前回は女声の歌がつづいたので、こんどは男声クラシック。なんと、あの 20世紀を代表するバリトン歌手、フィッシャー=ディースカウのLPレコードです。これは掘り出しものですねw
フィッシャー=ディースカウと言っても、もうクラシック・ファンでも知らない人が多いかもしれません。はじめは第2次大戦中、ドイツ軍兵士として囚えられた連合軍の捕虜収容所で歌いはじめ、戦後の西ドイツで爆発的な人気を博しました。本人は、やはり同時代の現代歌曲のほうを向いていたようなのですが、世界中、とくにドイツ外のファンをとりこにしたのは、彼が歌う、シューベルトなどの古いドイツ・リートでした。
高音域での少しうわずった、テノール歌手よりも甘い声色‥‥それが気持ち悪いという人もいますが、いちど魅了されてしまうと、気持ち悪さが快感に変るのかもww そして、なんといってもバリトンならではの底深いトーンで力強く歌い上げる中低音域。
このLPは 1977年のリリースで、すでに壮年ながら、まだ声量の衰えを見せてはいません。
作曲者のオトマル・シェック(Othmar Schoeck)は、スイスの作曲家で、ヘッセと同世代の人。この歌曲も、第2次大戦前に作曲されています。
しかし、原詩↓は、この「詩文集」でレヴューしているインゼル文庫のヘッセ詩集には、なぜか載っていません。翻訳は、フィッシャー社の『ヘッセ全集』収録のテキストを底本にしましたが、シェックの歌詞とは、わずかな口調の違いがあるようです(翻訳には影響しません)。この詩は、もしかすると、歌曲にするためにシェックに贈られたもので、詩集として出版されてはいないのかもしれませんね。
旅の道案内
みちばたで褐色のこどもたちが
熱した青天井をぼんやりと見つめる
あのロマンシュのくに★のことならば
ぼくはとてもよく知っている。
そこでは黒い樹々が炬火のように
まっすぐに伸び上がって生え
きみのすべての夢みる想いは
ロマンシュの愛に病んでしまう。
そこでは金褐色の岩石に
青い波が打ちよせている
もっとも美しい謡(うた)のなかから
きみに多くの詩句がふりかかるだろう。
そして彼らが森と呼んでいる
3本の樹木が立つところ、その下を
あまたの美しい女性の姿が
歩いてゆくのを見るだろう。
そのひとりの女がきみの唇に
いちどでもキスを与えたならば
きみは生涯の病いにおちいり
二度と健康にはならないだろう。
★ ロマンシュの国(Welschland): イタリア、南フランス、スペインなどラテン系民族の国々。また、とくにスイスのイタリア語・レトロマン語地域を指す。
↓レコード店の宣伝のためにユーチューブに出ているサンプル動画なので、第1曲「旅の道案内」が全部入って、第2曲「ふたつの谷間」の頭のところで切れています。それにしても、この掘り出し物を見つけたレコード屋さんは、さすがですねw
ヘルマン・ヘッセ「旅の道案内」(オトマル・シェック/作曲)
(ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ/バリトン,カール・エンゲル/ピアノ)
さて、フィッシャー=ディースカウほどの大物が登場したとなると、これだけで退場してもらうのは惜しい気がしてしまいます。ヘッセ街道から外れて道草になってしまいますが、シューベルトを1曲だけ聴いておきましょう。
『白鳥の歌』より 「惜別」(フランツ・シューベルト/作曲)
(ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ/バリトン,ジェラルド・ムーア/ピアノ)
伴奏のビアノのアルペジオが、町を出て引っ越してゆく馬車のひづめの軽やかなリズムを思わせますが、それにもかかわらず明暗入り混じったシューベルトのメロディーは、詩の内容を忠実に反映しているのです。
レルシュタープの歌詞↓を読んでみれば、これは決して楽しいだけの歌ではない。むしろ、暗く沈むよりもずっとずっと巨きな悲しみを表現し得ているのです。
惜 別
ルートヴィヒ・レルシュタープ
アデー(さよなら)、陽気で朗らかな町、アデー!
