日本の風景 ⇒:『密接な関係にある他国から』
「冷戦」とは、誰との戦いか?
「冷戦」は、東側、西側それぞれの国家が、自国民(東側なら「人民」)に対して仕掛けた戦争だった。
2012年に亡くなった歴史学者、“最後の”英国共産党員エリック・ホブズボームは言う: アメリカの指導者が自国民に語る「共産主義の脅威」は、「ラジオの芝居がかった演技にすぎない」ことを、ソ連の指導者たちは、よく知っていた。彼らには、そんな力も意欲もなかったのだから。米ソどちらの指導者も、「イデオロギーと冷戦のレトリックとは反対に、両国間の長期的な共存は可能であるという前提に立ってことを進めていた。」「自由と暴政の戦い」(ジョン・ケネディ)というレトリックが、国民に犠牲を強い、ヴェトナムの戦場に向かわせていた。⇒:『両極端の時代』
しかし、1970年代朝鮮半島の「冷戦」独裁は、隠された「冷戦」のからくりを、今度は臆面もなく明からさまに示すこととなった。南北の両国家が、意志を通じ合って同時に支配機構を独裁化し、戦車で威嚇しながら「国民」の自由を奪ったのだ。
日刊紙『ハンギョレ』に掲載された回想記事から。
『 [寄稿]光化門の戦車と景福宮のBTS
チョン・ビョンホの記憶と未来
光化門(クァンファムン)〔青瓦台(韓国大統領府)の前にある旧・李朝の王宮門〕の前に戦車が停まっていた。長い砲身と機関銃は広場を向いていた。景福宮の塀に沿って兵士たちが着剣した銃を持って立っていた。1972年10月17日、高校2年生だったのどかな秋の朝、登校中に遭遇した「10月維新」の初日の風景だった。最初の休み時間に友達に話しかけた。「光化門の前の戦車を見たかい?かっこいいよな!」。そのうちの一人が情けないというふうに言った。「民主主義が死んだのに、何がかっこいいんだ?」急に恥ずかしくなった。
その後は授業の内容が耳に入ってこなかった。頭の中で「民主主義が死んだのに…」という言葉がぐるぐる回った。何が起こったのだろう?「統一」のために「維新」をすると聞いた。数日前から南北会談が繰り返され、統一への期待が高まっていた。それでも「統一」のための「独裁」というのは、こじつけのように思えた。
昼休みに友達と話し合った。大学がすべて休校になったので、せめて高校生の私たちだけでも考えを伝えたほうがいいという話になった。休み時間ごとに集まってきた友達は全部で7人になった。私たちは維新憲法〔朴正熙政権が自らクーデターを起こして発布した新憲法。大統領の権限を強大化し、国民の選挙権・人権を制限〕に反対する印刷物を作り、校内に配った。数日後に逮捕され、鐘路警察署の留置場、首都警備司令部の憲兵隊を経て、西大門拘置所にも入ることになった。維新の冷たい風が吹いていた西大門は寒く、暗く、怖かった。天真爛漫な私の少年時代は、このようにしてあっという間に終わった。
1972年12月27日、韓国の「維新憲法」と北朝鮮の「社会主義憲法」がこの日公布された。韓国の維新体制の大統領と北朝鮮の唯一体制の主席は、こうして並んで一対となった。互いに相手のせいで独裁体制が必要だと主張した。終身権力である指導者の周辺で特権を享受し続けようとする人々は、権力者の息子と娘を未来権力としてあおいだ。
北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)と金正恩(キム・ジョンウン)は、まさにそのようにして現れた世襲権力だ。金正日後継構図が本格化した1970年代初めから、北朝鮮では多くの本が禁書となって消え、広く歌われていた歌が禁止曲になり、服装や頭髪に至るまで生活検閲も強化された。どこか見慣れたものではないか?自由民主主義の韓国でも、維新時代に私たちが経験した独裁権力の統制方式だ。
イメージを操作する「象徴政治」も推進された。「朝鮮式社会主義」北朝鮮と「韓国的民主主義」韓国の両方が、忠孝思想を強調した。北朝鮮では金日成(キム・イルソン)の妻キム・ジョンスクが「朝鮮の母」として、韓国では朴正煕の妻ユク・ヨンスが「慈愛の国母」として崇められた。韓国の朴槿恵(パク・クネ)はユク・ヨンスの死去以後、22歳の時にファーストレディの役割を代行し、儀典序列2位の中核の象徴となった。忠孝を強調する「セマウム(新しい心)運動」全国大会を行うとき、年若い「令嬢」に校長先生は90度の敬礼をし、おばあさんたちは突っ伏してお辞儀をした。南北の権力集団は敵対的に共存し、特権を世襲した。
