「関八州見晴台」から尾根通しの山みちを下る。尾根は岩がちで、ヒノキの林床にアセビが多い。コナラ、ミズナラ、クリ、リョウブ、ホオノキも混じる。岩場が苦手な向きには、巻き路もできている。
まもなく、「七曲峠」↓で「花立松ノ峠」「顔振峠」方面の縦走路と岐れる。標高670メートル圏。「四寸(しすん)みち」のはじまりだ。
「七曲峠」と書いた標識は無い。
「四寸みち」の方向に、↓この手製の道標があるきりだが、まもなく字が消えてしまうだろう。同じ形の道標が「四寸みち」の各処に立っているが、字が読めるのはここだけだ。
しかし、路の分岐自体は明確なので、地図を見ていれば、ここで迷うことはないだろう。
ヒノキ植林の急斜面を、つづら折れで下ってゆく↓。
「四寸みち」については、こちらの踏査記が詳しい⇒:『日本山岳会埼玉支部報』松本敏夫「四寸道を行く」。「4寸」といえば約12センチだが、道の名のおこりは、よくわからない。4寸幅の細々とした路だから…とも、途中で岩と岩の狭い隙間を通りぬけるから…とも言われている。幕府・昌平坂学問所編纂の『新編武蔵風土記稿』には、「その幅狭くして馬の通はざるほどなる故、此名あるべし。」と記されているそうだ。しかし、実際は大部分が幅2メートル以上の広い道で、岩の間を抜けるような場所も無い。
吉野の「大峯奥駆道」には、岩の間の4寸の隙間を通る「四寸岩山」という難所があり、山形県の山寺(立石寺)にも、同様の修業場所があるという。高山の「四寸みち」も、修験道の修行場として、この名が付けられたのは、まちがえないだろう。
枯れ沢の底に降り、大岩のあいだを縫うように急坂を下る。途中、路傍の岩の上に石仏がある。
「寛政十戊午十月吉日」「施主 岩田権之進」とある。松本氏によると、馬頭観音らしい。寛政10年戊午は 1798年。寛政6年に浮世絵師・東洲斎写楽が出現し、12年には伊能忠敬が蝦夷地測量を開始している。化政文化(1804-1830年)に至る江戸町人文化の隆盛期。“高山詣で”の修験者も数多く往き来したことだろう。
この観音は、シバハラ坂の「石地蔵」より古いが、保存はずっと良い。もとは、屋根のある祠に安置されていたのではないか?
この路を下から昇った松本氏は、猿岩林道からの「入口近くは薄暗く左側に巨大な岩が何列にも重なって壁となっていた。かつての修験者達はこれらの岩壁に『隠れ不動』を感得したようである。岩の裾を回るように道が付けられてい」ると記している。たしかに、荒々しい巨岩の集積だ。
秩父中古生層ということだが、岩質は結晶片岩のようだ。
まもなく、下に「猿岩林道」が見えてきた↓
このあと、しばらくは車道歩きになる。
登山地図には、左側に「岳岩」「武巌琴宮(碑)」と記されている。崖を見上げると、たしかに上部が岩壁になっているようだったが、「琴宮」の碑は見あたらなかった。
↓ここで「猿岩林道」と岐れて、山みちになる。といっても、とても広くて歩きやすい路だ。「四寸」どころではない。道標は字が消えている。
Y字路になるが、左へ行く。並行して走っている「猿岩林道」から離れないように歩いて行けば、迷うことはない。
路は湾曲して北東に向かい、東西に延びる尾根と出合う。片側が杉、片側が落葉樹の尾根の上を、ゆるやかに東へ下る。
伐り跡に出る。急に展望が開ける。520メートル圏。左に「猿岩林道」の車道が見える。
南方に、おもしろい形の双耳峰が見える。「越上(おがみ)山」のようだ。
やがて急坂になると、いきなり「猿岩林道」の車道に降り立つ。右へ折れ、車道を 300メートルほど、ぶらぶらと歩く。
車道のカーブの途中で、左の山みちに入る(矢印)。
このまま車道を右へ下って行くと、ほどなくして、けさ通過した「花立松ノ峠」への分岐点・水場に出合う。
↓Y字路に出合う。右の道のほうが広くて歩きやすいが、ここは左へ行く。右は、「峰山」山頂へ向かうようだ。
ここまでの「四寸みち」は、名前とは違って、るんるんの散歩道だったが、ここから一転して、荒廃した急坂になる。路というより、雨水の流れる溝になってしまっている。晴れた日でも滑りやすい赤土で、岩塊もごろごろしている。
「御嶽山・御嶽神社」という木の標識があり、枝道があるので立ち寄ってみる。最初は昇りだが、すぐに尾根を越えて下りになる。
ヒノキ林の中に小高い場所があり、小さな社殿が立っている。明治時代に地元の信仰で建てられた神社のようだ。
戻りは、尾根を越えたところで径が二又になっているので、往きとちがうほうへ、「四寸みち」の進行方向へ下りてみる。しかし、滑りやすい急坂で、かえって時間を食ってしまった。もとの路を戻ったほうがよかった。
