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甘樫(あまかし)の丘から 飛鳥寺(法興寺・址)を望む。

 
 

 

 

 

 

 

    【5】 蘇我と物部の死闘

 

 

 587年4月(旧暦)、用明天皇は在位2年足らずで崩御した。崩御の前後に、排仏派の重臣・中臣勝海と、皇位継承の有力候補であった泥部穴穂部皇子が殺害され、宅部皇子が巻き添えで殺された。7月に蘇我馬子は群臣と謀り、泊瀬部(はつせべ)皇子厩戸皇子竹田皇子、押坂彦人皇子(部下の迹見赤檮(とみ・の・いちい)を派遣)と組んで、蘇我連合軍・対・物部軍の内戦となり、連合軍は物部守屋を殺害する(丁未の乱)。8月(旧暦)、崇峻(すしゅん)天皇が即位する。

 

 穴穂部皇子の抜け駆けのせいで少数派転落に瀕していた崇仏派を立て直し、「多数派工作」によって自派の勝利を導いた蘇我馬子の天才的マキャベリズムには、ただ驚嘆するほかはない。この間の経過を時系列に整理すると、↓つぎのようになる(いずれも 587年。旧暦表示)。

 

  •  4月2日 用明天皇、仏法を信奉したいと欲し、群臣に協議を命ずる。崇仏派・蘇我馬子と排仏派・物部守屋が対立して、衆議定まらず。
  •       排仏派の中臣勝海、崇仏に傾いた押坂彦人(おしさか・の・ひこひと)皇子と竹田皇子の像を作って厭魅(えんみ。呪い殺すまじない)の術を加える。
  •       穴穂部皇子、豊国法師を連れて用明の内裏に入る。同日、押坂彦人皇子の舎人(とねり)迹見赤檮中臣勝海を斬る。
  •  4月9日 用明天皇、崩御。次帝定まらず、空位。
  •       物部守屋は身の危険を感じて河内の物部氏本拠地に退き、対・蘇我戦争のために兵を募る。
  •  6月   蘇我馬子、額田部皇女を奉じて、穴穂部皇子と宅部皇子を殺害。
  •  7月   蘇我馬子泊瀬部皇子厩戸皇子竹田皇子、押坂彦人皇子の舎人迹見赤檮、および群臣とともに兵を起こし、物部守屋を攻囲、迹見赤檮が守屋を射殺。
  •  8月2日 泊瀬部皇子、即位(崇峻天皇)。

 

 仏教の国教化をめぐって馬子守屋が論争している間に、排仏派の重臣のひとり・中臣勝海が、押坂彦人皇子らを呪って、皇子の舎人に斬殺される事件が起きます。皇子を呪って報復されたのですから、自滅と言っていい。これでまた、排仏派が一人減りました。

 

 馬子による・穴穂部皇子ら2皇子殺害は、“ヤマトの慣習を破る者は、自派であっても殲滅する” ことを示して崇仏派の立場を正当化し、対物部戦争のための大義名分を用意する意味があったと言えます。ここに、額田部(推古)の子・竹田皇子をはじめとする大多数の皇子が蘇我方に加わることになり、諸豪族も軍勢を率いて蘇我方に附きます。

 

 2人の皇子を呪っただけで誅殺された中臣勝海には同情が集まらないのに、2人の皇子を殺害した馬子が圧倒的な支持を得てしまうのは、いったいどうして?‥と思うかもしれませんが、それこそマキャベリスト馬子の天才的威力なのでしょう。

 

 

大聖勝軍寺 大阪府八尾市。 蘇我‐物部戦争の主戦場・ 物部守屋の屋敷

があった八尾市跡部にある。聖徳太子が守屋の霊を弔うため建てたとされる。

 

 

 

 こうして、崇仏派の蘇我馬子が勝利しますが、そのあと崇峻天皇(泊瀬部皇子)が即位しているのは、なぜでしょうか? 馬子としては厩戸皇子(聖徳太子)が本命であり、額田部皇女は息子の竹田皇子を皇位に就けたかったでしょうが、2人ともまだ成人していませんでした。押坂彦人皇子の動向はよくわかりませんが、一連の騒動の中で、排仏派によって殺害されていたという説があります。彦人皇子の部下の迹見赤檮が対・物部戦で大活躍しているのも、主人の仇討ちだとすれば納得がいきます。

 

