盛岡の「北山」というと、観光名所としては、市中心部の北にある・寺院の集っている街区を指す。ここにお寺が多いのは、藩政時代の宗教政策で、付近の寺院が集められていた(封じ込められていた)せいらしい。市の「歴史文化館」の展示を見ると、南部藩の盛岡は、厳しく統制された辺境都市だったようだ。明治維新後に藩の城郭も武家屋敷も早々と解体されて、ほとんど残っていないのはそのためか。旧藩の遺構を今も敬愛深く保存している弘前などとは対照的だ。
しかし、住居表示を見ると、山田線の線路を越えた北側に「北山一丁目」「二丁目」があり、その奥にも「北山」がある。国道4号線「北山跨線橋」、455号線「北山トンネル」もある。線路の南の寺院町をふくめた、この広い一帯を昔から「北山」と呼んでいるようだ。
盛岡中学に在学した石川啄木、宮沢賢治の“二大詩人”にまつわる寺も、ここには多い。「北山交番」そばの「龍谷寺」は、啄木の伯父で歌人の住職がいたところ。賢治に関係するのは、「教浄寺」「願教寺」「報恩寺」「清養院」などあるが、それらの大刹の陰であまり知られていない「徳玄寺」↓は、中学5年生時に下宿していたところ。
1913年1月、盛岡中学校「自彊寮(じきょうりょう)」で「舎監排斥騒動」があり、4年生全員が退寮を命じられ、北山「清養院」に移された。その騒ぎで寮生を煽動した中心人物が、4年生の宮沢賢治だったという。寮の監督の先生を追い出そうとした――学生の解放区にする?――らしいのだが、同寮生の証言を読んでも、納得できるような排斥理由は見あたらない。漱石の『坊ちゃん』が松山中学で受けた“バッタ事件”を大きくしたような・悪ガキのいやがらせレベルなのだ。ともかく、“郷土の2大偉人”啄木と賢治は、二人とも中学時代は悪ガキだったということらしい。
謹慎のために「清養院」に移された賢治は、まもなく、ひとりだけ「徳玄寺」に移っている。「徳玄寺」は宮沢家の宗派「真宗大谷派」の寺で、曹洞宗「清養院」のような厳しい規制はなかったようだ。悪ガキは悪ガキのまま生き抜こうとしているのだろう。
清養院・山門 矢印の摩尼車は、童話『銀河鉄道の
夜』の「天気輪」のモデルになったといわれる。
学校の寮から追い出され、悪仲間とも離れた賢治は、どんな生活をしたのだろう。当時の成績は底辺レベル。まともに授業にも出席していなかったのではないか。
このころ詠んだ短歌に、次のようなものがある:
霜ばしら 丘にふみあれば 学校のラツパが はるかに聞えきたるなり
(『歌稿A』#57,推定1913年晩秋)
晩年に、生涯をふりかえってモチーフを整理するために記したノートには、この時期について、次のようなメモがある:
|丘、ツルゲネフ |丘 |丘 |
(『東京ノート』69頁,盛岡中学5年2学期欄[1913年])
十月 北山 丘、 米内
松森ノ丘、
(『文語詩篇ノート』11頁,1914年10月欄)
↑あとのほうのメモは、時期の記憶が1年ずれているかもしれない。1914年には卒業して、花巻の実家に戻っているはずだから。
とすると、「徳玄寺」に下宿した 1913年には、盛岡「北山」「米内(よない)」の「丘、丘、丘」をさまよい歩いていたことになる。
岩手山登山後 盛岡中学3-5年生と。
前列左が、2年生の賢治 1910年
弟・清六氏の『兄賢治の生涯』には、つぎのように書かれている。
「寄宿舎を追放された賢治は盛岡の北山の清養院や徳玄寺に下宿し、報恩寺で尾崎文英について参禅した。また夏には浄土真宗の願教寺で島地大等の仏教講話を聞き、傍らツルゲーネフやトルストイなどのロシヤ文学を耽読して、〔…〕そして進学の望みもなく、中以下の成績で中学を卒業した。」
(宮沢清六『兄のトランク』,1991,ちくま文庫,p.246.)
中学生時代、はみ出した賢治が、ツルゲーネフを耽読しながら逍遥した「北山」「米内」の「丘、丘」を探してみたい。出発点は、「北山」北西端にある「高松の池」だ。
「高松1丁目」バス停から東へ向かうと、「毛無森」という丘を越えて、「高松の池」畔に下る。
↓毛無森から。遠景は紫波山塊(左から、東根山、南昌山、毒ヶ森、赤林山、箱ヶ森)。手前の低い山は飯岡山。盛岡市街と高松の池。
「高松の池」は、南部藩政時代に農業用水の溜池として造られた人工湖。↓中央堰堤から“下の池”を望む。左は、毛無森。
↓上の池。
中央堰堤を渡りきって、対岸の「毛無森」を振り返る。頂上は、市の上水道の配水場になっている。
【つづく】
タイムレコード 20201130
「高松1丁目」バス停930 - 937毛無森 - 955高松ノ池1012 - (2)に続く。