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         ときたま

 なにもかもが偽
(にせ)物で悲しく思われるときがある、
 ぼくらは弱く疲れて苦痛のうちにあるとき、
 どう動いても悲しみにしか向かわないのだ、
 どんな喜びも翼が傷ついている、
 そこでぼくらは切々たる思いで広野
(ひろの)を眺め
 新しい喜びが来ないかと耳を澄ますのだ。

 でも喜びは来ない、喜びも運も外から来たためしは
 なかった。ぼくらは庭職人のように注意深く
 内奥
(ないおう)の存在に、耳を傾けねばならない、
 いつかそこから花のように微笑
(ほほえ)んで
 新たな喜びと力とが芽吹くときまでは。




 「ときたま(Manchmal)」という題名の詩は、ヘッセには2つありますが、以前に出したのは 1904年、こちらは 1917年の作です。朗読テープが出ているので、聴いてみましょう。BGMは、エリック・サティ『ジムノペディ』第1曲

 

へルマン・ヘッセ「ときたま」
 


 サティのBGMが、途中で切れちゃってますね。あらためて、全体を聴いてみたいと思います:

 

サティ『3つのジムノペディ』(縮約版)
アンヌ・ケフェレク/ピアノ

 


 次は↓、耳慣れたメロディーですが、この曲もサティだったんですね。

 

サティ「ジュ・トゥ・ヴ(おまえが欲しい)」
クラーラ・ケルメンディ/ピアノ

 

 


「        水との出会い

 

 シッダールタは死んだ。新しいシッダールタが眠りからめざめた。彼も老いゆくだろう。いつかは死なねばならないだろう。〔…〕しかし、きょう彼は若かった。子どもだった。若いシッダールタだった。喜びに満ちていた。

 こんなふうに考え、微笑しながら、
〔…〕流れる川を朗らかに見つめた。水がこれほど快く思われたことはなかった。移り行く水の声と比喩をこれほど強く美しく聞いたことはかつてなかった。川は何か特別なことを、彼のまだ知らない何かを、彼に語っているように思われた。〔…〕古い疲れた絶望したシッダールタはきょうおぼれ死んだ。新しいシッダールタはこの流れる水に深い愛を感じ、すぐにはここを離れまいと、心ひそかに決めた。

      
〔…〕

 愛情こめて彼は、流れる水を、透明な緑を、水の神秘な模様の透きとおった線を見つめた。底のほうから光る玉が上がって来、静かな泡が水面に浮かび、青空を映しているのが見えた。川は無数の目で、緑色の目で、白い目で、透明な目で、空色の目で彼を見た。どんなに彼はこの水を愛しただろう! この水はどんなに彼をうっとりさせたことだろう! どんなに彼は水に感謝したことだろう! 川の中に新しくめざめた声が聞こえた。その声は彼に、この水を愛せよ! この水のそばにとどまれ! この水から学べ! と告げていた。ああそうだ、この水から学ぼう、この水に耳を傾けよう、と彼は思った。」

ヘッセ『シッダールタ』,高橋健二訳,新潮文庫(一部改訳).



  ヘッセの「シッダールタ」は、お釈迦さま(ゴータマ・シッダールタ)その人ではなくして、釈迦の時代に、あえてその教えに背き、祇園精舎の森を出て、俗世間に没入していったひとりの修行僧なんですね。彼は、商売に従事して巨富を追求し、愛欲と快楽の限りを尽くしたあと、突然、財産も愛人も何もかも放棄して、大河(ガンジス川?)の岸辺に達し、貧しい渡し守になるんです。

 そして、最後に“真理”に覚醒(悟り?)するまでの「シッダールタ」の軌跡を、今夜は、サティのピアノ曲を聴きながら、拾い読みしてみたいと思います。


 




 

サティ『ノクターン集』
パスカル・ロジェ/ピアノ

 


 渡し守をしている「シッダールタ」のところに、商人として生活していた時に愛人だった「カマーラ」が、男の子を連れてやってきます。祇園精舎の釈迦のもとへ旅してゆく途中、川を渡ろうとして、たまたま「シッダールタ」の渡しに来て再会するんです。連れている子は、「シッダールタ」が出て行った後で生まれた彼の子どもだと言うんですね。