「四寸みち」をさらに進むと、「蒔山」の手前で、区間20メートルほどの崩落箇所に足止めされる↓。トラロープが高い位置に設置してあるが、足もとにも十分注意しないと危険だ。
「蒔山」は「槇山」とも書くらしく、YAMAPの地図では「越生駒ヶ岳」と記されている。「駒ヶ岳」は、どこにでもありそうな山名でおもしろくない。「まき山」のほうが、個性があって良い名前ではないだろうか。
また、Y字路になる。こんどは、右の歩きやすい路へ行くとしよう。地形図の「横吹峠」への点線は右の路になっている。左も「横吹峠」に通じているのだろうが、荒れているので敬遠したい。
「越生町上水道 黒山第二配水場」を右に過ごし、下り坂の途中で左に折れる↓。左折せずにこのまま直進しても、黒山のバス通り(県道61号・越生長沢線)に下りられるが、「横吹峠」までは「四寸みち」をたどっておきたい。
まもなく、左から来た荒れた下り路と合流する。たぶん、さきほど別れた路だろう。急坂を降りると「横吹峠」だ。↓右のダートの坂から降りて来る。ここから車道を直進すれば、「火の見下」バス停。
「横吹峠」には石仏があるはずなので、探すと、東側の法面(のりめん)の上の杉林の中に、2体の石仏が置かれていた。
右の石仏の台座は道標になっていて、正面には、「此方さげど」、右側面(向って左側)には、「此方□□念仏寺」と刻まれている。
「下ヶ戸(さげど)」は、黒山のバス通り沿いの地名で、そこにある「下ヶ戸薬師堂」は、「四寸みち」の起点とされている。
「四寸みち」は、「下ヶ戸」へ向って、まだ東へ延びているが↓、地形図によると、まもなく採石場の崖にぶつかって、路は消えてしまう。古道歩きはここで止めて、バス通りへ下りてゆくことにする。
黒山の谷間への路をだらだらと歩きながら、ある疑問にとらえられた。古い参道だというのに、「七曲峠」下の「馬頭観音」から「横吹峠」まで、石仏も石碑もまったく見かけなかったのは、なぜだろう? 人が信仰して護っていなければ、そういうものはどこかへ消えてしまうのだろうか?
明治時代に「廃仏毀釈」の影響で、路傍の石仏がことごとく破壊されたり、撤去された地方は、たしかにあった(単なる仏教の排斥ではなく、民衆信仰全般を弾圧する“宗教クーデター”だった。その事情は、安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書 に詳しい)。この地方は、どうだったろう? 「黒山三滝」の賑わいと“文明開化”の波に洗われて、古い石仏や祠を迷信の象徴として否定する風潮が、地元住民にまで浸透してしまったのだろうか?
こうして、ごく最近になって、21世紀の登山家によって“再発掘”されるまで、「四寸みち」も、その面影を伝える石造物も、永らく忘却の彼方に押しやられていたのかもしれない。
“ゆずの里”↓。しかし、収穫されないようだ。落ちた果実が道路にまで転がり出ている。
タイムレコード 20210216
(2)から - 1316関八州見晴台1345 - 1358七曲峠1410 - 1425「猿岩林道」出合い - 1433「猿岩林道」岐れ - 1448伐り跡 - 1503「猿岩林道」出合い - 1510「猿岩林道」岐れ - 1517Y字路(「峰山」手前) - 1530「御嶽神社」入口 - 1535「御嶽神社」1537 - 1541「御嶽神社」出口 - 1546崩落1550 - 1550Y字路 - 1607横吹峠 - 1626「火の見下」バス停。
「四寸みち」の起点とされる「下ヶ戸・薬師堂」は、見ておくべきだろう。再訪した「黒山」のバス通りを、「越生駅」方向に歩いて行った。
途中、道路際に採石場が見える。削岩機がバリバリと、けたたましい音をたてている。見れば、ここだけは山全体が深く掘り込まれて無くなっている。山が無いのでは、その上に刻まれていた路など、あとかたもない。
「薬師堂」は、道路から石段を昇った奥に控えていた。「下ヶ戸薬師」という標柱のほかには、案内も説明もない。薬師如来立像と十二神将像で知られる「薬師堂」だが、いまも安置されているのだろうか? 中は見えない。石灯籠は江戸時代のものだそうだ。
まだ寒い山里で、桃が精いっぱい咲いていた。
タイムレコード 20210218
「石戸橋」バス停1529 - 1547横吹峠1604 - 1616県道越生長沢線出合い - 1632「下ヶ戸薬師堂」 - 1639「上大満」バス停。