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シモーヌ・ドゥブー『フーリエのユートピア』 平凡社刊。

 

 

 

 

 

 

 

 フーリエ Francois Marie Charles Fourier,1772-1837 は、ロバート・オーエンサン=シモンとならんで、「空想的社会主義者」と呼ばれている。

 

 しかし、そう「呼ばれている」のは、じつは日本語と漢字文化圏だけでの話だ。もともとヨーロッパでは「ユートピア社会主義」と呼ばれていたのを、日本の学者が、マルクス以外の社会主義に人びとの眼が行かないようにしたい政党の意向を“そんたく”して、「空想的」と超訳したのだ。そこで、『空想から科学へ』などという巫山戯たタイトルの訳書も出回ってしまう。原題は、『ユートピアから学問への von der Utopie zur Wissenschaft 社会主義の発展』だ。原題の「学問 Wissenschaft」とは、哲学、神学、美学、音楽理論、修辞法なども含む広い概念なのだ。「科学」と訳すから、自然科学のようなイメージをもってしまう。「科学的社会主義」などと言うから誤解を招く(わざと誤解させようとしている?)。正直に、「哲学的社会主義」「神学的社会主義」と言えば、それはまさに“マルクス主義”そのものだ。

 

 そう言う私も、これまでフーリエについては、「空想的社会主義」という貼り違えのレッテル以上のことを知らなかった。が、ドゥブーのこの本を読んでみると、それがまったくの偏見にすぎなかったことがわかる。 

 

 たしかに、フーリエの思想には夢想的な部分が多い。けれども、その点は、マルクス/エンゲルスにしても五十歩百歩なのだ。とくに、彼ら二人組の未来社会構想や、「プロレタリア革命運動」の構想は、かなり観念的な”骨組み”だけのもので、つまり、穴だらけだ。自己撞着も多い。それを無理やり金科玉条、ドグマ化して大衆運動を組織したり、はては現実の国家を作ろうとした結果は、周知の恐ろしい悲劇となって現出した。

 

 しかし、フーリエの場合も、たんなる勝手気ままな「空想」ではなく、現実の社会を緻密に分析して、そこに見いだされる“未来社会の芽”を、たいせつに育てて行こうとしているのだ。フーリエもまた、産業と経済の変革を基礎に据え、とくに、工場労働による《労働者の自己疎外》を、克服しなければならない“文明の病根”と見ている。その先に、彼のファンタジックな「新世界」「調和社会」の構想がある。こういう面は、マルクス/エンゲルスの社会構想とよく似ているのだ。むしろ、マルクス/エンゲルスより数十年早く、同じ方向に向っていたのだから、共産主義者たちがフーリエの思想をまっとうに継承しなかったことは、何よりも悔やまれる。

 

 ただ、フーリエが、マルクス/エンゲルスや「マルクス主義」者たちと大きく違うのは、①政治経済だけでなく、人間たちのあいだで営まれる「」と「性愛の力を重視し、調和的な社会を建設するための根本条件とみなしたこと、そして、②変革の道すじとして、プロレタリアートの大衆的な“多数の権力”に恃むのではなく、むしろ、《同性愛者》のような「例外的」「中間的」な人々の役割――男/女のような異質なものをつなぐ「きずな」「ボルト」「かすがい」となる――に着目したことだろう。

 

 

 

 

 

 

 しかし、ドゥブーの本に入る前に、マルクス/エンゲルスフーリエをどう書いているか、ざっと見ておこう。

 

 マルクスのほうは、『経済学・哲学草稿』「第三草稿」「2」の最初に、わずかな言及があるっきりである。そこでは「自己疎外の克服」について、プルードン、フーリエサン=シモンの主張が、それぞれごくかんたんに述べられている。フーリエは、私有財産疎外の根源を、「均質化され、細分化された不自由な労働」――工場労働?――のうちに見る。そして「フーリエは重農主義者にふさわしく、農耕労働を少なくともすぐれたものと考える。」と記している。

 

 たしかに、サン=シモンが資本主義産業を重視する経済学者であったのと対照的に、フーリエは、農業的共同社会を理想とし、また、経済を超える人間の欲望情念の探求を重視した。

 

