小説・詩ランキング

 

大阪府太子町「山田高塚」古墳。比定「推古天皇陵」。

『日本書紀』の記述から、推古天皇は息子の竹田皇子の陵墓に

合葬されたとされ、ここに比定されている。しかし、本古墳には

2つの石室に3人以上が合葬されており、被葬者は不明である。

 

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

 

《第Ⅱ期》 603-611

  • 607年 厩戸皇子、法隆寺(斑鳩寺)の建設を開始。屯倉(みやけ)を各地に設置し、藤原池などの溜池を造成し、山城国に「大溝」を掘る。
  • 609年 厩戸皇子、『勝鬘経義疏』の著述開始。4月、「丈六の金銅仏」(現・飛鳥大仏)が完成し、法興寺(飛鳥寺)に安置。
  • 611年 『勝鬘経義疏』を完成。

《第Ⅲ期》 612-622

  • 612年 百済の楽人・味摩之を迎え、少年らに伎楽を教授させる。厩戸皇子、『維摩経義疏』の著述開始。
  • 613年 畝傍池ほかの溜池を造成し、難波から「小墾田宮」まで、最初の官道「横大道」を開鑿。『維摩経義疏』を完成。
  • 614年 厩戸皇子、『法華経義疏』の著述開始。6月、犬上御田鍬らを遣隋使として派遣。
  • 615年 『法華経義疏』を完成。
  • 620年 厩戸皇子、蘇我馬子とともに『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂(開始?)。
  • 622年2月 没。

 

 

 

【35】《第Ⅲ期》 612-622 ――「長者窮子」のたとえ

 

 

 前回私たちは、『法華義疏』「安楽行品」から、太子の仏教観は、「閑静な場所で坐禅したがる禅師」には「近づくな!」という、たいへん実践的で社会内的なものだということを知りました。

 また、『勝鬘経義疏』に関する梅原氏の解説から、「如来は煩悩に内蔵されて、煩悩を出でず、しかも自ら常に清浄である」という「如来蔵」のパラドックスを、太子が賞揚したこと。そして、煩悩を離れるのではなく、むしろ煩悩のただなかで如来の悟りを得ようとする・日本独特の仏教を宣言したことを見ました。

 しかし、『法華義疏』のなかで、私が注目する箇所はもう一つあります。前回扱った「譬喩品」の次の章「信解品
(しんげほん)第四」です。ここでも、だれでもが成仏できるという・悟りの「平等」の思想が述べられていますが、聖徳太子の理解には、なお一種独特のものがあると思われるのです。

 「信解品」の喩え話は、「長者窮子」です。

 「譬喩品」のさいごで、シャカが長老・舎利弗
(しゃりほつ。シャーリプトラ)に向かって、

 

 「おまえたちのような声聞(しょうもん)も、この上なく完全なブッダの悟りを得るであろう。」と授記〔将来を保証する予言を与えたのを聞いて、他の長老たちも感動して立ち上がり、須菩提(すぼだい。スプーティ)以下4人の長老が、↓次の喩え話をシャカに語ります〔ここも、主にサンスクリット原典の訳から要約します。内容は漢訳法華経とほぼ同じです〕

 

 「私どもは、この教団の中で最年長者と認められていますけれども、」と、長老たちは言った。「年を取って自分の悟りに安住してしまい、ブッダの・この上なく完全な悟りを得る努力をしないでおりました。私どもは長年にわたって世尊〔シャカの尊称〕のおそばに列席し、求法者たちに世尊のおことばを伝え、〈この上なく完全な悟りを得るよう努力せよ〉などと言っておりましたけれども、自分にもそんなことができると思ったことはなかったのであります。ところが、きょう世尊が、〈声聞(しょうもん)たちも皆、ブッダの完全な悟りを得るであろう〉と予言されたのを聞いて、望みもせず考えてもみなかった偉大な宝玉を、突然に得てしまったのであります。」

