リンドウの花
夏の歓びに浸りきり至福のひかりのなかで
息もしなくなって、おまえは立っている
そらはおまえの杯(さかづき)の底に沈んでしまったかのよう
おまえのうぶ毛を吹く風が
この魂のあらゆる罪と痛みを
吹きはらってくれるなら
ぼくはおまえの兄弟になって
しずかな日々をおまえとともに過ごすだろう
世をわたってゆくぼくの旅は
かろやかで幸せな目標を見るだろう
おまえと同じく、神の見る夢の庭園を
夏の青い夢となって歩むのだ
ヘッセの詩は、ドイツ語としてはかなりやさしいほうで、初学者でもよくわかる易しい言葉で書かれています。教科書類に採用されたのを見たことがないのは、ふしぎです。カフカの作品はしばしば見かけるのですが‥
大意を読みとろうとして逢着する困難の多くは、語学的なものではありません。内容を読みとる難しさなのです。上の詩も、すぐには意味が通じなくて、原書に印をつけたまま、何度も折りにふれて読みかえしていたのですが、ひっかかっていたのは、第3連にある「目標(Ziel)」という語だったことがわかりました。入門の 500語の中に入るほどやさしい単語ですし、「目標」という訳語も、辞書の最初に書いてある意味で、どうということはないのです。
「世をわたってゆく……旅」、つまり人生の「目的」「目標」が、死後の“生き方(?)”――在り方だということを思いつかなかったために、理解できなかったのです。
それがわかったとたんに、第1連から第3連まで、この詩全体の印象が、すっかり変ってしまいました。
そして、死後に、どんな在り方をするか、ということを目標に生きてゆくということが、けっして何かとほうもなく偉大なことでもなければ、重々しい生き方でも何でもないことが、すんなりと納得できたのでした。それは、私たちのような凡人が誰でも夢見るような平凡なことなのです。ただ、私たちはふだんそれを意識していないだけです‥
「神の見る夢」というのは、おもしろい発想です。“神がこの世を創造した”ということを裏返して言えば、この世界はなにもかも、神がまどろんで夢見ているまぼろしの風景の一部にすぎないのだ、とも言えます。私たちはみな、神の見る夢に現れた幻影にすぎないのだ、と。
それならば、「夏の青い夢」となって、神を惑わそうとたくらむことは、まさに人生の目標たるに価する、すてきな企画ではないでしょうか?
アルプス・リンドウ(Gentiana alpina) ©Wikimedia Commons
リンドウは、野山に咲く花の中では、比較的じみな部類ではないでしょうか。そんなに珍しい花ではないし、草むらの中で、まっすぐに上を向いて咲いています。高山植物の花の赤やピンクのあでやかさも、可憐さも、あまり持ち合わせてはいないように見えます。
青空は「おまえの杯の底に沈んでしまったかのよう」だと言っているところをみると、ヨーロッパのリンドウも、まっすぐに上を向いて咲くようです。
Wikipedia で探してみた画像が↑上です。ヨーロッパには、リンドウ属はたくさんの種があるようですが、どの種の写真も上を向いて咲いていました。それにしても、あざやかな青ですね。日本でも、高山に咲くリンドウ属――イワギキョウなど――は、あざやかな青い色をしています。高山の空の深い紺青を吸収してしまったかのようです。
あざやかな色はトリカブトを思い出させますが、リンドウの根は毒薬ではなく、漢方の薬材になります。あざやかな色が岩間を彩るころ、高山はもう夏の盛りを過ぎて冬支度に向っているのです。
夏の夜
樹々から垂れているのは嵐がのこした滴(しずく)
濡れた葉叢にひかる月光の冷ややかな親しみ
眼には見えないが深い谷底から沢のせせらぎが
暗く、せわしなく響いてくる。
農場で犬がさかんに咆えだした
おお夏の夜、宙吊りにされた星たちよ
おまえたちの往く蒼いみちすじ、旅のざわめきのかなたに
私の心はどんなに遠く奪われてゆくことか。
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