 「カマーラ」は、そこで毒蛇に噛まれて死んでしまいます。「シッダールタ」は、彼女が残した子を育てようとするんですが、息子は、彼を父親とは思っていないので、全然なつかない。しかも、母親に贅沢に育てられたらしく、渡し守の小屋での貧しい生活をいやがって、町へ出て行ってしまいます。「シッダールタ」は、息子を探して連れ戻そうとするんですが、老・渡し守の「ヴァズデーヴァ」に、独立して生きて行こうとしている少年の手足を縛ろうとしても無駄だ、と諭されて諦めます。




「        川岸の求道者

 
〔むすこが出て行ってしまった〕傷はなお長い間うずいた。むすこやむすめを連れた旅人を、シッダールタはいくたりも対岸に渡してやらねばならなかった。そういう人を見るごとに、彼はうらやましくなって、『このようにたくさんの人が、幾千という人が、この上なく恵まれた幸福を持っている。―――どうして自分は持たないのか。悪人でも、泥棒、強盗でも、子どもを持ち、愛し愛されている。自分だけはそうでない』と考えた。〔…〕

 いま彼は前とはちがった目で人間を見るようになった。前ほど賢明に、見くだすようにでなく、もっとあたたかく、もっと強い関心と同情をもって見るようになった。〔…〕思想や見識によってではなく、ひたすら本能や希望によって導かれている彼らの生活を共にした。そして自分を彼らと同様の人間と感じた。〔…〕

 子どもに対する母の盲目な愛、ひとりむすこに対するうぬぼれた父の愚かな盲目な自慢、装飾や賛嘆する男の目を求める若い虚栄的な女の盲目な激しい努力、これらすべての本能や、子どもじみた所業、単純でばかげているが度はずれて強い、強く生き、強く自己を貫徹しようとする本能や欲望は、シッダールタにとって今はもはや子どもじみた所業ではなかった。そういうもののため人間が生きているのを、彼は見た。〔…〕そのゆえに彼は、彼らを愛することができた。彼らの煩悩のすべての中に、彼らの行為のすべての中に、彼は生命を、生きているものを、破壊しえないものを、梵(ブラフマン)〔註:宇宙の根源〕を見た。〔…〕それらの人びとは愛するに値し、賛嘆するに値した。彼らには何ひとつ欠けていなかった。」

ヘッセ『シッダールタ』,高橋健二訳,新潮文庫(一部改訳).

 

サティ『グノシエンヌ』から
第1曲 レント
ラン・ラン/ピアノ

 

 


「        岸べの覚り

 ある日、傷が激しくうずくと、シッダールタはわが子恋しさの念にかられて、川を渡り、舟をおりた。町へ行き、むすこをさがすつもりだった。川は穏やかに音も静かに流れていた。乾燥期だったのだ。が、川の声は奇妙にひびいた。その声は笑った。はっきりと笑った。川は笑った。老いた渡し守をからからと明らかにあざ笑った。
〔…〕

 ヴァズデーヴァは、〔…〕シッダールタの手をとり、岸べのいつもの場所へ連れて行き、いっしょに腰をおろし、川に向ってほほえみかけた。

 『おん身は川の笑うのを聞いた』と彼は言った。『だが、おん身はすべてを聞いてはいない。耳を澄まして聞こう。もっと多くのことが聞えるだろう』

 ふたりは耳を澄ました。川の多声の歌は穏やかにひびいた。シッダールタは水の中をのぞきこんだ。流れる水の中にさまざまの姿が現われた。
〔…〕―――川は悩みの声で歌った。慕いこがれるように歌った。慕いこがれるように目標に向って流れた。その声は訴えるようにひびいた。

 
〔…〕父の姿、むすこの姿が流れ合った。カマーラの姿も現われて、溶けた。ゴーヴィンダの姿やほかのさまざまの姿も現われ、溶け合い、みんな川になった。みんな川として目標に向って進んだ。慕いこがれつつ、願い求めつつ苦しみつつ。〔…〕すべての波と水は急いだ。苦しみながら、目標に向って、多くの目標に向って、滝に、湖に、早瀬に、海に向って。〔…〕あこがれる声は変った。〔…〕ほかの声が加わった。喜びの声と苦しみの声、人の良い声と悪辣な声、笑う声と悲しむ声、百の声、千の声がひびいた。

 シッダールタは耳を澄ました。
〔…〕もう彼は多くの声を区別することができなかった。〔…〕あこがれの訴えと、知者の笑いとが、怒りの叫びと死にゆく人のうめき声とが、すべてが一つになった。〔…〕すべてがいっしょになったのが世界だった。すべてがいっしょになったのが現象の流れ、生命の音楽であった。〔…〕すべてを、全体を、“ひとつのもの”を聞くと、千の声の大きな歌はただ一つのことば、オーン〔註:「唵」,聖なる音〕、すなわち完全から成り立っていた。