 しかし、マルクスフーリエに言及した文章は、これだけなのだ。(有名な『共産党宣言』での言及は、3人の「ユートピア社会主義」を十把一絡げに扱って観念論的に一蹴しているだけなので、ここで取り上げる価値は全く無い。)

 

 エンゲルスのほうは、もう少し詳しくフーリエを紹介しているが、マルクスとちがって、ややピントが外れている。公刊された『空想から科学へ』では、うんとはしょってしまっているので、もとになった長文草稿『反デューリング論』から引用しよう:

 

 

フーリエに見いだされるのは、現存の社会状態にたいする、〔…〕才気にみちた、それでいて洞察の深さを少しも失っていない批判である。〔…〕彼は、ブルジョア世界の物質的および精神的なみじめさを容赦なくあばきだしている。彼は、理性だけが支配する社会だの、万人を幸福にする文明だの、人間の限りない完成化能力だのという、啓蒙思想家たちのけんらんたる約束や、さらに同時代のブルジョア・イデオローグたちのかざりたてた美辞麗句と、このみじめさとを突きあわせている。〔…〕彼のいつもかわらぬ快活な性質は、彼を〔…〕あらゆる時代をつうじて最大の風刺家のひとりにしている。彼は、革命の没落とともに花を咲かせた思惑的投機や、当時のフランスにゆきわたっていた小商人根性を、みごとに、また愉快に描きだしている。それにもましてみごとなのは、両性関係のブルジョア的形態や、ブルジョア社会における女の地位にたいする彼の批判である。ある社会における女性解放の程度は全般的解放の自然的尺度であるとは、彼がはじめて言明したことである。〔…〕

 しかし、フーリエが最も偉大に見えるのは、社会の歴史についての彼の見解においてである。彼は、これまでの歴史の全経過を4つの発展段階に分けている。野蛮、家父長制、未開、文明がそれであり、この最後のものは、今日のいわゆるブルジョア社会と一致するのである。〔…〕

 また、こうも指摘している。文明は一つの『悪循環』のなかを、すなわち、それ自身でたえず新たに生みだしながら、克服することのできない諸矛盾のなかを運動しており、その結果、いつでも、自分が達成しようと望んでいるもの、または達成したがっているように見せかけているものの反対のことをなしとげる。このため、たとえば、

 『文明においては、貧困は過剰そのものから生じる』
〔フーリエ『普遍的統一論』〕と。」

大内兵衛・監訳『マルクス=エンゲルス全集』,第20巻,1968,大月書店:村田陽一・訳「反デューリング論」,pp.268-270,695-696.

 


 つまるところ、フーリエはブルジョワ社会を批判した、としか言っていない。そして、自分のほうの「唯物史観」に似て見えるクダリだけ切り取って称揚する。ご都合主義としか言いようがない。「貧困は過剰そのものから生じる」という文句も、フーリエは深い含蓄を込めて言っているのだが、エンゲルスはそれを、「過剰生産恐慌」のことだと受け取って終わっている。我田引水というものだろう。エンゲルスからの引用は、もうこれくらいにしておこう。

 

 

「ファランステール」:フーリエの理論によって組織された町の想像図,

アルヌーのデッサン・リトグラフを再製。

 

 

「社会主義の考古学者〔フーリエ――訳者註〕は、〔…〕記憶を超え出て、太古以来の夢想と別の歴史を孕む現在へと前進する。彼は、『情念引力』の空間のなかに、『金儲け主義の徒刑場の奴隷たち』、いたるところで労働という十字架に釘づけられた賃金労働者たちが、自分たちが創出した美的感覚に忠実な、疲れを知らぬ恋人たちに変身するのを見る。

『フーリエのユートピア』,pp.5-9.

 

 フーリエは、ユートピア思想の歴史についても書いているが、彼自身の構想するユートピアは、そうした過去の夢物語とは別個のものだ。フーリエは、現実の資本主義社会――彼の言う「文明社会」――に対する問題意識と分析に基づいて、彼の「調和社会」を構想しているからだ。しかし、それは、マルクス/エンゲルスが構想する共産主義ユートピアとは、かなり異なっている。何よりもフーリエは、「神聖不可侵のドグマ」に、「勤勉努力と禁欲の徳」に、叛旗をひるがえす。

 

 フーリエの「調和社会」には:

 

 