 泊瀬部皇子は、蘇我氏「小姉君」系の末弟ですが、馬子の対・物部大連合結成の際に名を連ねている以外、その前も後も事績を残していません。崇仏派の勝利に貢献したわけでもないのに、皇位を獲得してしまうのは、なぜか? ‥‥むしろ、何もしないでじっとしていたからこそ、皇位に就くことができたと言えます。いわば年功序列です。諸皇子の動向と年齢からして、じっとしていれば自分に順番が回ってくることが、彼には見えていたでしょう。

 

 「小姉君」系の末っ子として、泊瀬部皇子(崇峻)は、兄・姉たちが、次々に不祥事を起こして転落してゆくようすを見ていたはずです。自分は決して真似をするまい。そして、最後の勝利者になってやろう。――そのもくろみは、当たったのです。

 

 

 

    【6】 崇峻は、どんな天皇になったか?

 

 

 崇峻の即位とともに、百済は、官位「三品」以下3名の高官を派遣し、9名以上の僧、2名の寺工、鑪盤博士、4人の瓦博士、画工、そして仏舎利と調(みつぎ)を送って祝賀してきた(588年)。これまでにない歓迎ぶりだ。「倭国」が仏教を受け入れたことを歓迎し、同盟関係を強化することに使節派遣の狙いがあることは明らかだ。「鑪盤」は五重塔の上に建つ「相輪」のことで、「鑪盤博士」は本格的な寺院建設には欠かせない技術者。「仏舎利」は、塔の心礎に埋める。

 

『前に私は蘇我氏は百済寄り、物部氏は新羅寄りの外交をしたのではないかと考えたが、百済は物部の滅亡、蘇我の興隆を喜び、新しい政権に対する祝賀の意をこめて、僧と工人たちを送ってきたのであろう。もちろん法興寺を建てる目的である。

梅原猛『聖徳太子 1』,p.350.  

 

  「蘇我‐物部戦争」の決着に呼応した百済の素早い動きは、大陸の政治情勢にも触発されていた。この翌年(589年)、中国の北朝・が、南朝・陳を亡ぼして、後漢末以来分裂していた中国の統一をなしとげる。の成立(581年)以来、朝鮮半島各国は抗争を中止し、高句麗百済の双方に、さかんに朝貢していた。新羅に朝貢している。統一に向かって動き始めた大陸の動向を、半島各国はじっと見守っていたのだと思う。そして、強大な “統一中国” の出現が確実になった時点で、中国情勢に最も敏感な百済は、これに即応して体制を固めるべく、「倭国」への強力な援助に出たのだろう。

 

 

百済の貴族に扮した人びと (KBSニュース)    

 

 

 百済の援助を受けて、朝廷は蘇我馬子のもとで、「倭国」最初の本格的仏教寺院「法興寺(飛鳥寺)」の建立を決めるとともに、さきに敏達朝で弾圧を受けた「3人の尼」に弟子2人を併せた5名を百済に派遣して受戒させ、正式の尼僧の資格を取得させることにした。ここで、百済と倭国の微妙な思惑の違いが表面化している。馬子としては、寺院の建立以上に、倭国の自前の仏教教団を成立させて仏教国としての基礎を固めたいところだった。まだ一人の倭人の正式僧侶さえ育ってはいないのだ。ところが百済の使節は、僧侶が必要なら百済人の僧をあと10人、尼を10人追加で送るから、まずは立派な寺を建てろという(『聖徳太子 1』,p.348.)。百済の関心は、仏教によって倭国の精神界を支配することにあったのだ。

 

 使節が本国に帰って協議した結果、百済は「5人の尼」の留学を受け入れることになったが、彼女らが授戒(正式の僧の資格)を受けて戻ってくる 590年まで、「飛鳥寺」の建設はほとんど進まなかった。

 

 いまや、仏教は事実上「倭国」の国教になったと言ってよい。しかし、正式にそういう詔勅が出たわけではない。先帝・用明が死にぎわに仏教帰依の発言を残し、蘇我‐物部戦争が蘇我氏の勝利に帰したからといって、大部分の豪族は、仏教の何たるかさえまだ知らない。こんな状況では、年功序列で即位した事なかれ主義の崇峻天皇が、率先して仏教奨励の宣布などするわけがない。蘇我馬子がいらいらするのも、無理はないだろう。

 