 長老たちは、そう言って、つぎのような喩え話をシャカに語った。

 ある男が、父のもとを離れて他国へ行き大人になったが、たいへん貧乏であった。仕事を探して諸国を放浪していた。その間に、父も他国へ行って大金持ちになり、多くの財貨を蓄えて農業や商業を手広く営み、多数の使用人を抱えていた。ある時息子は偶然に父の屋敷の前を通りかかり、豪奢な椅子にふんぞりかえって大きなウチワで扇がせながら、おおぜいの王侯貴族や商人に取り巻かれて取引をしている父の姿を見た。父は彼を見て、一目で自分の息子だとわかったが、息子のほうは父とは思わず、「こんな富豪の家に私のする仕事はない。捕まえられて強制労働をさせられたら恐ろしいことになる。」と思って逃げ出した。

 父は、召使たちに息子を追いかけさせた。召使たちは、泣き叫ぶ男を捕えてむりやり引きずって来たが、男は、何も悪いことをしていない私をどうして処刑するのかと叫び、倒れて失神してしまった。父は、「手荒に扱うな」と言って、冷たい水だけかけてやり、それが自分の息子だということは誰にも言わなかった。実の息子が、自分の栄耀栄華のさまを疎んじて見ているということを、人に知られたくなかったからだ。父は、召使たちに息子を解放させ、息子は馴れた貧民窟へ仕事を探しに行った。

 そこで父は、息子を引き寄せるために巧妙な手段(方便)を案出した。顔色の悪い貧相な男を二人雇って息子のところへ行かせ、息子に、ふつうの2倍の日当で雇うから、俺たちと一緒に、あの金持ちの家の汲み取りをしてほしいと言わせた。息子は、彼らと3人で屋敷の汲み取りをするようになり、自身は近くにある藁葺きの小屋に住んだ。

 父は、屋敷の窓から、汲み取りをしている息子の姿を見て、なにか異和感を感じた。そこで、冠と華美な衣装を脱ぎ捨てて汚れた衣服をまとい、右手で「除糞の器
(うつわ)」を持って、手足を泥で汚しながら息子に近づいて行き、声をかけた。

 「ぼんやり立ってるんじゃない! この籠を持っていって糞尿の掃除をしろ。」

 長者は、そうやって息子と言葉を交わすようになり、おしゃべりをしながら息子に次のように言う。「おい下男、おまえは他所
(よそ)へ行かないで、ここで働け。おまえには特別の給金をやろう。欲しいものがあれば、何でも言え。わしをおまえの父親と思え。なぜかと言えば、おまえは他の下男と違って不正をしないし、傲慢でもなく、猫かぶりもしないからだ。」

 こうして、長者は彼を「息子」と呼ぶようになり、息子も長者になついて、以後 20年間、この屋敷に自由に出入りして汲み取りの仕事を続けた。しかし、住む場所はもとのままで、屋敷の外の藁葺きの小屋にずっと住んでいた。

 やがて長者は老衰して、死期の近いことをさとったので、息子を呼んで、自分の全財産を譲り受けてほしいと言う。息子はもう拒否はしなかったが、倉庫にあふれる金銀財宝を見ても、その中から何ももらおうとはしない。そして、自分はやはり貧乏だと思って、あいかわらず藁葺き小屋に住んでいた。

 これを見て長者は、息子が財産を守るのに有能で、心が高潔で謙遜しており、貧乏であったことを恥じて自己卑下していることを知る。そこで長者は、多くの親戚や国王・大臣を集めて息子を紹介し、

 「みなさん、この男は私の実子で、私はこの男の父です」と告白し、父子がはぐれて生活するようになった行き違いの一部始終を語る。「私の全財産をこの男に譲ります。彼は、私の財産を、どんなに小さなものまでも知っています。」

 息子は、長者のこの言葉を聞いて、驚くとともに不思議に思い、

 「いったいどういうわけで、私は突然、このような莫大な財産を得てしまったのだろう」と考える。

 喩え話を終えると、長老・摩訶迦葉
(まかかしょう。マハー=カーシャパ)が詩頌を唱えた。詩頌のなかで、カーシャパは次のように歌った。

 

