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ウィリアム・アドルフ・ブグロー 『アベルの死を嘆くアダムとイヴ』(1888)

 



       アーベルの死の歌

 死んで草陰に横たわるアーベル、
 兄カインは逃れ去った。
 一羽の鳥が来て嘴
(くちばし)を血にひたし
 驚いて飛びあがり去って行く。

 鳥は世界じゅうを飛びまわる、
 おどおどと飛び、声はつんざいて響く、
 それは終りなき嘆き:
 美しきアーベルと彼の死の苦痛について、
 暗黒なるカイン彼の魂の貧困について、
 彼自身の若き日々について。

 まもなくカインは鳥の心臓に矢を放ち、
 まもなく争いと戦
(いくさ)と死をすべての
 幕屋
(まくおく)と町とに齎(もたら)
 敵をつくり敵を殺し、
 敵とみずからを狂うほど憎み、
 敵とみずからを巷
(ちまた)という巷に
 追いこんで責め苛
(さいな)む、闇が世界を鎖す時まで、
 彼カインが自己を絶命させるまで。

 鳥は逃れる、血に染まった嘴からは
 世界中に死の嘆きを響かせながら、
 その叫びをカインが聞き、死したるアーベルが聞き、
 天空の下で千の人びとが聞く。
 一万いやもっと多くの人は、しかし、それを聞かない、
 アーベルの死について、カインの心の貧困について、
 これほどにも多くの傷から溢れ出た血について、
 かれらは知ろうと思わない、
 ついきのう起きた戦争について
 知ろうとはしない、小説で読んでいるのに。
 満腹した陽気な人びと、強くて
 粗野な人びと、かれらには
 カインもアーベルもない、死も苦痛もない、
 戦争をかれらは讃える偉大な時代として。

 嘆きの鳥が飛びすぎてゆくとき、
 かれらはそれを悲観主義者、ペシミストと呼び、
 自分は強いし不敗だと思い
 鳥に向って石を投げ、
 鳥は押し黙って去ってゆく、
 そうでなければ音楽をがちゃがちゃ鳴らす、
 鳥の声をかれらは聞きたくない、かれらにはそれは邪魔だから。

 鳥は小さな血のしずくを嘴につけて
 ここかしこに飛んでゆく、
 アーベルを悼むその声はますます遠く響きわたる。




「          《創世記》

       第4章

1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、『わたしは主によって、ひとりの人を得た』。

2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。

4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。

5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

6 そこで主はカインに言われた、『なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。

7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』。

8 カインは弟アベルに言った、『さあ、野原へ行こう』。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。

9 主はカインに言われた、『弟アベルは、どこにいますか』。カインは答えた、『知りません。わたしが弟の番人でしょうか』。

10 主は言われた、『あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。

11 今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。

12 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう』。

13 カインは主に言った、『わたしの罰は重くて負いきれません。

14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう』。

15 主はカインに言われた、『いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう』。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。

16 カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。」

   ⇒:旧約聖書・口語訳 創世記



 『聖書』の“カインアーベル”の逸話は、“人類最初の殺人”“人類最初の裏切り”などと言われますが、これにも、さまざまな解釈があるのでしょう。

 注目すべきなのは、罪を犯してしまったカインに対して、神は、「誰でも、カインを殺す者は7倍の復讐を受ける。」と言い、まるで、加害者のほうを保護しているかに見えることです。この神の言葉を強調して、カインに同情すれば、殺人も戦争も、人間の「原罪」であり、すべての人間は「原罪」をかかえて生きていかねばならない、ということになるのでしょう。“誰もがカインだ”

 しかし、逆にアーベルのほうに同情すれば、カインが生きているかぎり――つまり殺人をする人間が存在する限り――、アーベルの怨嗟はやむことがない。告発されない戦争も殺人も、ありえない、ということになります。キリスト教のなかで、エチオピア正教会などは、アーベルの「恨」を強調するようです。しかし、キリスト教の主流は、ローマン・カトリックも、プロテスタントも、そういう解釈はしません。