 「賤民もいなければ、垢抜けたエリートもいない。ユートピア主義者は、制度化された断絶を破壊するために伝統と手を切る。彼は神聖にして侵すべからざる諸価値、勤勉努力と禁欲の徳をひっくり返して、それらが人々のあいだに掘った溝やそれらが致命的にしてしまった身分差を埋めようとする。われわれの最も内密で暗い衝動自然の秩序と結びつけることで、彼は統治と個人の分離した状態を内部から(「情念の分析と統合」によって)免れる。〔…〕

 

  〔ギトン註――マルクスのような〕経済理論は社会的人間を自然から切り離し、まさにそうすることで人間から自然の権利を、フーリエなら『野生人の権利』というであろうものを、奪い去ってしまう。〔…〕 

 

 重要なことは、事物や法則の必然性に従うことでもなければ、舞台から降りて冷静ではあるが絶望してもいる観客の役を演ずることでもない。あなたの娘が唖である理由はこうだと言うだけではだめで、どのように娘を治療するかを語らなくてはならない。〔…〕労働の仕方と情念引力をともども解放しなければ根本的変化はないし、さまざまの禁止を取り除くのでなければ労働者の正しい結合(アソシアシオン)もないと確信して、フーリエは類例のない自由の風をわれわれのところまで送ってくる。」

『フーリエのユートピア』,pp.5-9.

 

 

 情念引力」の解放こそ、フーリエの社会主義のカナメなのだ。「性欲」と「性愛」に表れる「情念引力」こそが、文明が――マルクス/エンゲルスなら、「資本主義が」と言うだろう――人々のあいだに建ててしまった垣根を取り払い、「調和」と和合を取り戻す力となるのだ。

 

 

「筆者〔シモーヌ・ドゥブー――ギトン註〕はたいへん幸運にも、未完の長大なフーリエ――ギトン註〕草稿に陽の目を見させる巡り合わせになった。この草稿の標題は『愛の新世界』であり、副題は『最終的総合』である。〔…〕実際、彼はそこで、『情念のうちで最も美しいもの』、すべてのうちで最も強力でそれ自身以外では正当化されない感情について語っている。

 

 彼は言う――『の営みには誰にも道理がある。なぜならとは非理性への情熱であるから』。そして彼はこの主張から数々の帰結を引き出す。彼は、最も高貴な感情から最も不条理な淫蕩癖まで、『の聖性』から『淫らな空想』まで、のあらゆるヴァリエーションを分析して、それらをいっそう助長し、それらに『完全なる飛躍』を与えようとする。そして彼はこれらの奇癖を、『自然があらゆる領域で増殖させる両義的なもの』に結びつける。

 
〔…〕奇癖が違法に向かうのか崇高に向かうのか、どちらとも言えないように、自然界の『両義存在者』(生石灰、毛のない桃、オランウータン、蝙蝠)は、複数の可能な道に挟まれた自然の躊躇を表している。それらは規則と階層性、はっきりした尺度や分類〔つまり、理性的秩序――ギトン註〕を、いたるところで問い直す。〔…〕それらの枝は系列〔数列、音階――訳者註〕体系〔つまり、理性的秩序〕を揺るがすかに見えるが、霊感を受けた計算家
フーリエ――ギトン註〕は、それらを、『調和社会の骨組みのボルトないし継ぎ目』、『運動の一般的絆』にする。〔…〕彼は希少な奇癖を、『あらゆる情念の根源にして目的である統一情念』に近づける。

 このように、『愛の新世界』は、差異の上に調和を基礎づけるというフーリエの主要な逆説を正確に表し、凝縮してもいる。けれども、逸脱・ボルト・継ぎ目の理論をもって極限まで突き進むならば、
〔…〕体系全体〔理性的秩序〕は揺るぎだし、普遍的統一は特異なものの空隙のなかで崩れだすように見える。

 
〔…〕感覚的なものは、ついにその十全な権利を認められて復権され、理由と事物の窒息させそうな不動性〔つまり、理性のみによる硬直した秩序――ギトン註〕は、永遠に否定されてしまう。〔…〕逸脱的事例は、それ固有の場所と時を選んで出来事と観念の流れを揺り動かすのだから、それらはまったく際限のない冒険を命ずることになる。