 「われわれは、自分なりに平安な境地に達したと思っていたが

  それより以上には進もうとしなかった。

  もろもろの仏国土のすばらしい光景を聴いても

  喜びをまったく感じなかった。

  〈そんな状況はこの世にはない〉と考えて、信じようとはしなかった。

  ブッダのこの上ない智慧を求めようとはせず、

  〈無欲こそ究極の条件である〉というブッダの言葉だけを信じてきた。

  ブッダは、われわれの下劣な〔向上心のない〕意向を知っておられたが

  われわれを放置して時を待たれた。

  ブッダは巧妙な手段(方便)によって、すぐれた悟りを求めようとしない・無欲な息子たちを放置して馴らし、

  馴らしたのちに、この智慧を与えるという困難な仕事をされた。

  財産を譲られた貧乏な男のように、われわれは突然のことに不思議な思いがした。

  われわれは長いあいだブッダの教戒にしたがって戒めを守ってきたが、

  きょうわれわれは、実践してきた戒めの果報を得たのだ。」  

 

 

二上山・石切り場跡。二上山に産する凝灰岩は、6~7世紀の

横穴式石室や寺院の礎石・基壇の材料としてさかんに用いられた。

石を切り出した作業の跡が、はっきりと残っている。

 

 

 

【36】《第Ⅲ期》 612-622 ――糞尿にまみれるブッダ

 

 

 この喩え話に太子が付している注釈のなかで、とくに注目したいのは、長者が、屋敷で働き始めた息子の姿を、窓からこっそりと覗いて、なんて汚らしい格好をしているのだと思う。そこから先の部分です。

 

 漢訳『法華経』のテキスト(読み下し文)は、次のようになっています:

 

『窓牖の中より遙かに子の身を見れば、羸(つかれやせ)憔悴(やつれ)て、糞土・塵坌(ちり)にて汗-穢(けが)され、不浄なり。

 

 即ち瓔珞と細軟なる上服と厳飾の具とを脱ぎて、更に麤弊垢賦(やぶれあかじみ)たる衣を著(き)、塵や土に身を坌(けが)し、右の手に除糞の器(うつわ)を執持して、畏(おそ)るる所有るに状(かたど)りて〔…〕

坂本幸男・他訳注『法華経(上)』,1964,岩波文庫,p.232.  

 

 息子の・汚れて見すぼらしいさまを見た長者は、自分も美麗な上着とネックレスなどを脱ぎ捨てて、汚いボロに着かえ、除糞籠を手にもって、ゴミにまみれながら庭に降りていきます。そのさい、「畏れているようなふりをして」――自分も雇人のように、怖い監督が来やしないかと、おどおどしたようすをして、息子を安心させようとするのです。太子の注釈:↓

 

『《糞土や塵坌(ちり)にて汗-穢(けが)され、不浄なり》とは、備(つぶさ)に九十八使の煩悩有るに譬

花山信勝・校訳『法華義疏(上)』,岩波文庫, p.328. 

 

 つまり、息子の汚い身なりは、さまざまな煩悩に悩まされている状態のたとえです。しかし、そうだとすると、長者が汚い衣装に着替えて、ゴミにまみれながら息子のところへ行くのは、自分も煩悩にまみれることを意味します。長者は、如来(ブッダ)の喩えです。如来が、息子(信者)を教化するために、自分も煩悩の世界に降りて行って、煩悩にまみれることを意味します。


『《更に麤弊垢賦(やぶれあかじみ)たる衣を著(き)、塵や土に身を坌(けが)し》とは、言うこころは、凡夫(ぼんぷ)たる太子の身を示して現われ、九十八使(煩悩)に同ずとなり。』

a.a.O.     

 

 ここで、いきなり「太子」という言葉が出てきます。この「太子」はもちろん「聖徳太子」ではなく、シャカ族の太子シッダルタのことです。しかし、聖徳太子がここで、思わず「太子」という言葉を使ったのは、話中の長者、したがってシャカに、自分を重ねているのではないでしょうか?

