連日の比叡登りで、階段を昇れないくらい脚が痛むので、嵯峨野散策の観光コースで足休めすることにした。
去来の墓から北へ向かう。↑二尊院は時間がないのでパス。天台宗山門派、延暦寺の系統。
↓久遠寺。日蓮宗。立入禁止。観光客お断りの寺は、沿道にたくさんある。
檀林寺↓。日本最初の禅宗寺院とされる嵯峨天皇代(平安初期)の寺。ただし、1964年に再建されたもの。
目的地は、上り坂の奥にある「祇王寺」↓。平清盛の妓女たちが終生を過ごした尼寺。
本堂のようなものはなく、簡素な草庵の中に、大日如来、清盛と4人の尼僧の木像がある。
印象的なのは、奥座敷の丸い吉野窓だ↓。以前には、紅葉の季節に障子を閉めると、紅、黄色、緑色が幻燈のようにゆらゆら揺れて、「虹の窓」と言われた。修学旅行生を数人ずつ入れては、障子の“幻燈”を見せていた。
その後、外のカエデが枯れたか、枝ぶりが変ったかして、まえほど紅葉が映らなくなった。すると、初夏の新緑が映る透かし窓として有名になった。ちょうど、『アンアン』『ノンノ』の読者が嵯峨野に詰めかけたころだ。
現在も、吉野窓の外の紅葉は復活していないようだ。もちろん、祇王寺の庭全体の紅葉はすばらしい。
庭の風景↓
この庭の印象は、樹々の配置や地面の微妙な起伏が作用している。人工的に計画して作り出せるものではない。
「厭離庵(えんりあん)」↓。藤原定家の山荘の跡と伝えられる。『小倉百人一首』を編纂したのは、ここだとも云う。
↓門から内部を覗く。「厭離庵」は現在は尼寺だが、紅葉の季節には一般公開されるそうだ。11月初めころか?
なお、訪ねる前に、どちらか読んでおかれるとよいだろう:⇒『百人一首の謎』 ⇒『百人一首の謎を解く』
清涼寺へ向かう。↓この道は、「愛宕(あたご)道」と呼ばれる(清涼寺方向から撮している)。「愛宕道」は、清凉寺から、嵯峨野の北にある愛宕山神社に至る参道。かつては、東の比叡山に比肩する巡礼の要地で、路傍には古い石標が数多く残されている。
沿道の店先のカリンの実。
「清凉寺」。脇の門から入る。
↓本堂(釈迦堂)。
↓本堂の裏にある池と弁天堂。ここではもう紅葉がはじまっている。
↓阿弥陀堂。
「清凉寺」の起源は、嵯峨天皇の皇子・源融(822-895)が山荘「栖霞観(せいかかん)」に造仏安置を発願したが果たせず、子供たちが完成して「棲霞寺(せいかじ)」とし、木造阿弥陀三尊像を安置した。源融は、『源氏物語』の光源氏のモデルだと云われており、『源氏物語』「松風」に描かれた「嵯峨の御堂」は、「栖霞観」と、おおよその場所が一致する。
987年に宋から帰国した僧・奝然(ちょうねん)が、将来した木造釈迦如来像を愛宕山麓に安置して、東の比叡山延暦寺に対抗し、「大清凉寺」を建立しようとしたが果たせず。奝然は、南都系の旧仏教(華厳宗)を復興すべく、都(平安京)における拠点とする計画であったので、延暦寺の妨害に遭ったという。彼の死後、弟子たちが遺志を継いで「棲霞寺」に将来仏を安置し、「清凉寺」に改号した。奝然が将来した宋の釈迦如来像は、現在も清凉寺釈迦堂(1701年再建)に安置されている。
一方、「棲霞寺」の阿弥陀堂は、1863年に再建されて、現在も「清凉寺」内に存在する↑。安置されていた阿弥陀三尊像は、霊宝館に収蔵されている。
境内に法然の青年像もあるが、宗派は浄土宗ではなく融通念仏宗。