 けれどもフーリエは自分の
〔ギトン註――理性的〕計算を放棄するわけではない。〔…〕

 逆説的相互性とも言うべき奇妙な弁証法が、〔理性的〕規則と、それとは異質なものとのあいだに、理想的正義――フーリエなら『数学的』と言うだろうが――と、現実の不気味さとのあいだに、打ち立てられる。運動についての真実の思想が可能になるかに見える。

 
〔…〕無限に増加可能な〔…〕系列は、『何十億もの変数』を、きわめて大きい集合であれ微細なニュアンスであれ、統合できるが、例外奇癖、過渡的形態は統合できない。だから、これらの『混合型』は、言語(特に数学的言語)の生命とは違う・感覚的なものの生命を証言している。

 逸脱的事例を理性によって同一化することなどは
フーリエは〕認めない」

『フーリエのユートピア』,pp.10-13.

 

 

 どうやらフーリエの世界観は、体系的で整合的な理性的「数学的」コスモス調和世界と、そこからはみ出てしまう「例外」「逸脱」「過渡」「奇癖」とのあいだの弁証法にあるようだ。

 

 後者――例外奇癖、…――は、“コスモス”から絶え間なく生み出され、際限なく増殖してゆくが、コスモス的理性によって秩序に回収されることも、統合されることもなく、どこまでも秩序を揺るがしつづける。なぜなら、それら例外奇癖、…は、「言語の生命とは異なる感覚的なものの生命」を体現しているのだから。

 

 それでは、フーリエの世界観によると、秩序ある《コスモス》世界は、自ら生み出した例外奇癖、…によって絶え間なく攪乱され、あの「エントロピー増大の法則」が示すように、一方的に無秩序を増大させて宇宙の混沌のなかに崩壊してしまうのだろうか? そうではないようだ。というのは、例外奇癖、…とは、「情念の根源」であり、「解放された情念引力」は、異質なものどうしを結合させる「きずな」「ボルト」「かすがい」の役目をはたすからだ。こうして、例外奇癖、…といった、《コスモス》からはみ出て放逐されたものの作用によって、かえって《コスモス》は再建され、和合と「調和」を取り戻すことになる。このあとの段落で述べられる、《同性愛》者の「きずな」としての役割は、まさにその重要な一例だ。

 

 しかし、それでもなお、例外奇癖、…が秩序と同一化したり、秩序の一部となってしまう(支配し統制する側に寝返ってしまう)わけではなく、「逸脱」はどこまでも「逸脱」として、そこで新たに再建された秩序をも揺るがし続けるのだ。

 

 

 

 

 

 

 ここから、“未来社会にはどうしても無くてはならない《同性愛者》の役割”を述べた箇所に入っていこう。

 

 

「さて、フーリエのユートピア的「調和社会」においては――ギトン註〕淫奔な奇癖やその他の奇癖は、有益であり、完全に合法的なものである。調和社会人は、自分が事物や他人に接するしかたを、思うがままに奇抜なやり方で決める権利をもつだろう。つまり、彼らは『多形倒錯者』である権利をもつだろう。身体の具えるエロス的な可能性を制限するような、いかなる正常性も想定されることはないだろう。〔…〕すべての『奇行』が保護されるだろう。〔…〕調和社会は、『すべての奇癖のあいだに、わが哲学者たちが推奨するように、完全に平等な権利を打ち立てることを規則とする』。」

『フーリエのユートピア』,pp.54-55.

 

 

 こうして、異なるものの「過渡」的存在、「例外」→「奇癖」「奇行」→「性的倒錯」→… というように、論述の焦点はしぼられてきた。このすぐあとに、“核心”というべき《同性愛》および「中間存在者」(フーリエはトランスジェンダーをこう呼ぶ)が登場する。

 しかし、現代の私たちは、この論理の進め方に違和感をもたないではいられない。「同性愛は倒錯でも奇癖でもないぞ!」という声が、私たちのあいだから上がりそうだ。

 しかし、フーリエが、“同性愛を治療する”というような観点に立っていないことは明らかだ。彼が、“治療”を要すると考えているのは、「暴君ネロ」やサド的嗜虐癖のような、抑圧道徳によって捻じ曲げられた形態の「奇行」だけだ。しかもそれらに対しても、禁圧するのではなく、逆にいっさいの外的・内的抑圧から解放することによって“治療”しようとするのだ。(ドゥブーははっきりと述べていないが、性的な暴力的倒錯に対するフーリエのこの対処方針は、暴力一般、権力的支配一般に対する彼の社会的“治療”方針の一部だと言えるだろう。)