 ブッダは、すでに自分は「如来の悟り」を達成して、煩悩のない状態(法身
 ほっしん)になっているのに、あえて悟りを開く前の凡夫――シッダルタ太子の人間の身体に戻って、信者の前に現れた、ということです。そのようにして、「九十八使の煩悩」に「同(どう)じた」と、聖徳太子は言うのです。

 富豪になった父が、偶然に出会った息子を迎え入れようとしても、息子は、金持ちは貧乏人を虐げるものだと思っているので、けっして気を許そうとはしない。むりやり連れて来れば、「私を殺さないでくれ!」と泣き叫ぶので、これが自分の息子だとは人にも言えない。

 この息子のような貧乏な雇い人に近づくには、豪勢な服装をしたままではダメで、自分も汚いかっこうをして糞尿にまみれ、虐待されるのを恐れるような態度をしなければならない。

 仏教で人々を教化しようとする帝王は、高みに君臨して、「正しい」仏の教えを垂れているだけではダメだ。凡夫が「四苦」にまみれている苦しみの現場へ降りて行って、自分も煩悩にまみれながら、彼らに近づかなければならない。太子は、そう考えたのではないでしょうか? 太子の注釈を、さらに読んでいきます。

 

『「更に」と言う所以(ゆえん)は、長者は昔日穢(けが)れたるを服して家事を作(な)し、而して後に貴きを著(ちゃく)して坐に居(すわ)れり。而るに、今将(まさ)に諸子を教えて家事を作さしめんと欲す。ゆえに、更に其の穢れたるを著す。ゆえに、「更に」と云う。

a.a.O.     

 

 昔のことを言えば、この長者も昔は今ほど金持ちではなかったはずだ、と太子は考えます。汚れた服を着て、家の掃除や汚れる仕事をしていたこともあっただろう。その後、金持ちになったので、高級な服を着て安楽椅子に座っているようになった。しかし、今また、自分の子供たちに家の中の仕事を教えることになったので、また昔の汚い服を着たのだと。

 

『内合すれば、如来は既に凡夫の色身(しきしん)を棄てて、已に万徳の法身(ほっしん)に登れり。而るに、今将に物(衆生)を化(け)せんと欲して、更に凡夫の形を示す。ゆえに、「更に」と云うなり。

a.a.O.     

 

 喩えの意味を言うと、この長者は如来(ブッダ)で、如来は、すでに凡夫であった時の人間の身体を棄てて、煩悩もなく永劫に消滅しない如来の身体(法身)になっている。しかし、今また衆生を教化するために、人間の身体をまとったのだと。

 

『《右の手に除糞の器を執(とり)持ちて》とは、〔…〕亦た同じく(まさ)に智慧を修し、煩悩を断ずることを示すとなり。如来は、生死を已に離れたり。而れども、亦た同じく方に生死を厭うことを示す。ゆえに、《畏るる所有るに状(かたど)れり》と云う。』

a.a.O.     

 

 「除糞の器」とは、汚物を取り除く道具であるから、ブッダは、凡夫を教化するために近づいた、ということの喩えだと。人びとに智慧を修習させ、煩悩を除いてゆく方法を教示しようとしているのだと。そして、如来自身は、最大の煩悩である生死さえ、すでに超越しているのだが、あえて人間の身体をまとって、死を恐れて見せるのだ、と。それが、「おどおどした態度を見せた。」という喩えの意味だと。

 

 ここには、文字どおりの「献身」と言ってよいブッダの教化活動が、つぶさに示されていると思います。そのようなブッダの姿を、自分と重ねながら描いてゆく厩戸の仏教観は、後代の誰よりも実践的なものだったかもしれません。ただ、じっさいに厩戸が、生涯の中で統治者、政治家、仏教的君主として、そこまでの実践をなしえたのかというと、‥‥やはり、そうする条件は、当時の倭国にはなかったのかもしれません。

 

 

二上山鹿谷寺址。凝灰岩の石切り場の跡に、石窟寺院と

十三重石塔を掘り残して建設されている。7~8世紀。

 

 

 

【37】《第Ⅲ期》 612-622 ――宗教理論と道徳のはざま

 

 

 つづけましょう。漢訳『法華経』テキストの次の段落です:

 

『諸の作人に語らく、「汝等よ、勤作して懈息することを得ること勿(なか)れ」と。方便をもっての故に、その子に近づくことを得たり。後にまた告げて言わく、「咄、男子よ。汝は常にここにて作(な)せ。また余(よそ)に去ること勿れ。当(まさ)に汝に価を加うべし。諸有(すべて)の須(もち)うる所の瓫器(ほとぎ)・米・麺・塩・酢の属は、自ら疑い難(なや)むこと莫かれ。」』

坂本幸男・他訳注『法華経(上)』,1964,岩波文庫,p.234.  