 590年に尼たちが正式の資格を取って百済から戻って来ると、にわかに「飛鳥寺」の建築が本格化した。この年に、用材の伐り出しが始まっている。百済に加えて、高句麗が援助をはじめたと、梅原猛氏は推測する。できあがった「飛鳥寺」の伽藍配置は、3つの金堂が塔を取り囲むという、百済にも、のちの日本にもない様式で、これは高句麗の伽藍配置なのだ(『聖徳太子 1』,pp.360-362; 『聖徳太子 3』,pp.125-132。592年には、「仏堂」(3棟の金堂か?)と歩廊が完成している。これは、古代の寺院建築としては稀に見るスピードだという。

 

 591年には、「倭国」はじめての年号「法興」を制定している(『聖徳太子 1』,pp.356-360)。この時代、百済は中国の王朝に遠慮して独自の年号は作らなかった。高句麗も、6世紀半ばから年号制定をやめていた。しかし、新羅は独自の年号を制定していた。年号は、文明国として中国と肩を並べる意識の現れなのだろう。

 

 

飛鳥寺(法興寺)復元図

 

 

 

 しかし、年号にとどまっていればよかった。仏教文明国の基礎作りが目覚ましく進展すると、これまで仏教に触れる機会のなかった一般の豪族たちには、読む経典もなく、拝むべき仏像もまだないのだから、‥何がなんだかわからないが凄いことになったと、気持ちばかりが膨れ上がってしまう。もうヤマトは大国になったかのように思い込んで、気が大きくなってしまうのだ。その結果は、我が国の威力を世界に示せ‥ということになる。もう外国の言いなりになっているのはやめようじゃないか。軍を出して朝鮮半島の支配地を回復しよう!――無茶な話だが、新興国にはよくあることだ。

 

 朝廷には、「欽明帝の遺勅」というものがあった。2代前の欽明天皇が、崩御のまぎわに、「任那の日本府」を回復せよ、新羅から取り返せ、と遺言したのだ。当時すでに、「任那」つまり「伽耶」諸国は、西の百済と東の新羅に分かれて吸収され尽くしていた。その昔、「任那日本府」なるものが、ほんとうにあったのかどうかは分からない。朝鮮の史書『三国史記』にも、中国の諸王朝の正史にも、そんなものは書かれていない。『日本書紀』は、百済から贈呈された『百済本記』という書に基いて記しているのだが、この『百済本記』は、偽書である可能性が高いのだ。百済は、自国の利益のためにウソの歴史を「倭国」に吹き込んで、新羅に復仇するように仕向けた疑いがある。

 

 そうでないとしても、「伽耶」諸国が存在したのは昔の話だ。新羅に吸収された「伽耶」の王族は、新羅の支配層の中で上昇を遂げ、すでに最上層「真骨」に昇った家系もあった。たとえば、旧「伽耶」諸国の一つ「金官加羅」王の子孫に、金庾信(キム・ユシン, 595-673)という半島統一の英雄がいる。金庾信は、新羅の武将として、と結んで百済を亡ぼし、「白村江の戦い(663年)で「」軍と百済の残党を全滅させ、高句麗を亡ぼして新羅を半島統一国家としたうえ、侵入してきたを撃退した。その功績に報いるために、新羅王は、最高の官位「大角干」の上に「太大角干」という官位を設けたほどだ。

 

 こうした流れを見ると、「伽耶」諸国は、新羅に吸収されたというよりも、みずからの意志で、より大きな塊にまとまっていった、と言ったほうがよいと思う。欽明朝当時も、百済に焚きつけられたヤマト王権が、いくら働きかけても、新羅に吸収された「伽耶」諸国は、いっこうに反乱を起こすでもなく、「倭国」に服属するでもない。欽明の「日本府回復」が失敗した原因は、そのあたりにあった。同じことは、百済に吸収された諸国についても言えるだろう。たとえば、537年にヤマト王権が伽耶・百済に送った援軍の武将「アリシト」は、任務終了後も百済にとどまって定住した。その「アリシト」の子「日羅」は、百済の官位「二品」の高官となって、敏達朝のヤマトを訪れている(『聖徳太子 1』,pp.218-220)。「日羅」以外にも、百済の宮廷で重く用いられた倭人は多かったらしい。

 

 「アリシト」は、九州の葦北(現・熊本県葦北郡)の出身だが、もし「倭国」にいたとしたら、息子がヤマトの高官に出世することなど、絶対にありえなかっただろう。「倭国」が、地域と血筋で厳格に差別される社会であったのに対し、朝鮮各国は、かなり流動的な社会であったことがうかがわれる。ヤマトで、蘇我氏や物部氏と肩を並べるほど重用された渡来系氏族が、いただろうか?

