「日本の古代貴族社会、韓国系が26% =韓国東北アジア歴史財団『新撰姓氏録』
東北アジア歴史財団が日本古代氏族の本貫、史跡、先祖の由来などが分かる系譜書『新撰姓氏録』訳注本を上・中・下の3巻で出版した。
『新撰姓氏録』は8世紀末に平安時代を開いた桓武天皇の命で815年に完成した文献で、古代日本の京と畿内に住む1182氏を集成している。
財団は今回の訳注作業を通じて韓国系氏族150氏を新たに明らかにした。その相当数は出自改変を通じて日本系または中国系に編入された氏族で、当時の出自改変の実態と性格を表している。
『新撰姓氏録』に登載された氏族のうち、韓国系はすでに遍在した163氏と新たに発掘された150氏を合わせて313氏と、全体の26%にのぼる。百済系が202氏、高句麗系が52氏、新羅系が48氏、伽耶系が10氏、古朝鮮系が1氏。
『新撰姓氏録』は韓半島(朝鮮半島)系の移住民が日本古代社会に定着する過程を知ることができる史料で、歪曲された帰化人史観を克服するのにも活用できる。」
ウィキによると、『新撰姓氏録』は 815年、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。↑記事の「桓武天皇」(在位 781-806)は誤り。
『京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。
現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。』
こちらで、「諸蕃」部の内容を見ることができますが、現存する「目録」には、「本貫」「種別」「細分」「氏族名」「姓」「同祖関係」「始祖」が記されており、一部の氏については、「本文」(詳しい説明記事)も残っています。全姓氏を網羅するものではありませんが、第1級の史料であることは、まちがえないでしょう。
今回韓国で発行された訳注本が、搭載姓氏の26%を朝鮮半島系だとしているのは、あくまでも、ひとつの学説的見解です。今後日本の学界からも、さまざまの説が唱えられることでしょう。
しかし、かりに26%でなく、例えば10%だとしても、これはたいへん大きな割合だと思います。というのは、「姓氏」が朝鮮半島系だ、という意味は、男系の祖先が朝鮮半島系だ、ということです。女系で朝鮮半島系につながっている貴族まで含めれば、優に、当時の貴族の半分以上は、何らかの意味で朝鮮半島の血を受けていることになるでしょう。
朝鮮半島の中でも、とくに多いのは、やはり百済系ですね。「白村江」戦闘で唐・新羅に敗北したあと、多くの人が日本に逃れてきて、日本の支配層の中枢を形づくったことがわかります。ちなみに、日本では「百済」を「くだら」と読みますが、これは朝鮮語の「クン・ナラ(大きな国)」の意味だという説があります。
「伽耶」(任那)系が意外に少ないのも眼を惹きます。もし『日本書紀』に書かれているように、日本が朝鮮南部の「任那」を支配していたとしたら、こんなに少ないことはありえないでしょう。やはり、「三韓征伐」は嘘だったようです。
『平和主義者の天皇は韓国に対しても非常に友好的だ。
明仁(あきひと)天皇は90年に「我が国によってもたらされた不幸な時期に貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえない」という言葉を残した。加害の主体が明示された。痛惜は遺憾よりも進展した表現だ。2001年韓日ワールドカップを前にしては「1300年前の天皇の生母が百済武寧(ムリョン)王の子孫だった」として「韓国との縁を感じている」と話して右翼の怒りを買った。2005年のサイパン訪問時には電撃的に韓国人の慰霊塔を訪れた。安倍首相の右傾化を牽制する「百済系の天皇」、これが韓国で共有されている評価だ。
明仁天皇は訪韓の意思も直接・間接的に何度も表明した。2012年9月には「いつか私たちが(天皇夫婦が)韓国を訪問できればいい」と話したという女性週刊誌の報道もあった。しかし天皇の訪韓の有無は日本政府の決定事項なので、韓日関係がどうなるかにかかっていていると思われる。
明仁天皇個人は明らかに平和主義者であり「親韓派」と言ってもいい。しかし、それは政治的影響力とはほど遠い「イメージ」であり「幻想」にすぎない。現天皇はもちろん、その後継者は憲法が改正されて自衛隊が国防軍になっても(自民党の改憲案)、公開的に反対の意思を表明しないだろう。いや、できないように明文化したのが平和憲法だ。
軍国主義の頃さえ同じだった。唯一の主権者である裕仁(ひろひと)天皇は真珠湾急襲を企画した東条英機首相を制止しなかった。象徴天皇制の君主は政治に介入してはいけない。それが厳然な「現実」だ。このようにみれば「御意」に寄り添おうとする政治は、昔も今も民主主義の貧困と相対している。その点で今後、象徴天皇制と民主主義の関連性をめぐる深い議論が進められることを期待する。
いくらも経たないうちに初めての象徴天皇は生きながらにして玉座を降り、徳仁(なるひと)皇太子が後に続くだろう。新しい天皇がどんな君主像を見せるのか気になるが、象徴天皇の「政治性」を画定する日本国内の動きは私たちが必ず注視しなければならない部分だ。 』
「1300年前の天皇の生母が百済武寧王の子孫だった」と平成上皇が述べられたのは、桓武天皇の生母である「高野新笠」の出身が、百済系渡来人氏族で史(ふひと)姓の和氏(やまとうじ)であったことを指しています。
『続日本紀』にも、「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫である」と記されており、上皇の談話は、これを引用しておられます。
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