枯れ葉
 すべて開花は結実をのぞむ、
 すべての朝は夕べに向かう、
 地上に永久(とわ)なるものはなく、
 移ろいだけが、逃亡だけがくりかえす。
 このうえなく美しい夏も
 いつかは秋と霜枯れを知る、
 木(こ)の葉よ、とどまれ、忍耐づよくひっそりと、
 風がおまえをさらっていこうとしても。
 そよぎのままに、身を護ることなく、
 おとなしく成るがままにせよ。
 風がおまえを折り取って
 はこんで帰ってゆくままに。 
 ↑この詩の朗読、短いですから、ちょっと聴いてみましょう: 
 
ヘルマン・ヘッセ『枯れ葉』
フリッツ・シュターフェンハーゲン/朗読
 
 ちんぷんかんぷんなコトバを聴かされても、つまらないですか? いっそ、風景とBGMだけで、朗読は無いほうがいいかもしれませんねw
 ドイツ語の原詩と英語訳が2段対訳で出ます↓ 
 
ヘルマン・ヘッセ『枯れ葉』
 
 わたしたち高等動物は、自分と他の個体の違いがはっきりしていますが、バクテリアや菌類は、集合と離散をくり返して、どこからどこまでが個体なのか、あいまいです。
 植物も同じ。数千年を生きる老木は、ひとつの個体がずっと生きているとも言えるし、多くの個体の集合と継承のようにも見える。ある意味では、一本の巨樹は、数世代にわたる多数の個体が住みついたアパートのようなものです。樹木は、一本一本の枝がそれぞれ一つの個体とも言えるし、1枚の葉が個体とも言える。
 詩人が木の葉を生命ある個体と考えるのは、けっして単なる比喩ではないのです。そこには、詩人ならではの“生命の直観”があります。 
 
フィリップ・グラス『コヤーニスカツィ』より
「プロフェシーズ(予言)」
 
 
フィリップ・グラス「詩人の行為」
映画『めぐりあう時間たち』より
 
 そういえば、ラフマニノフの↓この曲にも、ミニマル・ミュージックの趣きがあります。 
「《前奏曲ト短調》作品23の5は、セルゲイ・ラフマニノフの『10の前奏曲』作品23(1903年完成)に含まれるピアノ独奏曲。1901年に作曲された。
 濃厚なロシアの民族的情緒に溢れ、今日でも広く演奏されている。ラフマニノフの技巧と非凡性を象徴した傑作である。」
  ⇒:ウィキ 
 1901年といえば、『交響曲 第1番』の初演失敗で陥った神経衰弱から立ち直り、著名な『ピアノ協奏曲 第2番』を完成、その初演で劇的な称賛を得た年。
 キッシンの歯切れ良い演奏が痛快です↓ 
 
ラフマニノフ『10の前奏曲』作品23 から
「前奏曲 ト短調」
エヴゲニー・キッシン/ピアノ
 
      十 月
 じぶんのいちばん上等の服を着て
 樹々はみな黄色くまた赤い、
 そして軽々と死んでゆく、
 苦しみというものをかれらは知らぬ。
 秋よ、わたしの熱い心を冷ませ、
 もっとおだやかに脈打つように
 しずかにこの黄金の日々を
 冬へとわたってゆくように。 
 
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