前回のヤマレコでは時間の関係で行けなかった埼玉県日高市高麗郷(こまごう)の「聖天院(しょうでんいん)」を訪ねておくことにした。八高線高麗川駅から西武線高麗駅まで 4.3km のコース。GWの山行きの後遺症で全身筋肉痛wだったが、お昼すぎに出て余裕で行ってこれた。聖天院のあと時間が余ったので、「高麗村石器時代住居址」に回った。
高麗川駅から歩いていると‥‥、ややっ‥もう聖天院の屋根が見えている↓。
高麗川をへだてた向こうだが、あの立派な破風屋根は、聖天院にまちがいない。地図を見ると、小さな橋を渡ってゆく近道があるようだ。行ってみよう。
ん~残念! 橋はまだこれから掛けるらしい。目下工事中。マピオンの地図は未来志向ってことらしい。
もどって、前回の道どおりに、高麗神社の前を通ってゆくことにする。出世橋で高麗川を渡る。↓橋の上から。
高麗(こま)神社の前を通る。あいかわらず将軍標(チャングンピョ)が睨んでいる↓。きょうは人が少ない。
↓聖天院に到着。きょうは駐車場に車が1台もいない。
こちらの将軍標(チャングンピョ)は、こけしのようで、おとなしそうだ↓。
↓トッパナの山門を、ここでは「雷門」と呼ぶ。浅草みたいだな。天保年間 1832年以前の建立。
「雷門」と次の「中門」のあいだに「高麗(こま)王廟」がある。高句麗王若光(じゃっこう)の陵ということらしい↓。「高句麗若光王陵」の石碑は、韓国の金鍾秘(キム・ジョンピル)元首相の揮毫だそうだ。廟の中には、鎌倉時代に建立された・供養の「多層塔」がある。頂の相輪が欠け、残存部も庇が無くなって摩滅しているが、五輪塔などができるより以前の石塔の形。最近寄進された羊の石像がしゃれている。
宣伝のため? 廟のわきに、将軍標の絵馬が懸けてある。この絵馬、欲しかったのだが売り切れていた。
「高麗王(こまおう)若光」のことなど、前回書いたので、現地の案内板だけ貼っておきます↓。「高麗王」の「王」は、ヤマト朝廷に賜った「姓(かばね)」で、高句麗にいた時に国王だったということではない。
「廟」の隣の・この「高麗殿池」が史跡に指定されているのだが、由緒がわからなかった。廟の多層塔と一体で「若光陵」の一部、ということか。
石段を上がると「中門」があって、拝観料受付。しかし、人がいない。300円、自分で置いてってくださいと書いてある。気に入ったw 絵馬が売り切れは残念だったが。
↓「阿弥陀堂」。室町時代の様式で、宝永年間と昭和56年に改修。市指定文化財だが国宝級の建築。
↓「本堂」。平成12年の新築で建物は新しいが、内部には飛鳥時代からの古い文化財が並んでいる。
遠くてよく見えないが、本尊を撮影させてくれるお寺は珍しいのだから、ありがたく撮っておく。中央、厨子の中が不動明王坐像(1580年造立)と両脇侍の童子像(1626年造立)。厨子の前の左右は、勢至・観音菩薩(鎌倉初期造立か)で市指定文化財。いずれも木造。
若光が守護仏として持参してきたという聖天(歓喜天)像↓。事実ならば、703年または666年以前に高句麗で造られたもの。
歓喜天は別称・聖天、人ふたりが抱き合って交合する姿であらわされる。しばしば象頭。仏教には、「情欲の強い者には、禁欲を強いるよりも、方便として存分に性欲を発揮させた方がよい」という教義がある。「男女二体」と言われることもあるが、同性愛を(戒めて)述べる仏典もあるので、男女とは限らない。ありがたい教えだが、日本では、こういう「方便」は不穏当だと思う人が多いらしく、歓喜天像を所蔵する寺院は、どこでも秘仏としていて参拝者に見せない。ここも、そうらしい。
柱のあいだに、どうにか見えた。歓喜天像は、丸い鏡の向こうにあるのだろうか。
↓在日韓民族慰霊塔。関東大震災時の虐殺犠牲者から、鉱山強制労働、徴兵戦死者、行き倒れまで、異国の地で斃れ、引き取り手の見つからない無縁仏を慰霊している。
慰霊塔もさることながら、塔のわきでこれを護っている石人像がすばらしい↓。
↑中央は、新羅・武烈王。こういう場でふつうに鎮座する李朝の世宗(セジョン)大王でも李舜臣でもなく、武烈王なのがおもしろい。唐と連合して百済を攻め滅ぼし、高句麗征討の途上で病死した。三国史に残る英雄のひとりだが、高句麗の王族・若光とは敵(かたき)同士になる。そのへん、聖天院としてはどう考えているのやら‥‥
↑王仁(わに)博士。百済から来て、日本に「千字文」と「論語」を伝えたとされる。要するに漢字を教えに来たということだが、多分に伝説上の人。
↑鄭夢周(チョン・モンジュ)。高麗末の儒学者。高麗→李朝の転換期に高麗王への忠義を守って暗殺された守節の士として有名だが、日本との関係は?‥‥と調べてみると、足利幕府・九州探題の今川貞世と交渉して、倭寇の取り締まりと、倭寇に拉致されていた高麗人の送還をさせ、ひきかえに高麗所蔵の活字印刷版『大蔵経』をもたらした。「拉致問題」を解決した人ってわけですな。
↑無名の武人像。高句麗なら、隋の侵入と戦って勝利した抵抗の英雄・乙支文徳(ウルジ・ムンドク)は居てほしいけどなあ‥‥
↓高句麗王若光像。東京・横浜の方角をじっとにらんで、深く考え込んでいるようす。在日韓民族慰霊塔の隣りに霊園があって、合葬墓もあり、韓民族とつながりのない日本人でも合葬してくれるとのこと。どうせ葬られるなら、それもいいかなぁ‥なんて思ってしまった。
聖天院をあとにして、西武線の高麗駅に向かう。巾着田(きんちゃくでん)のへりで高麗川を渡る。水がきれいだ。
「石器時代住居址」に立ち寄っておこう。縄文中期の遺跡だが、「石器時代」という名前なのは、昭和4年の最初の調査で史跡指定されたから。当時はまだ「縄文」という時代名称は無かった。
平成20~22年の発掘調査で、この丘陵上に広がる直径 120メートルの縄文「環状集落」の一部であることが判明。この昭和4年発掘部分には、時代を異にする2軒の竪穴住居が重なって存在します。↓炉の跡?
↓遺跡全景。画面に収めるためにナナメ写し。
このように「環状集落」は関東にも広がっていますが、典型的なものは、岩手、山形に多い。なぜ環状か? 私は、「どの家も特別な地位を持たない平等主義」の現われではないかと考え、いま、各地の遺跡を訪ねています。もし、この予想が正しければ、日本の歴史時代(現代まで!)の社会を深層で規定してきたバイアスが検出できるはず。。。 成果がまとまり次第、「新書日本史」のほうで取り上げる予定です。
タイムレコード 20220510
「高麗川」駅1400 - 1435高麗神社 - 1444聖天院1614 - 1648石器時代住居址1702 - 1706「高麗」駅。