 フーリエ自身は《同性愛者》ではなかったが、彼の《同性愛》に対する考え方には、“ことばの綾”以上の難点はない。それというのも、「《同性愛》と性的倒錯とは別のことがらであり、性的倒錯は、《同性愛者》のなかにも、異性愛者のなかにもある。」フーリエへの反発において私たちが主張したいのは、ただこの一点だからである。しかも、フーリエの議論を全体として見れば、フーリエ自身、この一点を十分に理解していることがわかるのである。

 

 

「性的な完全性は、2つの性の対をより親密的なものとする。実際、もはや何も禁止されず何も抑圧されないとすれば、一つの性からもう一つの性への移動が起こることになるだろう。すなわち、女子同性愛男子同性愛中間存在者〔過渡的存在者――訳者註〕であり、フーリエの言うところでは、これらは調和社会には欠かせぬものである。

      
〔…〕

 『35歳のとき、たまたまフーリエ――ギトン註〕が一役演じたある出来事が、私自身に自分の嗜好あるいは奇癖を理解させてくれたのである。それは女子同性愛者嗜好(サフィエニスム)であった。すなわち女子同性愛者(サフィエンヌ)へのであり、彼女たちに味方するあらゆるものに対する熱意である』。ところで、これは非常に興味深い個性であり、卓越した性格の持ち主の特性を示すものである。『あらゆる男の全感覚愛者(オムニジヌ)は必然的に女子同性愛者嗜好者(サフィエニスト)であり、あらゆる女の全感覚愛者は必然的に男子同性愛者嗜好者(ペデラステイト)である。もしそうでなければ、これらの性格の持ち主は、その基軸的な長所としての人間愛を欠くことになってしまう。すなわち、異性に対する献身および異性を悦ばせる可能性のある――両義的存在としてであれ直接的にであれ――あらゆるものに対する献身である』。

 
〔ギトン註――ところが、こうした嗜好に無自覚な異性愛者の場合には、〕他人の承認に際してのあらゆる制限と同様、ここに〔すなわち、
同性愛の否定とともに――ギトン註〕凡庸化した女性蔑視が生じることになる。自分自身と同時に他者を肯定することには、フーリエを自覚させた性体験と同様の、外部からの――ギトン註〕ある力が必要である。」

『フーリエのユートピア』,pp.55-57.

 

 

 「女子同性愛者嗜好者」:saphiénist レズビアンの女を好む異性愛男子。 

 「男子同性愛者嗜好者」:pédérastéite? ホモの男を好む異性愛女子。もやい。 

 

 「全感覚愛者(オムニジヌ)」とは、「単感覚愛者 monogyne」が、フーリエの分類による「12のパッション」のうち1つのパッション、たとえば触感の快楽だけで満足するのに対し、omnigyne は、「全12パッションの(同時的)多形的プレイ polymorphous play on the whole twelve passions」を行なう者たち。挿入による射精の快感のみを求めて乱交する者は「単感覚愛者 monogyne」である。フーリエの「調和社会」では、そういう者も、同意ある限り誰とでも性交することができ、十全に満足を得ることができる。しかし、「全感覚愛者」は、群婚かつ乱交のみならず、それを全感覚的に嗜む者である。

 ともかく、ここでフーリエは、
《同性愛者》が「調和社会」で期待される「きずな」としての役割を説明している。《同性愛者》の存在が、男性側にも女性側にも、「同性愛者嗜好者」を生み出し、彼らは、“他者を尊重する”という思想を、言語的にではなく体験的に、理知的にではなく情念において学ぶのだ。なぜなら、同性愛者たちの行為を肯定し、それを嗜好する――愛する――ということは、異性愛者である彼らにとって、自分の主たる欲望の充足ではありえないからだ。

 「男子
同性愛者嗜好者(ペデラステイト)」とは、BLに近いものだろうか? BL嗜好こそ、「他者」理解の核心であり、未来人類の「調和社会」をもたらすに不可欠の「きずな」を創出する鍵になる、とフーリエは言うのだ。ただし、異性愛者の「同性愛者嗜好」――男のレズビアン嗜好と、女のゲイ嗜好――は、《同性愛者》の存在なしにはありえない。だから、《同性愛者》こそは、「調和社会」の基礎となる、ということになる。

