志賀直哉と里見弴は、四谷見附(現・JR四ツ谷駅)
のこの地にあった校舎で、武者小路実篤、柳宗悦
らと少年時代を過ごした。
↓こちらにレビューを書いてみました。
志賀直哉と里見弴―――
―――同性の愛慾と葛藤(3)
里見弴と4歳年上の志賀直哉との同性愛
1907年、二人は小説を書き始める。
1905年に漱石の『吾輩は猫である』、1906年には、同『坊ちゃん』
『草枕』、藤村の『破戒』、そしてこの年、花袋の『蒲団』が
上梓され、近代文学勃興の熱気に促されて
中等学校生の誰もが一度は文学者の夢を見る
「火事場泥棒」の意欲に浸っていたと
里見は記しています。
直哉は弴のまえで自作の小説を読み上げ
感想を求めると、弴はきまって「面白い」と
答えました。その一言を聞きたいがために
直哉は十篇を越える習作や習作の粗筋を
弴に聞かせるのでした。
まだ書いていないものは粗筋を話すのですが
その内容は綿密で、眼に見えるような場面や
風景描写が直哉の口から活き活きと紡ぎ
出されました。里見は、できあがったあとで
読んだ時よりも、事前に聞いた描写のほうが
いきいきとしていて面白かったと述懐しています。
弴が書いて批評を求めた小説に対しては、
直哉は率直な批判を辞さずに述べています。
とくに直哉に評判が悪かったのは、未亡人の
情欲を描いた一篇で、直哉は
「こういうことを興味半分に書くのは邪道だ」
と評して難詰しました。しかし、純文学ひとすじの
志賀直哉とは異なって、大衆文学にも才能を見せた
里見弴の趣向は、すでにこの時に現れていたといえます。
そうした輝かしい日々の裏面で、二人はともに、
それぞれの“性の問題”に煩悶していました。
どちらも、自家の《女中》とのあいだの恋愛ないし
肉体関係という問題の枠組みは共通でしたが、
内実はまったく懸け離れて対照的でした。
今回は、志賀直哉のほうで 1907年に“爆発”した
女中との“結婚騒動”のいちぶしじゅうを
扱います。他方、里見弴の肉体関係の煩悶が
頂点をむかえるのは翌 1908年であり、
これは次回に扱います。