 

 ともかく、そうした事情をまったく調べてみることもなく、崇峻天皇は「欽明帝の遺勅」だけを念じて、いきなり「任那の官家」再建の詔勅を出したのだ(591年)。そして、わずか3か月後には、大伴巨勢(こせ)葛城の4大豪族を大将軍に任命し、「二万余り」の大軍を筑紫に進軍させる。そのうえで、朝鮮語のできる使いを新羅伽耶に送って「任那の事を問はしむ」、と『書紀』は記す。

 

 新羅の宮廷も、旧伽耶地方の人びとも、さぞかしびっくりしたことだろう。いきなり海の向こうからやってきて、何代も前の昔の話を蒸し返し、聞いたこともない「大日本の総督府」とやら、あれ、どうなったんだ?‥などと「問う」。――こいつ、頭がおかしいのか? と思われたのではないか。

 

 崇峻天皇のような事なかれ主義者は、けっして確固たる考えがあって保守的なのではない。まわりが浮足立ってくると、自分も乗せられて騒ぎはじめ、全体をとんでもないほうに押し流してしまう。兄・姉たちの下でじっとしていた時には、慎重で分別があるように見えていたが、自分が最高位に昇ってしまうと、この人も兄・姉と同じ「政治音痴」を丸出しにしてしまったのかもしれない。

 

 この時、蘇我馬子は、どうしていたのか。『日本書紀』には何も書いてないので、想像するしかないが、馬子馬子なりの考えがあって静観していたと思う。当時、朝鮮各国は、強大化したが半島にどう出てくるか、見定めようとしてじっとしている状態だった。こんな時に、大軍で新羅に侵攻するなど、とんでもない話だ。たとえ苦戦しても、高句麗百済は動かない。新羅に押し返されるのが関の山だ。そればかりか、「」の不穏な動きがの眼に止まれば、なにが起きるかも分からないのだ。

 

 しかし、北九州まで軍を出して新羅を威嚇するのは、悪いことではない。新羅を南側から抑えることになって、高句麗百済は、新羅の脅威が減って喜ぶにちがいない。2国から、さらに多くの援助を期待できようというものだ。ただし、筑紫にとどまって海を渡らないことが条件だが。

 

 

 推定古代船「野生号」。1975年、角川春樹の発案で、復元された古代木造船による実験航海。

 奴国(博多)から帯方郡(韓国・仁川港)までを、漕ぎ手14人で 47日かかって走破した。

 

 

 

 新羅の脅威を減らしたいのは高句麗も百済も同じだが、この時点では、高句麗のほうが切実だった。高句麗は、と地続きで国境を接しているのだ。しかも、この前年 590年には、煬帝の使節が高句麗を訪れて、脅迫状のような国書を渡している。その内容をかいつまんで言えば、「朕は全世界の皇帝であるから、おまえの国もすべて、朕のものだ」、と言って、高句麗王の行動をあれこれ難詰したうえ、「おまえを辞めさせてもよいのだが、そのあと朕の役人を派遣して鎮圧するのが面倒だ。心を入れ替えて朕に従うなら、良臣と認めてやってもいい。南朝のを亡ぼすには1か月もかからなかったが、おまえの国との間にある遼河は、長江より狭いんじゃないのか? 朕がおまえに我慢するのをやめたら、一将軍に指示するだけでいいのだ。うんぬん」。これを読んだ高句麗の平原王は、恐怖のあまり病気になって死んだという(『聖徳太子 1』,pp.386-393)から、こんな圧迫を受けながら、新羅からも挟み撃ちにされたら、高句麗はたまったものではない。

 

 「倭国」が大軍を新羅の対岸に張り付けて、新羅を脅していると聞いた高句麗の次王・嬰陽王(在位590-613)は、感激したにちがいない。さっそく、僧や技術者を「倭国」に送って寺院建立を援助し、その結果、飛鳥寺の建築は急速に進展した。――おそらく、そういう経過であったと思われます。

 

『この時馬子は真剣に新羅征討を考えていなかった、と私は思う。〔…〕これは馬子の計算なのであろう。今、九州まで兵を出すことによって、高句麗から僧や技術者が来て法興寺が建つとすれば、それはおくれた日本国家を文明国家にする絶好の機会である。日本のためにもよい。しかもそれは蘇我氏のためにもよい。〔…〕

 

 文明の象徴である巨大な寺院、それを建てれば、豪族たちは、文明に裏づけられた蘇我氏の権力に驚いて、蘇我氏に服従を誓うに違いない。』

梅原猛『聖徳太子 1』,pp.397-398.  

