浜田知明 「忘れえぬ顔A」。
笠原十九司『日中戦争全史・上』 高文研, 2017.
ベトナム戦争から、イラク戦争、アフガン戦争に至るアメリカの戦争には、いくつかの特徴がある。
① 戦争の相手方を、対等の国家としてではなく、「匪賊」ないし犯罪者集団(テロリスト)、およびそれに同調する勢力とみなし、犯罪者を「懲らしめること(膺懲)」が戦争の目的であるという、疑似道徳的な大義名分を掲げること。
② そして実際の戦争目的も、単なる“国際紛争の解決手段”たることを超えて、相手国の政府ないし“体制”を打倒し、傀儡政権ないし親和政権を樹立することを目的とした。
③ 航空機による都市の爆撃によって、相手国の軍事・政治・経済機能を破壊して屈服させる「空爆戦争」戦術をとった。
④ ③の戦術に対抗して、解放戦線・タリバン側(*中国国民党側)は、あえて正面で抵抗することを避け、後背地に退却して長期持久戦に持ち込む戦術をとる。
⑤ 断続的な戦闘と並行して、国際世論を味方につける“外交戦”が重要な意味をもつ。(アメリカ、北ベトナム、イラク・フセイン政権;*中国国民党。⇔日本軍部はこの点で敗北)
しかし、これらの特徴はすべて、第二次大戦直前の《*日中戦争》において、すでに現れていた。アメリカは、これらを日本の侵略行為から学び取り、強化して自分の戦略としたのだ。……『日中戦争全史』を読みながら、そう思った。同書をレヴューしながら、「20世紀戦争の共通点」をふりかえってみたい。
日中戦争(1937-1945)について書いた類書は山ほどあるが、著者によれば、これまでに出ているものは、もっぱら日本史の研究者によるものだという。
著者は、中国近代史と国際関係論の専門家であり、これまでの“日本近現代史”プロパーの観点とは異なった方向からの解明が新鮮なこの大著を、読書子にぜひお薦めしたい。
著者独特の観点が表れているのは、たとえば:
① 日・中部隊間の偶発的衝突である「盧溝橋事件(1937)」に端を発した「北支事変」(中国北部に限定された戦争)を、中国全土に拡大して「日中戦争(支那事変)」を引き起こしたのは日本海軍であり、石原莞爾(満州事変[1931]の首謀者)ら陸軍「不拡大派」は、当初これに抵抗した。華中・華南への戦線拡大に突進する海軍に引きずられる形で、陸軍内部の「拡大派」が「不拡大派」を追い出して多数を占め、「上海事変(第二次)」から、中華民国の首都であった「南京」の攻撃・占領へ進んで行った。
(その際、上海での戦闘に疲弊して軍紀が乱れた陸軍が、「南京事件」の虐殺・強姦等を日常化して行軍した状況、原因等についても、本書は詳しい)
② 日本陸・海軍は、陸軍士官学校、海軍兵学校という特定の養成機関の卒業生が、卒業時の成績によって幹部・指導層を占める年功序列かつ絶対服従の閉鎖的官僚組織であった。そのため、「作戦計画が失敗し、兵員の大被害が出ようとも、……責任を追及され処罰されることはほとんどな」く、同じ過ちが何度も繰り返された。彼らは、「国家の命運よりも陸軍・海軍の組織的利益をはか」って、「戦争を利用した軍備拡張を最優先に考え」た。(p.158)
そこで、極論すれば、陸軍が石原莞爾らの謀略によって「満州事変」を起こし、さらに“華北分離工作”を進め、中国を北部から蚕食して事実上の植民地にして行ったのも、また、海軍が、北京付近に限定されていた戦線を中国全土に拡大すべく、さまざまな謀略や独断攻撃(主に空爆)を重ねたのも、「お国のため」ではなく、陸軍、海軍それぞれが膨大な軍事予算を獲得して軍備を拡張することが目的であった。(これは、著者の特徴的な立論です。)
つまり、《軍備拡張》が自己目的となっていた。戦争を勃発させる謀略も、起きた戦争を拡大させる独断行動も、極論すれば、すべてが《軍備拡張》という官僚組織の自己目的の追求であって、「満蒙は日本の生命線」「暴支[暴力的な中国を]膺懲」といった非現実的な思い込みを国民に信じさせたのも、究極的には、《軍備拡張》という軍の利益を「公正」化するためであった。
石原莞爾ら陸軍「不拡大派」が上海・南京への戦線拡大に反対したのも、反戦・軍縮の思想があったためでは毛頭なく、単に、陸軍にまさる軍備拡張を海軍が行なうことに対する反発であった。
陸軍は、ソ連との戦争に備えて満洲など北方の防備に軍事予算を集中すべきだと主張したのに対し、海軍は、対米英戦争に備えて、華中・華南を支配下に置くべきと強硬に主張して勝利を占めた。その結果、泥沼化した日中戦争は、「仏印(ベトナム)進駐[1940-41]」から「真珠湾攻撃(1941)」へ、対米開戦へとなだれこんでいった。