 これに対しては、「おれたちの役割は、存在するだけか? おれたちの主体的活動は期待されないのか?」という不満の声が、血気盛んなゲイ諸君のあいだから上がるかもしれない。しかし、フーリエ自身はゲイではないのだから、そこまでの“配慮”を要求するのは、甘ったれの無いものねだりというものだろう。
《同性愛者》が、未来社会のために「何をなすべきか?」は、《同性愛者》自身が考えるべきことだ。

 社会に対して、
《同性愛者》に対する「理解」を求めるとか、「平等」を求めるとかいうよりもはるかに高い地点に、フーリエは私たちを連れて行こうとする。社会は、むしろ積極的に《同性愛者》の役割を認識すべきなのだ。これまで私たちは、自分のため、自分たち《同性愛者》のためだけを考えてきた。しかし、これからはそこにとどまっていてはならない、とフーリエは励ましているのだ。

 

 

 

「ダブリン・ゲイプライド 2013」の参加グループ:

「クイア解放 レインボー資本主義ではなく」

という横断幕を掲げている。

 

 

 

 《同性愛者》の存在、あるいは「逸脱」したの活動は、“文明”が人々のあいだに造ってしまった垣根を取り払い、「調和」と和合を取り戻す力となるのだ。

 

 

「『もし女たちが自由であったなら、たちまち彼女たちは自由を宣言したことだろう』。自由、すなわち、あらゆる豊かな社会で、男たちが自分だけの手に収めておこうとしている自由である。だが、男たちは、自分が仕掛けた罠に落ち、女を束縛するために決められた規則の背後に閉じ込められてしまった。だから、ある意味で、男たちは女が規則を破ることを喜んでいるのだ。〔…〕

 フーリエは、〔ギトン註――現実の〕社会的世界において、女はけっして真のパートナーではなく、交換の対象であったことに気づく。そして、彼は過去の諸制度に対して立ち上がり、女の自由自由を結びつけることによって社会の同質化を追求するのだ。つまり女を男の世界に到達させようとするのである。〔…〕女たちは調和社会において、解放者としてのプロレタリアートの役割を果たす。各人が、自分の差異を肯定し、匿名的な規則に強制されず、自分で自分の交換システムを決定できるような同質社会を導くことができるプロレタリアートである。

 実際、こうした自由は、あらゆる個人的原動力を現実のものとするために不可欠である。『文明においては、偏見や嘲弄されることへの恐怖や機会の欠如が、性格の多様な分枝の発展の足枷となっている』。
〔…〕頭で女子同性愛者嗜好(サフィエニスム)を知っているだけでは十分ではない。発見は言葉の上でなされるのではなく、実行によってなされる。われわれに自分の欲望の対象を啓示する、他人からの具体的な呼びかけが必要である。もちろん、出来事があっても、われわれのなかに反響が生まれなければ、そこに何かを見出すことはできないだろう。この意味で、あらゆる世界からの応答に先立って、主体の側の運動があるのだが、この運動は主体自身にとって未知のものであり、その開放性によって主体が存在や他者に向かい合っていることによってのみ明るみに出ることができるのである。

     
〔…〕

 調和社会においては、出会いの多様性が万人にとっての可能性を増殖させるのだが、ここでは偏見や固定した規則がもはや力を失っているから、可能性はなお大きなものとなる。個人は、それぞれが結ぶことのできるすべての絆に向けて投じられており、個人の生成と変化は万人の生成と変化に支えられる。

     
〔…〕

 調和社会にあっては、理想は自分をコントロールすることではなく、なにごとも断念しないことであり、また自分を単純化したり、拙速に狭隘な道を選ぶことではなく、幼年期のすべての『芽』を育てることにある。〔…〕こうした個人が生きるのは、独りきりでなされる断定ではなく、対話が第一にあるような世界である。さらに言うなら、それは対話と言うより、むしろ認識や言葉に先立つ感覚的交換なのであって、この交換からこそさまざまな個人的形態が誕生するのである。」

『フーリエのユートピア』,pp.57-59,62.

