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↓こちらにレビューを書いてみました。


志賀直哉と里見弴―――
―――同性の愛慾と葛藤(7)




里見弴と4歳年上の志賀直哉との同性愛


1910年、志賀直哉は、『白樺』創刊号に載せた

『網走まで』が文壇の注目を浴び

12年には『中央公論』に中篇『大津順吉』を掲載して

作家としての地位を確立します。

一方、里見弴は注目を集めるほどの傑作は

まだ生みだせず、あいかわらず

直哉との同性愛、女中八重との情交という

「ずるずるべったり」の2つの肉体関係から

抜けだせず、苦しみます。

 

1913年、は意を決して、直哉との中学初年からの

関係を小説『君と私と』に書いて公表することにします。

直哉との同性愛も、かずかずの放蕩生活の「悪行」も、

そこから抜けだせない自分の「悪心」も、何もかも

ありのままに書くことによって、客観化し、

直哉の影響下から脱出することを試みたのです。

 

同人誌『白樺』に連載されたこの小説を、はじめは

興味深く読んでいた直哉が、怒りをふくんでをなじる

ようになったのは、二人が身体のつきあいを始めた

時期に筆が及んだ時でした。

『君と私と』4回目の連載は、直哉の批判文「モデルの不服」

といっしょに掲載されました。二人の応酬は手紙でもつづき、

は、その後4ヵ月近く、この小説の続きも、ほかの作品も

書けなくなっています。そして、執筆を再開したものの

『白樺』に送った連載5回目の原稿は印刷所で行方不明に

なってしまうという事件に見舞われ、は、ついに

この小説を続ける意欲を失ってしまうのでした。

 

しかし、その前後、は永く望んでいた「家出」を

決行し、大阪へ移って2年間、芸妓の家の2階で

暮します。この大阪生活のあいだに体験した

下層の人々の哀歓にみちた生活が、に、

小説家としての新生面を開いたのです。

 

直哉同性愛、いよいよ終局へ向って

歩みを速めていきます。