 

 

 

    【7】 「崇峻暗殺」の背景と動機

 

 

『馬子は新しい国づくりを行なっていたのである。〔…〕国づくりの意志が法興という年号にはっきり現れる。〔…〕馬子はおそらく、とっくの昔に、自己の選択が失敗であったことを感づいていたのであろう。崇峻帝は、やはり帝(みかど)の器(うつわ)でないことを。〔…〕世界の状勢は刻々に動き、その新しい状勢に応じて、新しい手を打たねばならぬ。この非常の時にあたっての、新興国、日本の君主として、崇峻帝はふさわしくないと馬子は思いつづけていたのであろう。

『聖徳太子 2』,pp.40-41.

 

 しかも、即位した後の崇峻の行動に、馬子は気になることを感じていた。崇峻は、亡ぼされた物部守屋の妹・物部布都姫(ふつひめ)を妃(みめ)とし、后(きさき)にも増して寵愛し、しかも「朝政(みかど・の・まつりごと)」に参与させていた。布都姫は、守屋亡き後の物部氏の氏上(うじのかみ)の地位にあった(『聖徳太子 2』,pp.50-51)。物部氏のトップを、朝政に参与させる! 馬子には、反蘇我策動そのものに見えたにちがいない。

 

 もっと現実的な不都合もあったかもしれない。物部氏は、ヤマト政権の軍事を握っていた。守屋ひとりがいなくなっても、同じく軍事に関わる大豪族: 大伴巨勢等諸氏と物部氏のつながりは残っている。いま筑紫にいる「二万余り」の大軍を動かす権限は、事実上彼らの手中にある。崇峻-布都姫-現地司令官(紀・大伴・巨勢・葛城) のラインで決定して軍勢に海を渡らせ、新羅に侵攻してしまったら、馬子の権限では、押しとどめようがない。これは、何としても防がなければならない。いまここで外征に失敗すれば、新しい国づくりなど吹っ飛んでしまう。

 

 

  

6世紀半ば~7世紀初め ヤマト政権の王宮所在地

 

 

 

 こちらの図↑を見ると、崇峻馬子の反目の実態を想像することができる。

 

 当時は、天皇の代ごとに王宮を移転するのが習わしだった。欽明天皇は、初瀬川の川岸に王宮を築いていた。難波江(大阪市の西半分は当時海底で、湾だった)から舟で大和川を遡ってゆくと、奈良盆地の南東角に達する。川の名は初瀬川に変わり、古代には「海石榴市(つばいち)」という船着き場があった。広場があってバザールが開かれ、東西南北から人がおおぜい集まる場所だった。物部守屋が「3人の尼」を裸にして見せしめの尻打ちをしたのも、このバザールでのことだろう。馬は高価で、牛はまだ日本にいなかった当時、交通は舟運が中心だったのだ。欽明の王宮は、この「海石榴市」の対岸にあった。

 

 次の代の敏達は、欽明のすぐ西隣に王宮を建てている。3代のちの推古の「小墾田宮(おはりた・の・みや)」も、そのさらに西にある(「小墾田宮」の所在地は諸説ある。ここでは、梅原猛氏に従って「大福説」を採る)推古の時代になると、「横大路」という真っすぐな道が河内方面につながるので、陸上交通も利用されるようになるらしい。「小墾田宮」は、「中つ道」と「横大路」が交差する要衝に近い(『聖徳太子 2』,pp.243-249)

 

 こうして、代ごとに移転するとは言っても、平野の中央にあって交通の便利な物資集散地が、王宮の所在地として好まれたことがわかる。それは当然だろう。諸国からの使いや、諸国へ向かう役人が往来するにも、諸国からの貢ぎ物を納めるにも、交通の要地が適しているからだ。

 

 ところが、用明・崇峻2代の王宮には、この原則が当てはまらない。用明天皇は、平地の中心部から離れて、台地のヘリに王宮を建てている。推古聖徳太子も、治世の初年には、山裾の奥まった場所に宮を営んだ(「豊浦宮」と「上ノ宮」)。極端なのは崇峻天皇の王宮だ。完全に山奥の谷間に引っ込んでいる。これでは不便ではないかと心配になる。王宮といっしょに、物資の倉庫や役人の執務所まで山奥に移転したわけではないだろう。それらは相変わらず平地にあって、群臣が列席するような重要行事は、平地の旧宮で行なっていたのではないか? 崇峻暗殺の舞台となった「東国の調(みつぎ)」献上儀式は、崇峻を山奥からおびき出すために行われたのではないだろうか(『ヤマト王権』,pp.183-185)