本書は、なんとなく常識化している「海軍善玉論」に対して、徹底的に反論している。日中戦争を日中戦争として現出させ、さらに拡大して、東南アジアから太平洋全域にわたる無謀な“対世界戦争”にしていった責任の過半は、陸軍ではなく海軍にある。それは下巻で顕著に述べられているので、下巻のレヴューで紹介することとしたい。
「南京占領」直後に起きた「パナイ号事件(1937)」(長江に停泊中のアメリカ砲艦を日本海軍機が空襲・撃沈した)は、「真珠湾」のリハーサルともいえる(米側から見れば「真珠湾」の予兆)事件だった。戦後の日本人はこの事件を忘れてしまったが、アメリカでは、Remember Pearl Harbor と並んで、Remember the Panay が唱えられた。(pp.313-319)
③ 戦争には「前史」と「前夜」がある。
「戦争は突然勃発するのではなく、戦争へと進む『前史』があり、それがいよいよ戦争発動・開始の『前夜』の段階にまで進むと、戦争を阻止することはほとんど不可能になり、謀略でも偶発的事件でも容易に戦争に突入する。
日本国民が日中戦争の歴史から学ぶべきことは、いつから『前史』がはじまり、いつ『前夜』に転換したかを知ることである。それは将来、日本が戦争『前夜』にいたるのを防ぐための国民の英知を身につけるためである。〔…〕
戦争『前史』の段階では、〔…〕平和的解決に努力し、あるいは開戦を回避する可能性も残されている。〔…〕
1928年が、日本の歴史が戦争『前夜』に向かって大きく変動していった転換点となった年である。」
『日中戦争全史・上』,pp.15,85.
それでは、著者によれば、「前史」と「前夜」の“境い目”の点は、いつなのだろうか? どんな事件が起きた時に、「前史」は「前夜」となり、「戦争を阻止することがほとんど不可能にな」ったのだろうか?
じつは、本書を読んでも、「境い目は 19何年何月」――というような形では明確に書かれてはいない。「前夜」に向かってゆく「転換点」は 1928年だ、と書いてあるだけなのだ。私の読みとったところでは、
1928年から1931年までのあいだ
という、幅のある時期を、著者は“境い目”と見ているようだ。
しかし、それでも重要なのは、「転換点」とされた 1928年だろう。この年には、「前史」から「前夜」への転換‥‥「戦争を阻止できなくなる」袋小路を日本が選択してしまった・幾つもの重要事件が現れている:
(1) 1928.2.20. はじめての男子普通選挙(衆議院)。
(2) 1928.3.15. 共産党大弾圧(三・一五事件)
(3) 1928.4.10. 労働者農民党(労農党)、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟に解散命令。
(4) 1928.6.29. 緊急勅令により、「治安維持法」改正。
(5) 1928.7.3. 全道府県に特別高等警察(特高)を設置。
(6) 1928.4.19. 山東出兵(第二次) → 5.3. 済南事件
(7) 1928.6.4. 張作霖爆殺事件。
(8) 1928.8.27. 「パリ不戦条約」締結調印。
(1) はじめての普通選挙の結果、無産政党から8人の議員が誕生した(全議席数466)ことに驚いた「護憲三派」政友会内閣は、翌3月に共産党員、労農党員、労働組合員などの一斉逮捕・拷問・起訴を行ない(3・15事件)、4月、労農党などに解散命令、6月には、国会審議を回避して天皇の緊急勅令で「治安維持法」を改正・拡張し、最高刑を死刑とし、また「目的遂行罪」(共産党員の活動を手助けした者は、共産主義思想がなくても処罰)、「未遂罪」(共産主義思想を考えただけで処罰)を追加。(p.102)
当時、労農党員の多くは共産党員でもあったから、たとえば、前年に労農党・岩手県稗和支部の設立を援助した宮沢賢治は(彼自身はもちろん共産主義者でも共産党員でもない)、そのまま活動を続けていれば「最高刑死刑」の「結社行為」で逮捕されていたはず。『毒もみの好きな署長さん』のような最期を迎えていたかもしれないのだ。
この一連の弾圧が重要なのは、労農党などの無産政党は、中国への派兵(第1次、第2次山東出兵)に反対する「対支不干渉」運動を行なっていたからだ。無産政党や労働組合が徹底的に弾圧されて消滅した結果、日本にはもう、戦争に反対する勢力が無くなってしまったのだ。
(6) 山東出兵(第二次)は、折りから、中国統一のために首都北京をめざして進撃していた国民党軍を邪魔するために日本陸軍が派兵。済南で衝突が起きたが(済南事件)、蒋介石の国民党軍は済南を放棄・脱出して北京に達し、北洋軍閥・張作霖の軍隊を破って入城、中国統一を完成した。
