春の真昼
明るい嫩葉(わかば)のなかに桜草(プリムラ)がしっとりとひらく、
鶫(つぐみ)の娘たちがまだびくびくと追いかけっこをしている、
野の香り菫(すみれ)の日々はまもなくだ、
樹々の奥でさまよう山羊の甲高(かんだか)い嘶(いなな)き。
近くの領地の開け放った窓辺から
わたってくる、ピアノと娘たちの歌の響き、わたしの
胸と心をして古めかしい小径(こみち)をたどらせる、
春の真っただ中にシューベルトの歌(リート)一節(ひとふし)。
なにもかもが永遠でありすべては何時(いつ)でもそうあろうとする、
人間たちの甘い歌声、蜜蜂の酔い痴れた羽音、
遥かな並木道から子供たちの雄叫(おたけ)びが風に乗って、
桜草(プリムラ)は草地の金(きん)、なよやかな雲のいちれつ。
なにもかもが永遠でありすべては何時(いつ)でも戻ってくるだろう、
大砲が鳴りやんですっかり錆びてしまった時には。
遊べ歌え、歌いつづけよ、近くの子供たち、
この愛すべき大地と大地の春に畏敬をそそぎつつ。
↓このユーチューブにはクレジットがついていませんけれども、ファンが聞いたら、誰だか声でわかってしまいますよね。「視聴2回」……でも掘り出し物。
シューベルト『白鳥の歌』から
「春の憧れ」
ルートヴィヒ・レルシュタープ/詩
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ/バリトン
『白鳥の歌』の第3曲。意外なことに、ネットで歌詞の日本語訳が見つかりません! 著作権はとっくに失効しているのに、翻訳権(こんな小さな歌詞、主張するほどのものでもないでしょ)にこだわる人が消して回ってるのかも‥
なので、↓一部ですが自訳でお目にかけます。歌でリフレインになっているところは、繰り返しておきます。
「 春の憧れ
めぐる風はやわらかに吹き、
花の香りでみたされる!
めぐる風はやわらかに吹き、
花の香りでみたされる!
おまえたち(風)、なんと幸せそうに挨拶してゆくことか!
おまえたち、どきどきする私の心に何をした?
ふわふわとおまえたちを追いかけてゆくような気がする!――
ふわふわとおまえたちを追いかけてゆくような気がする!――
どこへ?
どこへ?
小川よ、元気でしかもざわめいて、
銀の筋なして谷へと落ちてゆく。
小川よ、元気でしかもざわめいて、
銀の筋なして谷へと落ちてゆく。
ゆれる波、ほら、せわしなく走って行く!
奥行き深く野原と空を映している;――
焦がれて欲する心よ、おまえはなぜ私を
焦がれて欲する心よ、おまえはなぜ私を
(悲しみに)沈めるのか?
(悲しみに)沈めるのか?
〔……〕
やすみなく恋い焦がれ!欲望しつづける心!
いつも涙と、嘆きと苦しみだけなのか?
やすみなく恋い焦がれ!欲望しつづける心!
いつも涙と、嘆きと苦しみだけなのか?
意欲が膨らんでくるのが自分でもわかる;
私を急き立てるこの衝動を、ついに鎮めてくれるのは誰?――
この胸の青春を解き放ってくれるのは、あなただけ、
この胸の青春を解き放ってくれるのは、あなただけ、
あなただけ!