 ヘッセは、キリスト教の主流よりも、エチオピアに近い考え方のようです。子供の時から、“カインアーベル”の逸話は納得できなかったと言っています。

 たしかに、一見すると、加害者カインに味方する考えのほうが、平和をもたらすように見えます。被害者アーベルを抑圧して、“復讐”を断念させることになるからです。それに対して、アーベルに味方すると、“復讐の無限連鎖”を引き起こすかに見えます。アーベル側の“仇討ち”が成功して、カインが殺されると、今度は立場が逆転して、同じ復讐劇が繰り返されることになります。だから、キリスト教の主流がカインに味方するのは、たいへん合理的な人類の知恵である、ということになりそうです。

 しかし、よく考えてみましょう。私たちが―――キリスト教徒ではない東洋人が―――子供の頃から教えられてきた道徳は、真逆ではなかったでしょうか? “弱きを助け、強きをくじく”。アーベルの“復讐心”を抑圧してカインの肩をもつキリスト教の道徳は、それとは逆に、“強きを助けて弱きをくじく”。“強い者”に対してばかり寛容すぎるのではないか? そういう疑問を感じないでしょうか?

 宗教や文明の違いによって、結論が異なってしまう―――ということは、これはもう“どちらが正しい”などとは簡単に言えないような問題、いわば人類の永遠の課題、答えのない問題にちがいない。。。 そう考えるべきでしょう。

 そして、むしろ私たちの主要な関心は、―――宗教哲学的な真理ではなくして―――、現在の世界の個々の問題に対して、どちらの考え方が、より有効だろうか?‥‥ということでなければならない。

 たとえば、開発途上国どうしの間で、宗教的な理由か、種族的な理由かで反目が起き、しばしば戦争をくり返しているとしましょう。そこにキリスト教道徳を持ってくると、どちらの側も、自分がカインになって、“強者”になって、「原罪」を“反省”しつつ“神”―――つまり西洋諸国やアメリカ―――の保護を受けたいと思うでしょう。双方が、先進国から武器を買い求め、あわよくばこっそりと核兵器まで手に入れ、それが無理ならアメリカに基地を提供して、こっそり核兵器を置いてもらう。双方が、際限のない軍拡と戦争の道をひた走ることになります。

 ↑この構造があるかぎり、アジア・アフリカに平和はけっして訪れないし、先進国から武器を買うために、途上国の資源と国民の労力は収奪されつづけるでしょう。この状態を終わらせようと思うならば、“カインに味方する神”とは違う考え方をしなければならない。

 エチオピアのアビー・アハメド首相が、隣国との紛争を謙譲と和解によって解決した功績で、今年のノーベル平和賞を授与されたのは、ぼくは偶然ではないと思うのです。


 しかし、話題が広がりすぎたかもしれませんw ここでは、聖書の“カインアーベル”の話に集中しましょう。そこで、ちょっと見て――聞いてほしいのは、『時計じかけのオレンジ』の・ある場面です。まず、イントロから:


 

『時計じかけのオレンジ』から、イントロ
スタンリー・キューブリック/監督(1971年)
(パーセル『メアリ女王の葬送』「マーチ」)

 


 弱い者を暴力で苛め放題、女とセックスをし放題の不良少年グループを率いていたアレックスは、仲間に裏切られて逮捕。矯正当局の医師たちは、彼を“犯罪者治療”の格好の実験台とする。

 攻撃衝動が起きると、頭痛と嘔吐を催してしまう心理機構を植え付けようとするのですが、その“学習”に使われるのが、ナチスの行進と戦争の記録フィルム、そして、ベートーヴェンの第九の『歓喜の歌』:


 

『時計じかけのオレンジ』から、矯正治療
スタンリー・キューブリック/監督(1971年)
(ベートーヴェン『第9交響曲』「歓喜の歌」)

 


 あまぁいメロディに乗って、兵士が鉄扉を壊して家の中へ入ってゆく、飛行機から爆弾が雨のように降る、都市が破壊され、死体がごろごろと横たわる。その画面と音楽が、まったく異和感なく調和している‥

 戦争とホロコーストのフィルムを使うのは、まあいいとして、残虐行為のBGMが、世界平和を謳歌する『歓喜の歌』、しかも、甘ったるい電子演奏の『歓喜の歌』だというのは、…これは、なんという皮肉だろうか?w

 ある意味で、人間の残虐衝動は、ほとんど自己愛に近い甘~ぁい感情と一体なのだ―――という主張を、ここから読みとれるのではないか?