 

 長者は下男たちに、「おまえら、一所懸命に働け。休むんじゃないぞ」と言った。このように、わざと乱暴な現場監督のようなことも言いながら、下男たちと働いている息子のそばに近づくことができた。息子と言葉を交わすようになって、しばらくすると、長者は息子に次のように言う。「にいちゃん、おまえはよそへ行かないで、ここで働け。給料を増やしてやろう。食器も米も麺も調味料も、欲しいだけ持って行け。気にしなくていいぞ。」

 

 さて、太子の注釈は:

 

『「諸の作人に語らく」より以下は、第二に正(まさ)しく作(な)すことを教う。内合すれば、正しく為めに三乗を説くなり。〔…〕初より「その子に近づくことを得たり」に訖(おわ)るまでは、〔…〕三(三乗の)果(さとり)を取れと勧むるなり。〔…〕「後にまた告げて言わく」より以下は、〔…〕三果を与うと許すこと虚(いつわり)ならざるなり。〔…〕「諸の須うる所」より以下は、〔…〕三果を讃嘆するなり。

 

 《汝等よ、勤作して懈息することを得ること勿れ》とは、言うこころは、無漏(煩悩の解脱)を勤修して、彼(か)の三(みっつ)の果(さとり)を証せよとなり。

 

 《汝は常にここにて作せ。また余(よそ)に去ること勿れ。》とは、言うこころは、但だ、当(つね)に無漏を勤修して、復た汝が五戒・十善に就くこと勿れとなり。

 

 《当(まさ)に汝に価を加うべし》とは、言うこころは、二乗の果(さとり)は、汝が人・天の果に勝(まさ)るとなり。〔…〕

 

 第三には、須(もち)いる具(うつわ)を嘆ず。《瓫器》は、戒に譬(たと)う。《米》は、智慧に譬う。《麺》は、禅定に譬う。《塩・酢》は、無常・苦・空・無我の観行智に譬う。言うこころは、二乗の果(さとり)の中には、備(つぶさ)に是の如き種々の美有りとなり。

花山信勝・校訳『法華義疏(上)』,岩波文庫, pp.328-330.

   

 

 つまり、長者(ブッダ)は、雇い人である息子(衆生、凡夫)に対して、いきなり「一大乗」の「真の悟り」を教えるのではなく、まず、「三乗」の修業を教えて慣れさせるのです。しかし、「三乗」の教えは、たとえそのうち低いレベルの「二乗」の教え(声聞と縁覚)であっても、「汝の人天(にんてん)の果」よりもすぐれている、と太子は言います。「人天の果」とは、宗教以前の素朴な道徳観念のことでしょう。「悪いことをすればバチがあたる。善いことをすれば幸運に恵まれる」というような観念です。

 

 こういう素朴な道徳観念は、仏教などが伝わる以前から、どこの国にもあるものです。『論語』にも、「積善の家に余慶あり。積悪の家に余殃あり〔善行を重ねた家には子々孫々良いことが起こり、悪行を重ねた家には子々孫々わざわいが起きる」とあります。一種の “因果応報”。迷信的因果関係と言ってもよい。仏教でいう「五戒・十善」も、このような素朴な倫理観に立脚しています。 

 

 しかし、太子は、「三乗」の教えを受けたあとは、「復た汝が五戒・十善に就くことなかれ」と言うのです。「三乗」は、ブッダの真の教えではないとしても、すでに意識的な「智慧」の修業です。単に “因果応報” を恐れて、善いことをするように心がける、というのではなく、いわば宇宙の法則を究めてそれを会得する・宗教哲学的レベルに達しているのです。

 

 ここで太子は、悟りの3つのレベルを区分しているように思われます。もっとも高レベルの①ブッダの悟りと、「方便」の教えとを区別するだけでなく、「方便」のなかで、もっとも素朴な③のレベルと、意識的な②のレベルを峻別しようとするのが、太子の考え方の特色だと言えます:

