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Arthur Wardle: An Idyll of Summer.

 



       詩 人

 孤独なこのわたしにだけ
 限りない星々は夜光る、
 石造りの泉はその魔法の歌をささやく、
 孤独なわたしに、わたしひとりに、
 色とりどりの影が
 さまよう雲の夢のように野をわたる。
 家も畑もわたしには無い、
 森も狩猟も業
(なりわ)いも与えられることはなく、
 誰のものでもないものだけがわたしのもの、
 森奥
(もりおく)にひそむ激流の沢こそわたしのもの、
 恐怖の海、
 戯れる子供らの小鳥の囀
(さえず)り、
 孤独な恋人たちの夕べの涙と哀しみ、
 神々の神殿もまたわたしのもの、
 古
(いにし)えの聖なる叢林、
 それにも劣らず未来の輝かしい天の
 穹窿こそわたしの故郷
(ふるさと)
 しばしば憧れの飛翔に舞い上がるわたしの心は、
 幸せな人類の未来を見とどける、
 愛と法に打ち克ちつつある、民の民に対する愛を、
 皆がみな気高く生まれ変った姿をわたしはそこに見る:
 農夫も王も商人も、いそいそしい舟人
(ふなびと)たちも、
 羊飼いも庭造りも、みながみな、
 感謝にみちて未来の世界祭りを祝っている姿。
 詩人だけはそこにいない、
 孤独によって見る者、彼は
 人の憧れを担う者、未来の世界、
 成就された世界は彼を、そのぼやけた影を
 もう必要とはしない。彼の墓石
(ぼせき)
 積まれた桂冠が干からびる、
 その追憶はどこに消えたかわからない。



 



 シベリウスの交響曲のなかで、このブログではまだ一度も登場させていなかったのが、第7番。交響曲といえば、ふつうは4楽章からなる。ベートーヴェンの『田園』のように5楽章のもあるくらいなのに、シベリウスの最後の交響曲――7番だけは、1楽章しかないのです。

 その単楽章は約 21分…、少し長いので、7番はなかなか出せなかったわけです。

 曲想の点でも、この第7交響曲は、シベリウスらしさが完成された形で現れています。つまり、馴れない耳には、とっつきにくいかもしれない。退屈する向きもあるかもしれない。それで、6番までを十分に聴いていただいたあとで、7番に登場してもらうことにしました。

 ↓下の日本語版 Wiki の解説にも書かれていますが、ムラヴィンスキーの演奏のように、金管(トロンボーン)の主題を明確に打ち出せば、たしかに、この曲はわかりやすくなります。なにか‥、進軍ラッパの響きわたる勇壮な叙事詩のような感じになります。しかし、それでは、シベリウスらしい“線の細さ”“細い線が絡み合う複雑な構成”が死んでしまう。

 私の個人的な感想ですが、この曲の“シベリウスらしい”演奏を聞くと、軍隊よりも国家よりも以前から存在し、それらを超えてなお存在する大地、あるいは自然、‥‥そういったものが感じとれるように思います。それは、ロシアではけっして主題化されることのなかった世界――チャイコフスキーさえ想い及ばなかった・人知を超越した基底的な世界なのです。

 じっさい、この交響曲を初演したあとしばらくして、シベリウスは創作の筆を折ってしまいます。この世に贈るべきすべてを出し終えた、と言うかのように。



シベリウス交響曲第7番作品105は、1924年に完成された。

 初演時は『交響的幻想曲』と名付けられていたが、単一楽章というかなり変則的な形式を採用していたためであり、単一楽章中に、通常の交響曲のようなソナタ形式の部分、緩徐楽章、スケルツォなどを織り込んだ作品であり、構想の段階では3楽章形式をとる予定であった。交響曲として番号が与えられたのは翌年の出版時である。

 交響曲の様々な要素をひとつの楽章中に織り込んだ交響曲ともいうべきスタイルをとっており、第5番、第6番と書き進むうちに着想された新しいアイデアであり、シベリウスの交響曲全体に感じられる統合への意思が形としてようやく結晶化した作品と評されることがある。この曲の神髄は、有機的に融合した交響曲の各要素を、凝縮された音の中で表現しきったことにある。演奏時間は、平均的には22分程度。

 交響曲とは銘打ってはいるものの、単一楽章のため、速度標語を以下に記す。

 Adagio(序奏) - Vivacissimo - Adagio - Allegro molto moderato - Allegro moderato - Presto - Adagio - Largamente molto - Affettuoso

 交響曲としては珍しい単一楽章の構成を取る。これは、最初から意図して交響曲として作曲されなかったことによるが、

  ●全体を一つの拡大されたソナタ形式とみなすことも可能である

  ●交響詩のような明確な標題を持たない

 ことにより、交響曲としての分類が自然である。

 パーヴォ・ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団(1984年)などの録音が親しまれてきたが、

 ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー交響楽団(1965年)による演奏は、トロンボーンの主題が異様なまでの迫力があることで知られている


   曲 想

 ティンパニのト音に続いて地の底から湧き上がるような弦の音階によって Adagio の序奏で音楽が静かに開始する。

 厳かな雰囲気でヴァイオリンが序奏主題を奏でる〔2:20-, 2:52-, 3:50-〕

 