ぼくの馬はもう楽しげに蹄(ひづめ)をひびかせる
ぼくの最後の別れのあいさつを受けよ
おまえはぼくの悲しい顔を見ることはもうないだろう
だからいまだってそんなことは起こりはしない。
〔…〕
アデー、ほのかにひかる明るい窓よ、アデー!
おまえはたそがれのなかでなんと悲しく輝いて
ひとを小屋のなかにやさしく招いていることか
ああ何度ぼくはその傍らを通り過ぎたことだろう
そして、きょうこそは最後になるのだろうか。
アデー、星々よ灰色に霞みゆけ!アデー!
数限りないおまえたちの星あかりも
窓のくぐもった輝きの代りにはならない;
ここにとどまることが許されないなら、去ってゆかねばならぬなら
おまえたちが律儀に付いてきたとて何になろう!
アデー、星々よ灰色に霞みゆけ!アデー!
ところで、ヘッセ自身は自分の詩に曲をつけたことはなかったのでしょうか? どうも無かったようです。
ヘッセは少年時代から、ピアノもヴァイオリンもよくこなしており、音楽家にならずに詩人になったのは偶然のせいだという言う人もいるくらいです。それなのになぜ作曲をしなかったのか?
おそらく、ヘッセ本人は、じっさいに大成した詩人としての才があまりに優れていたために、自分の音楽の才能までは評価しきれなかったのだと思います。ヘッセの詩は、それ自体が音楽感の発露です。そもそもドイツ詩では、音数とアクセントの交替による平仄のリズムは、あってあたりまえ、各行末の脚韻の適切さが、詩の音楽的な面での評価を左右します。
詩が脚韻を必要とする世界の大部分の国々では――アラビアでも中国でも――、詩はけっして誰にでも作れるわけではない、知性と感性の合体した高度なパズルなのです。
日本語にしてしまうとまったく伝えようがないのは残念なのですが、ヘッセのほとんどすべての詩は、脚韻を……しかも、かなりきっちりと規則通りの韻を踏んでいるのです。もしも、音楽性を重視するあまり、意味内容の構成をおろそかにすれば、その無理は直ちに詩の全体的な“すがた”の破壊となって現れます。ヘッセの詩には、そうした失敗がまったく見られない――それは驚異というほかはないのです。
詩の技術(ドイツ語では「芸術」と同じ語です)を体現してしまった成熟期のヘッセにとっては、自分の中途半端なピアノやヴァイオリンの演奏技術などは、あまりにもみすぼらしいものに見えたのかもしれません。↓下の詩では、自分は小説や詩を書くことに忙殺されて、楽器の練習をするひまがなかったのだと言い、もっぱら口笛の技術を研鑽してきたと言うのです。
口 笛
ピアノとヴァイオリン、ほんとうにすばらしいものだが
それらにわたしはほとんど関わってこなかった
これまでのわたしの生活のめまぐるしさは
口笛を研(みが)く時間しか残してくれなかったから。
わたし自身名人とは呼び得ないし
芸術は長く人生は短いけれども
口笛の芸術を知らぬひとびとを残念に
思う。それはわたしに多くを与えてくれた。
もう長いことわたしは口笛を研鑽し
一歩一歩習熟しようともくろんできた
そしていまわたしがめざすのは、自分に向け、
きみに向け、世界に向けて口笛を吹くこと。
ヘルマン・ヘッセ「口笛」
(作曲,ギター,ヴォーカル/クラウディオ・ロンカルディ
口笛/ハイディ・ヴルジ)
ロックでもカントリーでもクラシックでも、ユーチューブには、まだまだヘッセの詩に曲をつけた演奏が残っているのですが、それは皆さん自身でお探しいただくとして、
次回からは、ヘッセ→音楽 の矢印を逆にして、音楽について書いたヘッセの詩をとりあげてみたいと思います。
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