 

① ブッダの真の果(さとり)、一大乗の果(さとり) ――阿羅漢果〔すべての煩悩を断じて、輪廻・生死を離脱した状態〕、無漏

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

② 「二乗の果(さとり)」、「三乗の果(さとり)」 ――「智慧」を学んだ意識的修業の成果。「二乗」=声聞,縁覚.「三乗」=声聞,縁覚,菩薩.〔それぞれのレベルに応じて、煩悩の一定部分を断じた状態〕

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

③ 「人天の果」、「五戒・十善」 ――素朴な道徳観念。迷信的な因果応報の観念。

 

 「五戒」は、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒。「十善」は、五戒から不飲酒を除いて、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見を加える。太子は、「経(きょう)既に云う。五戒、人身を得、十善、天身を得、と。〔五戒を守れば再び人間に生れ、十善を守れば天人に生れることができる〕」と記しています〔『法華義疏(上)』,p.107〕。「十善」を行なえば、来世は天子になるとも云います。これらは素朴な道徳観念に立脚するものですが、意識的な哲学的思索の結果ではありません。ここでの「果」は、単に善いことをした「結果」、悪いことをした「結果」であって、宗教的な「さとり」ではないのです。

 太子は、こうした素朴な、形式的な徳目を最も下位におき、宗教的思索の修業を始めた後は「ふたたびそこに就いてはならない」と言うのです。

 喩え話の前のほうで、息子が偶然通りかかった父の屋敷の豪勢さに驚いて、「貧民窟」へ逃げて行こうとする場面。そこでも太子は、「貧民窟」は「五戒・十善」の喩えであり、そこで息子が得ようとする「衣食」は「人天の果」の喩えである、としています
〔『法華義疏(上)』,p.310〕。貧民窟で仕事をもらって日銭(ひぜに)をかせぐように、酒を飲むな、人の悪口を言うなといった禁止事項に毎日追いかけられている、そういう「下劣」なレベルは早く脱却せよ、というのが、太子の考え方であるようです。

 こうした太子の解釈ですが、私は、これはちょっと理論的なほうに傾きすぎではないか、という気もしてしまうのです。その後の日本仏教の僧侶のほうが、逆に、「五戒・十善」を守って行ない澄ました態度に、傾きすぎているのかもしれませんが‥‥


 

須賀古墳群・B14号墳。6世紀後半~7世紀。

横穴式石室。「近つ飛鳥風土記の丘」



 『法華経』の喩え話は、どれもみな、たいへん豊かなニュアンスを蔵しています。「長者窮子」にしても、太子の解釈では十分に汲みつくされていない豊富な細部をそなえていると思います。たとえば「窮子」は、最初に父の富豪のさまを見て、身を避けてしまっただけでなく、その後、父の屋敷で働くようになって、好意を向けられても、屋敷の外のみすぼらしい小屋に住み続けます。さらに、全財産を与えられても、それら財宝の一部なりとも持って行こうとはしません。つまり、欲がないのです。貧乏生活(つまり、低いレベルの悟り)に頑迷に固執しているのではなく、それは、欲がないのだと思います。

 長老カーシャパの詩頌のなかで、

 

『われわれは、「無欲こそ究極の条件である」

 というブッダの言葉を信じてきた

 

 とあるように、ここにもやはり逆説があると思います。「窮子」は、無欲であったからこそ莫大な富を得られたのであり、長老たちは、「救い」に対して無欲で、「ブッダの悟り」を自分が得られるなどとは夢にも思わないでいたからこそ、それを獲得したのであると。。。

 

 このパラドックスを追究していけば、あるいはそこに、新たな窮理の宝庫が開かれるようにも思うのですが、残念ながら、太子がこの点にこだわった形跡は見出せません。

 

 『法華義疏』について、私が物足りなく思った一つの点です。

 

 シロウトの身で、慣れない経典の解釈に深入りしすぎたかもしれません。『三経の義疏』の検討は以上で終え、次回は、「上宮王家」の経済活動に話題を変えたいと思います。




 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらは自撮り写真帖⇒:
ギトンの Galerie de Tableau