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沼津アルプス~沼津奥アルプス

 

 

 

 連休とはいえ、先へ行くほど天気が悪くなる予想なので、土曜日に、一日曇りの予報だったが、出かけることにした。

 「沼津アルプス」は、沼津市郊外にある低山の連なり。出発点は、沼津市街のど真ん中にある「香貫山」。そこから、南へ→東へ、伊豆長岡近くまで弓なりに、岩がちの低山が連なっている。最高でも 400メートル足らずと標高は低いが、海岸のゼロメートルから登るので、標高差がないわけではない。しかも、「縦走」とはいえアップダウンの激しい消耗コ-スとの、もっぱらの評判だ。

 自分の体力を冷静に測って、後半半分だけのトリップにしてみた。

 「沼津アルプス」は、これが4回目くらい。たしか、初めて来た時は、東側から上がって、早春のことで、木苺が豊富だった。楽しかった思い出を残した。まだハタチくらいだった。

 

 2回目は沼津のほうから徳倉山を越えた。アップダウンがきつかった。近鉄の看板が立っていて、なるほど、ここはもう関西なんだと思って感心した。

 コースの後半――「奥アルプス」を歩いたことがないので、今回は、中間点の「志下坂峠」から始めることにした。目的地は、伊豆箱根鉄道の原木駅だ。

 「はまゆう前」でバスを降りて登り口を探すが、みつからない。。。 やっと、小さな道標を見つけた↓

 

 

 

 

 湿った落ち葉でぐちゃぐちゃした綴ら折れを上がってゆくと、あっというまに「志下坂峠」に着いてしまった。

 縦走路に合流して南行する。「さざなみ展望台」という看板があって、↓大瀬崎までの海岸線がよく見える。曇りなんだから、暗いのはしかたない。

 

 

 

 

 このへんの縦走路は、ごくなだらか。ルンルン気分で進む。行く手の鷲頭山が見える↓。

 

 

 

 ↓「志下山」 標高214メートル。
 

 

 

 

 こんどは、「奥駿河展望台」の看板がある。しかし、近くの海岸の眺めがよい。養殖の生簀が見える。
 

 

 

 

 ↓「志下峠」。「ぼたもち岩」というのがある。
 

 

 

 

 ↓「中将宮」。何の中将かと思ったら、平清盛の5男「平重衡(しげひら)」のことだという。

 

 重衡は、「一ノ谷の合戦」で源氏の捕虜となり、鎌倉に護送され、伊豆の狩野宗重に預けられた。「一ノ谷の合戦」といえば、『平家物語』では「平敦盛(あつもり)」の戦死が有名。敦盛は、笛の上手な少年で、鎧兜の下に薄化粧をして騎馬していた。戦いの前夜には、一の谷の陣で笛を吹き、敵味方の将兵が涙を流したという。およそ、戦闘のできるような人ではないのだ。

 

 重衡も、敦盛よりは年上だが、やはりイケメンの優さ男で、頼朝も、重衡を引見し、ひと目見て殺すのが惜しくなり、北条政子の侍女をあてがって厚遇した。工藤祐経のつづみ、重衡の笛、侍女の琵琶で合奏を楽しんだりしている。


 しかし、重衡はかつて「南都(奈良)攻略」のさいに大仏殿や興福寺まで焼き払ったので、南都の人々の恨みを買っていた。優美な風貌のかげに、過激な性格を併せ持っていたのかもしれない。南都の人々は、頼朝に、重衡の引き渡しを要求した。〔ここまでは史実〕

 史実では、重衡は東大寺に引き渡され、木津川原で斬首されるのだが、この「中将宮」に立てられた案内板の由緒書きによると、重衡は、軟禁されていた「狩野の里」(狩野川のほとり?)から逃げ出して、鷲頭山中腹の洞窟に隠れ住んだ。やがて、追手に取り囲まれたので、大岩上で切腹したのだという。

 

 文明14年(1480年)から、大平の村人が重衡を祭り、延宝7年(1679年)には阿弥陀如来の石像を洞窟に納めた。つまり、この伝説は、戦国時代以後に発生したようだ。

 

 以来毎年、村人による供養祭が行われ、皇太子時代の大正天皇が来て植えた「お手植えの松」もあったそうだ。

 

 

 

 

 たしかに、格子の中を覗いて見ると、岩窟になっていて、石仏が安置されていた↓。
 

 

 

 

 「中将宮」からは、急な登りがつづく。

 

 まもなく、「小鷲頭山」 330メートル。こんなところに、ハマカンゾウ(浜萱草)が咲いていた↓。本来は海岸の植物だが、海岸の都市化で居場所がなくなったのだろう。
 

 

 

 

 「小鷲頭山」からは、千本松原が、よく見える↓。
 

 

 

 

 ↓「鷲頭山」 392メートル。きょうの最高点。
 

 

 

 

 山頂広場の片隅に、小さな祠があった↓。
 

 

 

 

 離れた場所に、古い由緒書きの案内板が、草に埋もれている↓。草をのけても、字が摩滅していて、よく読めない。

 

 鳥居も何もないが、「鷲頭神社」というらしい。
 

 

 

 

 石灯篭が1基、太平山のほうを向いて立っているところをみると、そっちから来るのが参道のようだ。

 人がいなくなった寺院を「廃寺」というが、神社は、人がいなくとも、廃墟になろうとも、神がいるかぎり神社なのだろう。

 「祀
(まつ)られざるも神には神の身土(みつち)がある」と、宮沢賢治の詩にも歌われている。
 

 

 

 

 このあと、“参道”は、ウバメガシの純林のなかを行くという。
 

 

 
 

 

(2) へ 【つづく】