ところで、さきほど入って来た入口の近くに「生の六道 小野篁公/遺跡」の石碑↑がある。このお堂は、じつは「清凉寺」の建物ではなく、隣りの「薬師寺」(左の土塀の中)の本堂なのだ。「薬師寺」は、「清凉寺」の門内にあるが別のお寺。本堂が寺の塀の外にあるという、まことにややこしい伽藍配置だ。
小野篁(おののたかむら)(803頃 - 853頃)は、平安初期の公卿(従三位)で、律令法に詳しく、また屈指の漢詩人だった。昼間は朝廷で官吏を勤めつつ、夜は冥界に通って、閻魔大王の陪席で裁判官(一種の陪審員)をしているという伝説が、『今昔物語集』ほか複数の同時代文献に現れている。
⇒:『今昔物語集』巻20第45話:右大臣藤原良相が病死して冥界に行き、閻魔大王の裁きを受けたが、居並んだ陪審員のなかに部下の小野篁がいて、彼の進言で、良相は地獄落ちを免れて生き返った。
それらに基いて、後世の伝説では、京都東山の「六道珍皇寺」の井戸から冥界に下り(死の六道)、朝には嵯峨の「福正寺」の井戸から戻って来た(生(しょう)の六道)とされた。冥界に入る時は、いったん死し、戻る時に“生まれる”という意味で「生六道」という。
明治時代に「福正寺」は廃寺となり、「清凉寺」内の「薬師寺」に合併したので、薬師寺の脇に「生の六道」の碑があるのだという。
「福正寺」には、小野篁が彫ったとされる「六道地蔵」があり、合併で「薬師寺」に引き継がれている。「薬師寺」に入ってみると、たしかに3体の地蔵像があって、中央の地蔵像は「生六道地蔵尊」と表示されているが、どう見ても新しすぎる最近の石像だ↓。
地蔵尊は、死んだ人の身代わりになって、地獄で責苦を負うとされる。小野篁は、冥界で責めを受ける地蔵の姿を見て感銘し、地上に戻ってから彫像したというのが、「六道地蔵」の寺伝。
「薬師寺」のホームページによると、この石像は「分身」で、本物は別に収蔵しているのだという。
ただ、忘れないでほしいのは、「小野篁の冥界下り」は、もともと説話であって、昔の人が考えたフィクションだということだ。ところが、「六道珍皇寺」には、冥界下りの井戸があり、「福正寺」の跡地からも、篁が上がってきた井戸が掘り出されたと―――そういう「古老の話」が、大真面目に取り上げられて、論文に書かれたりする。
しかし、「福正寺」の場所は、歴史的に何度も移動しているのだ。寺が引っ越しするのといっしょに、井戸が動いてゆくなどということはありえない。明治時代の「福正寺」の跡地の井戸が、平安時代の井戸であるわけはないのだ。伝説の“考証”に熱心になると、人びとはとんでもない錯覚に陥ってしまう。⇒京都市図書館レファレンス ⇒上嵯峨の「生の六道」を探す
近くには「六道の辻」という場所もあって、そこにも古い井戸があるが、過去に「福正寺」があったどの場所とも違う。いかに由緒ありそうに見えても、それは伝説の歴史とさえ無関係で、せいぜい迷信深い近代人の思い込みの証拠でしかないのだ。
井戸は、どこの古い寺にもある。それがみな冥界に通じているわけではない。
↑磨滅した「弥勒多宝石仏」。「清凉寺」の出口に、ぽつんと置かれている。
言い伝えや由緒のあるものよりも、存外こうした何でもないもののほうが、かえって“歴史の証人”たるにふさわしい。注目して調べていけば、人びとの思い込みに惑わされない正確な事実を語りだすように、私には思われるのだ。
タイムレコード 20211016
(1)から - 去来の墓1530 - 1550「祇王寺」1607 - 1618「厭離庵」1620 - 1627「清凉寺」1646 - 1650「嵯峨釈迦堂前」バス停。