あなただけ!」
⇒:東大教養学部ドイツ語部会(原詩PDF)
ちなみに、
ふわふわとおまえたちを追いかけてゆくような気がする!――
と訳した行の主語は、「私(ich)」ではなく、「エス(es それ)」です。つまり、フロイトの精神分析で言う「エス」、―――無意識のなかでも最も原始的な、本能そのままの部分。シューベルトの曲も、レルシュタープの歌詞も、フロイトよりずっと前ですが、ドイツ語にはもともと、そういう無意識をあらわす表現があるんですね。
さて、↓この音源は、ちょっと渋いのを選んでみました。フィッシャー=ディースカウの歌い方と言い、ムーアの伴奏と言い、ちっとも楽しくない、春らしくないと思うかもしれませんが、‥“春まっさかり”の5月に、どこか寒々と不安な・この感じ。シューマンの作曲意図を、よく表現しています。
これは、ハイネの原詩の真意でもあると思います。春と恋の喜びを語るようなかっこうをして、じつは悲しい失恋を歌うハイネの心情を、シューマンは十分に理解していた。そして、フィッシャー=ディースカウも、それを踏まえて歌っていることがわかります。
実利を重んじる当時(19世紀)のユダヤ人社会で、立身出世とは縁遠い夢想少年だったハイネの恋は、100%すべて失恋だったのですから。
シューマン『詩人の恋』から
「麗しき五月に」
ハインリヒ・ハイネ/詩
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ/バリトン
ジェラルド・ムーア/ピアノ
ガブリエル・フォーレ『夢のあとで』
シベリウスの《悲しきワルツ》↓は、単独でもよく演奏されますが、フィンランドの詩人ヤルネフェルトの劇『クオレマ』のために作曲された背景音楽の第1曲です。
下のあらすじで、第1幕の入眠から「踊り子」の踊りまでにあたります。
「『クオレマ』(フィンランド語: Kuolema)は、アルヴィド・ヤルネフェルトの戯曲。「クオレマ」という言葉は、「死」を意味する。1903年に初演され、1911年に改訂された。義弟のジャン・シベリウスが同名の劇付随音楽をつけたことから有名になった。その中でも、後に単独のコンサートピースに編曲された《悲しきワルツ》が名高い。
劇は以下の3幕からなる。
第1幕は、パーヴァリ少年と、病臥したその母親が主役である。
少年が看病の疲れから眠りこんでしまうと、部屋は赤い光にみたされる。遠くから音楽が聞こえ、忍びこむようなワルツのメロディーとなる。
母親は、踊り子たちの夢を見る。踊り子たちが部屋を埋め尽くすと、彼女も踊りの中に加わるが、くたくたになってしまう。踊り子たちがいなくなると、再び彼女は踊り始める。しかし、死神が外から3回扉を叩き、音楽は止む。死神は、亡夫の姿になって彼女に言い寄る。(こうして母親は死ぬ)
第2幕は、さすらう青年となったパーヴァリが主役である。ある時パーヴァリは、『年老いた魔女』が暮らす小屋に行き当たり、その小屋で魔女のためにパンを焼き、灯りを燈す。魔女はパーヴァリに、未来の花嫁に逢える指輪を与える。
舞台はたちまち夏の森に変わる。森の中でエルザという乙女が歌を口ずさんでいる。そこにパーヴァリが現れる。二人は寄り添って眠った後、パーヴァリは目を醒まして旅立ちの用意をするが、エルザはパーヴァリが自分と一緒にいてくれることを望む。そこに、鶴の群れが二人の頭上を飛び回り、その一羽が群れを離れて、一人の赤ん坊を運んでくる。
第3幕。パーヴァリとエルザはすでに結婚している。パーヴァリは身銭を切って学校を建てる。その後パーヴァリとエルザの住まいは火事に遭う。
自宅が炎上する間、パーヴァリは来し方を振り返り、大鎌を掴んだ母親の亡霊を炎の中に認める。第1幕と同じように、死神が肉親の姿で迎えに現れたのだ。自宅が倒潰するのと同時に、パーヴァリは息を引き取る。
終幕で村人たちがエルザと遺児たちを慰め、パーヴァリを偲ぶ。パーヴァリはみんなの心の中に生きている、とエルザが語って幕。」
⇒:wiki:「クオレマ」 ⇒:Wiki: Valse triste(Sibelius)[eng]
シベリウス『悲しきワルツ』
ヘルベルト・フォン・カラヤン/指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
夕べの家並(やなみ)
横殴りの最後の金色の光に照らされて
家々の種族は音もなく耀いている、
類稀(たぐいまれ)な彩々(とりどり)の深い色
祝祭の宴(うたげ)は禱礼(とうれい)のように華やぐ。
内面において互いに凭(もた)れあい、
兄弟のように坂道に生(お)い出る家々、
素朴でしかも古めかしく、誰も習わないのに
誰もが知っている唄のように。
古びた外壁と漆喰、傾いた屋根、
貧しさと誇り、零落と幸せ、
かれらは優しく、やわらかにそして深く
昼に向ってその残り火を照り返す。
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