      
〔…〕

 このときシッダールタは、運命と戦うことをやめ、悩むことをやめた。彼の顔には悟りの明朗さが花を開いた。〔…〕

 ヴァズデーヴァは岸べの席から立ちあがり、シッダールタの目を見、そこに悟りの明朗さが光を発しているのを見ると、いつもながら慎重にやさしく手でその肩に触れて言った。『私はこの時を待っていたのだ、友よ。その時が来たので、私は行かせてもらおう。〔…〕

 シッダールタは、別れを告げる人の前に深く頭をさげた。

 『私は知っていた』と彼は小声で言った。『おん身は森の中へ入るのであろう?』

 『私は森の中へ入る。“ひとつのもの”の中へ入る。』とヴァズデーヴァは光を放ちながら言った。

 光を放ちながら彼は去った。シッダールタは彼を見送った。
〔…〕その歩みが平和に満ち、その頭が輝きに満ち、その姿が光に満ちているのを見た。」

ヘッセ『シッダールタ』,高橋健二訳,新潮文庫(一部改訳).




 小説の中でヘッセが書いている「悟り」とか「オーン(唵)」は、仏教にある用語ですが、「ブラフマン(梵)」というのは、仏教にはありません。ヒンズー教のほうです。

 渡し守としての仕事も、大乗仏教ならば、それ自体が、世の中の人に尽くす「菩薩行(ぼさつぎょう)」ですが、ヘッセの描く「シッダールタ」には、そういう意識はありません。あくまでも、「生・老・病・死」の「四苦」を通じて、自己の内面に沈潜して行くことが、「悟り」へ向かう道のすべてなのです。

 そして、最後に達する「悟り」は、仏教と同じでしょうか? たいへん特徴的なのは、「シッダールタ」は、老・渡し守の「ヴァズデーヴァ」とともに、ふたり同時に「悟り」に達していることです。

 

 「悟り」を得た「ヴァズデーヴァ」は、まもない死を待つために森に入って行きます。これは、仏教での「悟り」「解脱」の本来の意味――「涅槃」「成仏」(死ぬこと)と同じです。

 ところで、大乗仏教には、個人が自分一人だけで「成仏」することはできない、という考え方があります。誰もがみな「成仏」できるようにしてからでなければ、自分が「成仏」することもできない、と。

 つまり、「衆生(しゅじょう)」すべてを救済しなければならない。すべての「衆生」とともにでなければ、「成仏」も「悟り」もありえない。「悟り」に達するための修業とは、「衆生」を救うことにほかならないのだ、と。そして、この教えが、北インド → 中国 → 日本、と伝わってゆく過程で、「衆生」の範囲も広がって、人間すべて → 人間+動物全部 → 「山川草木」まで含めたあらゆる生物・無生物、‥という途方もないことになってしまうのです。。。

 この、およそ達成不可能な「衆生」すべての救済という難関を、擦り抜けるために考え出されたのが、「他力本願」という抜け道です。つまり、自分で努力して「成仏」しなくとも、「阿弥陀」さまを信じて念仏を唱えていれば、息を引き取った時に「阿弥陀」さまが迎えに来てくれる。そして、「極楽浄土」という、仏に成らなくても安楽に暮らせる特別な世界に連れて行ってくれる、というわけです。

 しかし、ヘッセの仏教観は、それらとは違うようです。大乗仏教と小乗仏教の中間の考え方なのでしょうか? 一人では「悟り」に達しないが、二人いれば「悟り」に達することができる―――と言っているようなのです。これはとても興味深い考えですね。


 最後に、「内面への道」というヘッセの詩をご紹介します。朗読のユーチューブ動画のあとに、詩の拙訳を載せておきます。


 

ヘルマン・ヘッセ「内面への道」
ヘ長調 作品10の8
フリッツ・シュターヴェンハーゲン/朗読

 



      内面への道

 内面への道を見いだした者、
 燃えるような自己沈潜のうちに
 叡智の核心を予感した者、
 神と世界とは自己の感性が選び取るべき
 像であり喩
(たと)えなのだと知った者:
 彼にはどんな行動も考えも自己の
 魂との対話、世界と神のすべては
 魂の中に包みこまれている。



 

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