 

 代々の王宮は、平和な時代には平地の中央で営み、乱世になると山沿いに後退するのだという(『聖徳太子 2』,p.248)。だだっぴろい平地のど真ん中では、攻められたときに防御しにくいからだろう。しかし、崇峻の場合は極端だ。おそらく、王宮に至る谷間の要所に衛兵を配置して交通を遮断し、人の通行をチェックしていたのではなかろうか。臣下が、天皇に申し上げたいことがあるとか、相談したいことがあっても、これでは近づくこともできない。

 

 なお、馬子は、小墾田(蘇我稲目が仏像を貰い受けて(552年)安置した家)、豊浦、付近の飛鳥川沿いなどに家を持っていた。

 

 崇峻はおそらく、疑い深い性格で、ふだんから過剰警備の奥に閉じこもっていたのではないか? 大陸諸国とは違って、城壁も関門もないヤマトのような社会では、そうやって警備を厳重にして閉じこもるだけで、人びとに不信を抱かせることになったと思う。まして、馬子のように複雑な意見の対立がある場合には、顔を見て話し合うことがないだけ、憶測が憶測を呼んで、溝を深めていったとしても、おかしくはないだろう。

 

 『日本書紀』が暗殺のきっかけになったとしている崇峻の発言を思い出そう:

 

 「朕が嫌(ねた)しとおもふ所の人を断(き)らむ」

 

 「ねたし」には「嫌」という漢字が当てられているが、意味は「妬(ねた)ましい」ということだ。相手を殺したくなるほど強烈な崇峻の嫉妬・羨(うらや)みの感情は、どうして起きたのか? 相手が蘇我馬子ならば理解できるだろう。この月に飛鳥寺の「仏堂と歩廊」――つまり、塔を除く伽藍全体――が完成している。山から用材の伐り出しを始めて、わずか2年。何という急ピッチな工事だったろう。「仏堂」の中に安置する仏像も、「相輪」の鋳造が必要な「塔」も後回しだ。とにかく、堂々たる威容の伽藍を手っ取り早く完成して、ヤマトの人びとを恐懼させ、ひれ伏して拝ませるのだ。そこには、高句麗百済という2大文明国の文化の精粋が注ぎ込まれている。しかも、あたかも完全な国家事業のように営まれているこの伽藍建築の成果は、国家でも天皇でもなく、蘇我氏の手に帰してしまうのだ。「飛鳥寺」は、天皇の勅願寺ではなく、あくまでも蘇我馬子の建立する蘇我氏の氏寺だからだ(『飛鳥の都』,pp.6-7)。仏教を正式に国教化するのが一歩遅れたために、そうなったのだ。

 

 崇峻としては、馬子に対抗して、「任那の官家再建」という大事業をスタートさせたはずだった。ところが、送った使いは新羅でも「任那」でも相手にされず、かといって半島侵攻に踏み切ることもできず、筑紫に置いた「二万余り」の軍勢は宙に浮いてしまっている。この失策を、どう繕ったらよいのか? 「飛鳥寺」の現出で、人心は天皇から離れ、われもわれもと馬子のまわりに集まり始めている。

 

 妬まずにいられようか!

 

 

 

 

 こうして、崇峻と馬子のあいだに対立と反目が深まっていったことは、理解できるようになった。しかし、‥‥だから「暗殺」なのか?

 

 馬子としては、このまま放っておいても、崇峻の求心力は地に落ちてゆくだろう。国政は、事実上我が手に帰することだろう。邪魔な天皇をどうにかするのは、それからでも遅くないのではないか? いったいに、崇峻4年というこの時期に、なぜ暗殺する必要があったのか? まだ、ジグゾーパズルの最後のピースが欠けている。

 

 私は、最後のキー・ストーンは、「厩戸皇子」の摂政即位に関係していると思う。それこそが、馬子が「天皇暗殺」に踏み切った決定的動機だと思う。しかし、今回もすでに、だいぶ長くなってしまった。「厩戸皇子」については、回を改めて語ることとしよう。


 

 

 

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