップ画像)とされる。灌漑域に「菅原」の地名があり、家永他校注『日本書紀』の註で、「(菅原池は)添下郡菅原(今、奈良市菅原)にあったのであろう」としている。

 

 この池は、たいへん広く、堤防も高い。3本の谷間を併せた Ψ 形の湖水。ただ、近くに、もっと小さい溜池は幾つもある。なぜ蛙股池が「菅原池」とされるのか、いまひとつ分からなかった。この地域と「上宮王家」とのつながりも不明。


 

蛙股池(菅原池)」の堤防。

 

 

 「栗隈の大溝」。「大溝」は、灌漑水路、排水路、舟運用の運河、などの説がある。あるいは多目的かもしれない。

 

 家永他校注『日本書紀』の註は、『和名類聚抄』にある「山城国栗隈郷」の地名から、「栗隈」とは「京都府宇治市大久保のあたり」であったとし、『大日本地名辞書』等から、「大溝」は、この「古川」↓か?とする。

 

 

京都府久御山町と宇治市大久保町の境を流れる「古川」。

古代条里に沿って北流する。「古川橋」から撮影。


 

 「河内国」以下は、次回にフィールドワークしたい。


 

 

 

 

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