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創刊時の編集委員は、石牟礼道子、井上ひさし、久野収、筑紫哲也、本多勝一。現在まで継続して編集委員をしているのは、本多勝一氏のみ。現在の編集委員は、本多勝一、雨宮処凛、宇都宮健児、想田和弘、田中優子、崔善愛、中島岳志。編集長文聖姫、発行人植村隆。「ブレない雑誌」としては、日本でもっとも信頼性と定評があるといってよい。
現在では、書店の店頭に出ることはほとんどなく、定期購読による郵送を基本としている。重要記事の一部(!)を掲載する電子版↓もあります。
〔1〕 いつか来た道
(田中優子)
『ウクライナ侵攻を見ていると、既視感がある。1968年』、チェコスロバキアは『ドプチェク体制のもとで、言論や芸術活動の自由化を進め、西側との経済関係の強化を始めていた〔…〕しかし、8月、ソビエト連邦を中心にしたワルシャワ条約機構の戦車が突然、プラハに入った。まさに「蹂躙」だった。のちに「チェコ事件」と呼ばれるこの軍事侵略は、今回のウクライナと同じく、改革を進めるトップのすげ替えが目的だった。〔※〕
今回と同様に国連安保理が招集され、侵攻は国連憲章に反する内政干渉であり、即時撤退をすべきという決議案が提出される。当然、学生運動の中でも「ソビエト帝国主義」への批判が起こった。〔…〕
1991年にソ連が崩壊した。〔…〕ワルシャワ条約機構に入っていた国々は次々とNATOに移った。2008年に、当時首相であったプーチンは、ウクライナがNATOに加盟するなら戦争をする、と表明している。実際、14年にクリミア半島に介入し、クリミアを「独立国家として承認」する。〔…〕
いつか来た道である。1932年、大日本帝国は勝手に「満洲国」という国を作った。このとき〔…〕大日本帝国は〔…〕南満州鉄道の線路を自分たちで爆破し、それを「中国がやった」ことにして、それを理由に侵略したのである。なりふりかまわず拡大に走る、まさに帝国主義だ。
「日本を取り戻す」と言った首相がいた。「強いアメリカを取り戻す」と言って大統領になった人もいる。プーチンはソ連を取り戻したいのだろう。』
3月11日号, p.3.
※ 雑誌は、著者の執筆から発行までにタイムラグがあるので、事態の急速な展開に追いつかないのはやむを得ないことです。ウクライナ事態は、現時点では、もはや単なる「戦車の威嚇による内政干渉」程度ではなく、全面的侵略戦争として最初から計画されたものであることが明らかになっています。戦闘機による絨毯爆撃や民間人の無差別殺戮は、チェコ事件にはなかったものです。プーチン・ロシアの意図は、単なる「トップのすげ替え」ではなく、ウクライナを併吞して「一つのロシア」、つまり “ソ連帝国”、ロシア帝国を復活することです。この侵略の初めがチェコ事件に似て見えたのは、プーチンが全面侵略の意図を隠していたからですが、国内向け演説ではすでに侵攻前から、「一つのロシア」の復活を唱道していました。ちなみに、この演説を引用してプーチンを正当化しようとする人がいるのは信じがたいことです。(ギトン)
チェコ事件 プラハ・ヴァーツラフ広場に侵入したソ連の戦車
〔2〕 侵攻選んだロシアが国内でとる迫害政策
(榎本順一)
『「同性愛宣伝禁止法」というロシアの法律をご存じだろうか。正式名称は「伝統的家族価値の否定を宣伝する情報から子供を守ることを目的とする『健康と発達を害する情報からの子供の保護に関する連邦法』5条及びロシア連邦の個々の法律行為の改定に関する連邦法」という。
ロシア政府は、同性愛関係が児童の精神的発達に悪影響を及ぼすという理由により “非伝統的な性的関係” を未成年者に知らしめる行為を禁止するこの法律を制定した。2013年6月30日のことである。〔…〕この法律はロシア連邦議会の下院で満場一致で可決されたという。〔…〕
現在でもロシアではLGBTへの迫害が厳しい。LGBTについてメディア等で扱うことや、当事者の自主的なカミングアウトですら法的に規制されている。私も同性愛者当事者であるが、かりにロシア国内で生活を送っていたならば、このような内容の原稿を書くことはできなかっただろう。私が発信する情報は、「健康と発達を害する情報」にあたるのだろう。』
3月11日号, p.10.
「同性愛宣伝禁止法」 制定に反対するゲイ活動家を引きずり出して、
殴る蹴るの暴行を加えるロシアの若者たち。(2013年6月 モスクワ)
〔3〕 小出裕章さんにインタビュー
「原発は科学の問題ではなくて差別の問題だ」
(崔善愛)
『東京電力福島第一原発事故から11年。当時から今も一貫して、原子力の専門家として放射能の危険性を訴え続ける小出裕章さんに、崔編集委員がインタビューした。
――――原子力が安全ではないと確信されたのは、どういう経緯ですか。
原子力の夢に燃えて 68年に大学に入りました。〔…〕東北電力が宮城県女川町に原発を建てることを公表していて、私は、最初はそれを歓迎していました。しかし、電力を使う仙台ではなく、なぜ小さな漁村に建てるのかと女川の人たちが疑問の声を上げ、私は答える責任があると思い、自分で調べ始めたのです。〔…〕教授たちは原子力を推進する学生を育てるのが役割なので、私の問いには決して答えませんでした。そこで、当時米国で活動し始めた「憂慮する科学者同盟」が出している原子力の論文を読むなど、自分で情報を集めて勉強するようになりました。
そして、電気の消費地に建てられないものを過疎地に押し付けるやり方はおかしいと思うようになりました。〔…〕
――――福島原発の事故があったときに感じたのは、〔…〕専門家を信じていた自分が愚かだったということでした。原子核工学は原発推進のために存在するとうかがいましたが、その専門家たちは原発事故が起きると考えを改めたのでしょうか。
おそらく、あらためることはないと思います。専門家ですから、原発が膨大な危険を抱えていることは知っていました。しかし、それなりの大学を出て、原子力の専門家として出世していこうという人たちなので、今さらもう何もできないのです。
原子力を推進してきた専門家たちは、原発事故が起きても「メルトダウンは起こしていないし、放射能はたいしたことない」とずっと言っていました。
――――メルトダウンしているのを実際は知っていて、そう言っていたのですか?
専門家であれば知らなければいけないけれど、知っていても本当のことを言えなかった、または言わなかった人はたくさんいたと思います。
〔…〕
教授たちは、私と論争して答えられなくなると、「自分には妻もいるし子もいる」ということをたびたび言うようになりました。
私といっしょに女川に何回も通った仲間がいますが、そのうちの一人は、「自分の生活やポストを言い訳に使うような人生はいやだ」と原子核工学科をやめて建築のとび職になりました。
私は彼に、「その選択はわかるが、原子力が実際に進行していくなかで、抱えている問題を科学的に明らかにする仕事は必ず必要なはずだ。だからぼくは残る」と言いました。その時の彼との合意は、生活を言い訳にしないということだったと思います。原子炉研究所でも、それはずっと続けてきました。』
3月11日号, pp.36-39.
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