決定的な分岐点は韓国の民主化だ。韓国の市民社会は独裁体制に絶えず抵抗し、1980年代末から権力交代が制度化された。2012年の選挙に権力機関が介入して朴槿恵が大統領に当選しもしたが、特権配分と権力乱用の末に結局、ろうそく革命で弾劾された。韓国はそのようにして政治的権力世襲の輪を断ち切った。
2020年10月の晴れた秋の午後、光化門前で守門将の交代式を見守っていた。色とりどりの旗を持って伝統軍服を着た軍人たちが動作をする度に、取り囲んだ外国人の若者たちが拍手を送った。BTS(防弾少年団)の景福宮のミュージックビデオを見てきたと言い、「かっこいい」と言った。半世紀前、その場で戦車を見て「かっこいい」と言った子どもの頃を思い出した。
これだけ変わった歳月を振り返ってみると、その一つひとつの変化は自然になされたことではなかった。レコード事前審議制が今もあったなら、BTSの歌とダンスをどのように見ただろうか。ブラックリストに名前が載っていた人々は『パラサイト』のような映画を作ることができず、ドラマ『愛の不時着』は“敵を利する表現物”として処罰されただろう。民主化は事件ではなく過程だ。政治体制の変化だけを意味するのではない。権力によって飼いならされた心と体を目覚めさせる激しい変化の過程だ。それらすべての変化を、私たちが一緒につくり上げてきた。
しかし、まだ終わっていない。厳然として生きている国家保安法をそのまま適用しようとする権力が蘇れば、私たちは再び検察庁と拘置所を行き来することになるかも知れない。冷たい風が吹き始めた光化門の前に立ち、裸の王様に純真な質問を投げかける人たちが果てしなく続くことを願う。ろうそくを手に、光化門広場を練り歩いていた若い学生たちのプラカードの波を覚えている。韓国の民主主義は、そのように世代を超えて蘇る純真な心が共に作っていかなければならない。』
寄稿者チョン・ビョンホ(정병호,鄭炳浩)氏は、漢陽大学・国際文化学部文化人類学科教授(2020.1,現在。同年11月の『ハンギョレ』記事には「名誉教授」とある)、同大学・グローバル多文化研究院長(元?)。
1979年、韓国外国語大学政治外交学科卒業。1992年、イリノイ大学大学院人類学科・博士取得.。この間、海松保育学校教師(1978-79 夜間)*、共同育児協同組合「我が子の家」院長(1994-95)*、清州大学・漢陽大学講師(1984-85)など多数教職を歴任。なお、氏は共同育児組合運動の草分け的理論家・実践者であり、*は、地域共同育児の実験的施設であった(「地域住民が主体となるコミュニティ・ケア(PDF)」,p.39)。
関心分野:文化変動、教育人類学、日本文化、北朝鮮文化。
著書に、《劇場国家 北朝鮮》(創作と批評社, 2013) 《苦難と笑いの国》(創作と批評社, 2020)がある。 ⇒:漢陽大学校・漢陽ウィキ「정병호」
BTS
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「10月維新」直後の1973年、当時高校生だった私たちは、韓国のペンパルの招きを受けて、この国を訪問した。「10月維新って何ですか?」という私たちの質問に、全羅南道庁の役人は、「明治維新と同じだ。」と言って胸を張った。
その後、この同じ地で、さらなる軍事独裁に反対するおおぜいの市民が銃弾に倒れた時は、複雑な思いだった。ペンパルに、何と言ってよいかわからなかった。
しかし、結局彼らは独裁を跳ね返した。いまもまお「維新」を標榜する日本の勢力は、戦車と「イメージ操作」で国民を蹂躙した「10月維新」の自国での再現を夢見ているのだろう。日韓「冷戦」も北南「冷戦」も、他国との戦いではない。国家の自国民に対する戦いなのだ。
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