 原作の小説でも、映画の主たる筋書きでも、ベートーヴェンの曲との関係が中心になってしまっているのですが、もっと注目すべきなのは、このBGMの“あまあま”と、残虐衝動との、隠された密接な関係ではないか。。。 と思われるのです。

 言ってみれば、“あまあま”の平和主義、ヒューマニズムのもつ落とし穴をこそ、この映画から読みとるべきではないのか?


 



 



 アメリカの現代作家スティーヴ・ライヒが 1988年に作曲したミニマル・ミュージック『ディファレント・トレインズ(違う列車)』は、

 1. アメリカ‐第二次世界大戦前(America-Before the War)
 2. ヨーロッパ‐第二次世界大戦中(Europe-During the War)
 3. アメリカ‐第二次世界大戦後(After the War)

 の3部からなる長い曲ですが、聴いていただくのは、2.です。 

 

 ↓演奏の場所は、《アウシュヴィッツ‐ビルケナウ》収容所跡の「回想の部屋」。背景に並んでいる写真はみな、被収容犠牲者の在りし日の姿です。

 

スティーヴ・ライヒ『ディファレント・トレインズ』から
2.「ヨーロッパ‐第二次世界大戦中」
クロノス・カルテット

 


「『ディファレント・トレインズ』(Different Trains)は、アメリカ生まれのユダヤ人作曲家スティーヴ・ライヒが、自分の幼少時代と、同時期のヨーロッパで起こっていたホロコーストを、『汽車』というキーワードによって結びつけ、ミニマル・ミュージックの技法によって作曲したドキュメンタリー性の強い楽曲である。1989年のグラミー賞最優秀現代音楽作品賞を受賞した。

 ライヒは、『もし、ユダヤ人である自分があの時代にヨーロッパにいたらどうなっていただろうか? おそらく、強制収容所行きの、全く違う汽車(Different Trains)に乗ることになっていたのではないか?』と考え、このことが作品を書くきっかけとなった。

 2. ヨーロッパ-第二次世界大戦中(Europe-During the War)
  ホロコーストを生き延びた3名のユダヤ人の証言を中心に構成される。彼らの行き先は『ポーランドの、奇妙な名前 』の土地であった。

       《Different Trains》
   Europe – During the War

 1940
 on my birthday
 the Germans walked in
 walked into Holland
 Germans invaded Hungary
 I was in second grade
 I had a teacher
 a very tall man
 His hair was concretely plastered smooth
 He said black crows invaded our country
 No more school
 You must go away
 And she said: - Quick, go!
 And he said: - Don't breathe!
 cattle wagons
 four days four nights
 And then we went through
 these strange sounding names
 polish names
 Lots of cattle wagons there
 They were loaded with people
 They shaved us
 flames going up in the sky
 It was smoking

 1940年
 私の誕生日に
 ドイツが入って来た
 オランダに入って来た。
 ドイツがハンガリーに侵攻した。
 私は2年生だった。
 私の先生は
 とても背の高い男の先生、
 髪をポマードできっちりと撫でつけていた。
 彼は、黒いカラスがわれわれの国に侵入してきたと言った。
 学校はもうない。
 君たちは遠くへ行かなければならない。
 彼女は言った:すぐに行きなさい!
 彼は言った:息をするな!
 家畜用の貨車
 4日4夜
 それから私たちは、奇妙な名前の町を通って行った。
 ポーランドの名前の町。
 そこには家畜用貨車がたくさんあった。
 積み荷は、みな人間だった。
 彼らは私たちの頭を剃った。
 焔が空にあがっている。
 まわりは煙かった。」

   ⇒:ディファレント・トレインズ(Wiki)



 このまま終りにするのは、なんともやりきれないですから、ベートーヴェンをもう一度聴きましょう。

 “英雄”交響曲の第2楽章、なぜか「葬送行進曲(II Marcia funebre)」と題されています。ナポレオンが、ヨーロッパの現実の支配者となった時、ベートーヴェンの中にあった“諸国民の自由の英雄”は、死んだのかもしれませんね。


 

ベートーヴェン『交響曲 第3番 変ホ長調“英雄”』から
第2楽章 葬送行進曲:アダージオ・アッサイ
レオナード・バーンスタイン/指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 



      ≫盗聴人ヘルマン≪から

 なべての平安が降りてくる
 すきとおった天のひろがりから、
 喜ぶも悲しむもすべては
 甘き唄の慰めに死す。


 

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