  最初の上昇するような音型とその後の木管楽器が和声的に歌う音型〔1:50 - 2:19〕、弦楽器でゆったりと流れるような音型、しばらく厳かな楽想が続いた後、それが高まったところで現れる第1主題ともいうべきトロンボーンが朗々と奏するソロの主題〔4:55 - 5:14〕がこの交響曲のひとつの核心である。このトロンボーンの旋律は、中間部ではやや形を崩した形で現れ、終結部でもういちどほぼそのままの姿で再現される。これに寄り添う旋律として、フルートによる上昇下降を繰り返す萌芽的なパッセージがあり、これは終結部においてもっとも長い完成された形で現れてくる。

 オーケストラの高揚の後、アダージョの2分の3拍子に代わり、さらに4分の6拍子のヴィヴァーチッシモの部分が登場する〔9:25 - 10:15〕が、ここがスケルツォに相当する部分で、快活でリズミカルである。

 再び弦楽器の静かな部分に移行し、やがて波のような弦のうなり〔10:15-〕の上に再度トロンボーンの主題が鳴り響く〔10:35 - 11:35〕

 その後、弦楽器と木管楽器の呼び交すような音型が現れ、アレグロ・モルト・モデラートの部分に突入する〔12:14-〕

 ヴィヴァーチェ部分に流れ込み、さらにはプレストとなる。この曲で最も活発な部分で、やがてトロンボーンに主題が登場し〔17:25-〕クライマックスを迎える。」

Wiki:「交響曲第7番 (シベリウス)」
 


 なるほど。Wiki の解説を読むと、なぜ1楽章だけなのに『交響曲』なのか、納得できる気がします。交響曲の各楽章の特徴ある部分が、こま切れになってひとつの楽章の中に混ぜ込まれている、そんな感じです。それでも、おおざっぱに見れば、「主題提示部」―「展開部」―「再現部」という《ソナタ形式》と見なすこともできるわけです。

 ↑「曲想」解説の各所に、音源↓のタイムを記しておきました。スコアを見ていないので、これで間違いないとは言いませんが、大きく外れてはいないと思います。この曲の“聴きどころ”は、12:14-アレグロ・モルト・モデラートと、それ以降だと思います。木管と弦が絡み合いながら、主題を投げわたし、ひきつぎ、繰り返し現わします。とちゅう、何度か収束しながら、クライマックスに向って高まって行きます。


 

シベリウス『交響曲 第7番 ハ長調』
パーヴォ・ベリルンド/指揮
ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

 


 室内楽を少し聴いてみましょう。ロマンチックに酔いしれるジョシュアと、クールな若いペッカ。2人の対照的な演奏で。

 

シベリウス『5つの小品』作品81 から
第1曲 マズルカ
ジョシュア・ベル/ヴァイオリン
サミュエル・サンダース/ピアノ

 

 



“first love”                 

 


 

シベリウス『5つの小品』作品81 から
第5曲 メヌエット
ペッカ・クーシスト/ヴァイオリン
ヘイニ・カルッカイネン/ピアノ


 


「   交響曲第4番 (シベリウス)

 1908年、前年から体調の不調を訴えていたシベリウスは喉の腫瘍と診察され、5月12日にヘルシンキで手術を受けた。

 腫瘍は良性であると判明したが、予後への配慮から酒と葉巻を禁止されてしまった。この加療生活からシベリウスは死を身近に感じるようになり、この時期の作品には暗闇からかすかな光を探し求めるような感覚がつきまとっている。その最も完成された形がこの交響曲第4番である。

 作曲者自身が「心理的交響曲」と呼んだことからも明らかなように、この作品は決して標題音楽ではない。長い闘病生活の不安とその生活を支えた希望、そして病を克服して得た充足感がこの交響曲の核をなしている。

 初演は、あまりに晦渋な作品に対して聴衆や批評家の評判は高くなかったが、作曲者の自信が揺らぐことはなかった。

   第4楽章 Allegro

 この楽章では他の楽章では使われないグロッケンが要求されているが、ピッチの安定性などの問題から実際の演奏ではグロッケンシュピール(鉄琴)が用いられる。


 〔第4楽章は、〕ポー(Poe)の『The Raven (大鴉)』に付した憂鬱なスケッチに基づいて展開する。弱まっていくフィナーレは 20年後にシベリウスが経験することになる沈黙の予感であるとも言いえる。同時代に一般的だった威勢の良いフィナーレとは対照的に、この作品は簡単に「重苦しく落ちる音」(leaden thud)により終結する。」

Wiki:「交響曲第4番 (シベリウス)」 Wiki:「シベリウス」
 


 「グロッケン」は、NHKの「素人のど自慢」でおなじみの“キンコンカン”。実際の演奏では、鉄琴を用いていますが、シベリウスが指定したグロッケンならば、もっと華やかになることでしょう。

 重苦しい↓第4交響曲も、終楽章は、グロッケンシュピール(鉄琴)の効果もあって、病気からの快方に向かうシベリウスの明るい気分が現れてきます。それでも、フィナーレの最後は、なんのクライマックスもなく、消え入るように唐突に終ってしまいます。


 

シベリウス『交響曲 第4番 イ短調』から
第4楽章 アレグロ
ジェイムズ・リヴァイン/指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 




      村の夕べ

 磨かれた窓のまえ
 鉢植えの花はあざやかに、
 窓の奥のくらがりに
 おさげの乙女咲き匂う。

 教会の屋根に稲妻のごと
 すばやく過ぎる燕の羽ばたき、
 いたるところ晩鐘鳴り響き
 夕べは昼を組み伏せた。

 いまわれら褥
(しとね)に向かい
 日と夢を交換するそのまえに、
 窓辺に立って耳澄ませ
 大いなる平和を聞き取らん。



 

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