1905年、直哉と弴は元箱根に別荘を借りてひと夏を過ごす
が、ここでも“彼氏の取りあい”の葛藤は絶えない...
↓こちらにレビューを書いてみました。
志賀直哉と里見弴―――
―――同性の愛慾と葛藤(2)
里見弴と4歳年上の志賀直哉との同性愛
1904年、日露戦争の戦況が刻々伝えられ
国じゅうにナショナリズムの興奮がひろがるなかで、
二人のあいだのへだたりは、急速に埋められて行きます。
やがて、同人誌『白樺』が創刊され(1910年)
“帝国主義作家”志賀直哉は誕生の一歩を踏み出します。
志賀直哉がどうして「帝国主義」なのか?
彼は人道的な「国民作家」じゃないか!
と言うかもしれません。。。
しかし、「国民文学」と「帝国主義文学」 ―――
この2つは、柄谷行人氏の盟友である
韓国の批評家・曺泳日(チョ ヨンイル)氏によれば、
まったく同じことがらなのです:
【4】曺泳日『世界文学の構造』
たしかに志賀直哉は当時、日露戦争の開戦に最後まで
抵抗した内村鑑三に師事していました。
内村の糾弾演説に感銘して、足尾鉱毒事件
に深い関心をもち、実業家の父と烈しく衝突します。
しかし、直哉を内村のキリスト教講習会に
連れて行ったのは、直哉に同性愛を“手ほどき”
した志賀家の書生末永でしたし、
直哉は、内村が厳しく命ずる禁欲の戒律を
どうしても受け入れることができず
煩悶の日々を送っていました。
里見弴18歳の 1905年、
直哉は弴の恋心を自分に向けさせるべく
あの手この手をつくした観があります。
弴にショックを与えるとともに気を惹こうとして
弴が想いを寄せる下級生を「奪い取」って
弴のまえで仲睦まじいようすを見せるという
マキャヴェリズムさえ発揮しています。
直哉は、さらに、内村鑑三をモデルとした習作小説
(発表されず)を書き、そのなかで、
「惨酷なる道徳家」が、妻に対して慾情に狂う
邪険きわまりない姿を描きました。
直哉はこの小説を解説して、
「結婚した夫婦の間にも姦淫罪はある」ことを
主張したものだと言っています。
日露戦争後の揺れる社会のなかで、
志賀直哉と里見弴それぞれの道は
どう交わってゆくのか?
1907年以後(次回に扱います)、二人は
公私ともに激動を迎えることになります。