 

 

 

 

 

 

 フーリエの「調和社会」では、子供たちも、“文明社会”とは異なった環境で成長する。子供の成長は、家庭の外で、多かれ少なかれ公共性のあるさまざまな場所で行われるのだ。

 

 

「文明社会の子供が自分で選ばなければならないのは、大人の世界をどのように耐え忍ぶかということだけであるが、調和社会の子供はこうした〔…〕扱いを受けない。子供たちは、いわばほんとうの生の外で欲求を満足させられたり欲求不満に置かれたりはしない。子供たちはいきなり社会的世界のなかに投げ込まれるのである。彼らは、皆の労働に参加するよう徴募され、両親の有難い計らいによって自分の欲望を満足させてもらうのを待つのではなく、自分自身で自分の欲望を実現するよう仕向けられる。もちろん子供たちは弱いから、容易な仕事を与えられるし、子供たちが成功を繰り返し、積極的に仕事をやり遂げるようにするために、ありとあらゆる工夫が凝らされる。しかし、ともあれ子供たちは自分の力で世界を発見するわけである。そしてある程度の年齢になれば、子供たちは少年団と少女団に入り、そこでは子供たちの不潔さや残酷さ、そして彼らの『気取り』までがその向上を図られることになる。

 
〔…〕人間は『固定した本能』をもっていないのだから、本能の発達は子供の人間的次元への到達を保証しない。子供のもっているすべての芽を守るためには、子供をその性向に従って育ててやらなければならない。〔…〕子供は自分の敬愛するものになりたがる。彼らは自分を魅惑するものの振舞いをまねることによってその真の能力を先取りするのだ。強制によらずに教育するためには、こうした他者との融合への欲望を促進することになろう。〔…〕子供たちは、『ミニ工房』のなかで、そして厨房で、オペラで、学校で、自分の師を選ぶことになろう。これらの指導者のなかで最も強く敬愛される者、最も強い絆で結ばれた者は、子供の養父母となる。ところで、〔…〕子供たちにとって模倣は〔…〕さまざまな役割に同一化することを意味する。子供は、十分広く多彩な環境のなかに置かれるのでなければ、自分が心の中に捕え、宿しているすべてのものを見出すことはできないだろう。〔…〕子供は心魅かれるものなら何でも試してみるだろう。〔…〕多数の同一化が可能であることによって、子供は間違いや自己疎外から守られるだろうとフーリエは考える。同一化の可能性が多数あるおかげで、子供は徐々に、自分自身――多様で鋭敏な――へと導かれていく。

 以上のような教育は、広い世間のなかで行われる必要がある。家族というのは、子供が
〔ギトン註――親と〕似た者になることを求め、絶えずその独自性を打ち消そうとするものだが、子供はこうした家族のなかに閉じ込められてはならないだろう。」

『フーリエのユートピア』,pp.63-65.

 

 

 フーリエが子供を家族から引き離して育てようとするのは、「家族」という狭い環境では、子供がもっている天分の「芽」を伸ばすことができず、成長を阻害することになるからだ。子供は、両親とは別個の素質をもった個人なのだ。

 マルクス/エンゲルスも、同じことを考えていたようだ。「分業」の発達に伴なって、職業の固定と世襲は、人間の「自己疎外」をもたらす。「自己疎外」をもたらす「分業」の発端は「家族」にあり、「家族」がある限り「分業」はなくならない。だから、「分業」も「家族」も廃止されなければならないと、『ドイツ・イデオロギー』草稿に彼らは書いている。

 しかし、「分業」を続けるか廃止するかという二者択一を迫るマルクス/エンゲルスよりも、子供たちに自由な選択の機会を与えようとするフーリエのほうが、ずっとスマートだろう。「家族」についても同様で、フーリエが目指すのは「家族」の廃止ではなく、「家族」という狭い環境への拘束が子供の成長にもたらす阻害から、子供を守ることなのだ。

 

 

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 以上は、『フーリエのユートピア』から、ごく一部を紹介しただけ。ドゥブーのこの研究書も、フーリエのユートピア構想の全体も、こんなものではなく、ずっと大規模で内容豊かなものです。たとえば、「乱交」――という言い方がおかしいのですが――についても、フーリエは、「調和社会」において、32人、または 64人で行われる「愛のカドリーユ」という・社交ダンスのように優雅で秩序立った形式を案出しています。

 

 フーリエについて、なお関心がある方は、↓こちらに、より詳細なレヴューをアップしていますから、ぜひ読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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