すると日本陸軍は、張作霖に対して、本拠である満洲・奉天に撤退するよう勧告し、奉天の手前1キロで、張の乗った列車を爆発させて爆殺した(6月4日)。張作霖は親日派で、日本の軍事援助で満洲・華北を支配していた。日本陸軍は、張の爆殺を国民党のしわざだとでっち上げて国民党軍との戦闘を起こし、一気に南満州を占領する計画だったが、張の側近が張の死を隠してしまったので、衝突は起きず、謀略は失敗した。
謀略は失敗したが、そのあと満洲・関東軍に赴任してきた石原莞爾らは、失敗の経緯を綿密に研究したうえ、3年後に「柳条湖事件」の謀略を成功させて満洲全土を占領する(満州事変 1931)。
つまり、日本軍は、たとえ謀略が失敗しても、成功するまで何度でも謀略を繰り返す組織なのだ。最初の謀略が行なわれた 1928年の段階で、事件の公表・報道や関係者の処罰が行なわれていれば、陸軍といえども、容易に繰り返すことはできなかっただろう。しかし、報道は管制され、事件の真相は秘匿され(公表されたのは、第2次大戦後)、処罰も問責もなされなかった。責任を問おうとする者さえ、日本国内にはいなかったのだ。こうして、日本は“引き返せない戦争への道”を選んだ。
28年当時、天皇ヒロヒトには真相が上奏され、27歳の若いヒロヒトは激怒したが、天皇といえども、上奏した田中首相に辞表を出させる以外のことは何もできなかった(p.93)。もちろん、全能の「統治者」である天皇に、できないことなどはないのだが、彼は、しなかったのだ。もはやこの国には、“戦争を食い止める者”は誰もいないことが、はっきりしてしまった瞬間だったといえるだろう。
ところが、この年、世界の潮流は日本と逆を向いていた。「パリ不戦条約」の調印である。日本の代表も、この条約を調印し、まもなく帝国議会は批准さえしている。もちろん、その後に日本が行なった戦争はすべて、この条約にも、他の戦時国際法にも違反しているが、そもそも、内閣も、陸軍海軍も、じっさいに守る気など無かったとしか思えない。単に、外務省が諸外国に向かって“文明国家”の顔をして見せるために調印したようなものである。
このような日本の態度が年ごと明らかになるにつれ、列強も諸外国も、日本に対する見方を改めるようになった。かつて「韓国併合(1910)」は、日本の実態を知らない諸外国の協賛を得たが、「満州国」建国(1932)は、誰からも承認されず、日本は国際連盟から脱退し、米国などから経済制裁を受け、連合国と戦端を開くことになる道を歩んだ。ヒロヒトは、太平洋戦争『開戦の詔』(1941)で、「洵(まこと)に巳むを得ざるものあり。豈(あに)朕が志ならむや。(どうして私の意志であろう。いや私の意志ではない)」と言ったが、それは自ら選んだ道だった。
「不戦条約」さえも、戦争「前夜」に陥った国にとっては、戦争の回避ではなく、むしろ勝ち目のない“戦争”へと追い立てられることを意味する。そうなってからでは遅すぎるのだ。
さて、著者の見る「前史」から「前夜」への「転換点」……どう思われたでしょうか? ―――えっ? そんなに早く? とは思わなかったでしょうか?
著者の考えが絶対とは言いませんが、われわれの考えも絶対ではない。 もしかすると、私たちはもう、「引き返せない点」のすぐ近くにまで来ているのかもしれません。
たとえ弾圧がなくとも、弾圧以外の方法で言論を生じないようにする技術が成功すれば、同じことです。そして、「謀略」。1928年当時にも、戦争とは直接関係のない謀略や疑惑や疑獄事件は、国内にたくさんありました。それは今と同じです。戦争への道を開く、「転換点」となるような「謀略」―――それがないかどうか、私たちは、もういちどよく考えてみる必要があります。
浜田知明 「初年兵哀歌 ぐにゃぐにゃの太陽がのぼる」
本書は、従来の日中戦争史とは異なる観点で書かれており、海軍による「大山事件」の謀略など、目新しい史実も発掘されているので、違和感をもつ読者が多いのではないか……そう思ってネット上の評を見ると、あんのじょう批判的な意見が並んでいる↓。しかし、私の見るところでは、それらはどれも、本書をよく読まずに“好き嫌い”で批判しているように思われる。
むしろ、著者の論証は、豊富な史料に基づいており、客観的な歴史記述として問題がないと思われる。従来の日本での「科学的」歴史観は、旧ソ連の「科学アカデミー」などの見解をなぞった面が大きく、かならずしも「科学的」なものではなかったと私は思っている。
著者の見解は、ソ連、中国の歴史観とも、日本での標準的なリベラル史観とも異なっている。それもよいのではないか。どんな歴史記述も取捨選択の産物である以上、同一の事象について、さまざまな説明がなされるのは避けられないことだ。むしろ、それだから歴史はおもしろいのだ。
下巻では、著者の見解を、さらに掘り下げてみたい。
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