夏の旅
見晴るかす黄金(きん)の海
風に揺すれる麦稈の穂波
遠くの村からきこえてくる
蹄のひびき、鎌打つ音。
蒸せかえるような重い季節だ!
陽の耀きに顫えてゆらぐ
稔りきった黄金の潮(うしお)
刈り入れの用意は整った。
広い大地に径(みち)も無く
そぞろ彷徨(さまよ)う異邦の者に
このわたしに、稔りはあるのだろうか
獲り入れの鎌が近づいたとき?
前回までの『地の糧』、いかがでしたでしょうか?
ギトンにとっては、ほんとうにしばらくぶりの再読でした。最初に読んだのは高校生の時で、‥いや、読んだというほどではなかったのが今回、よくわかりました。
「ナタナエル、君に情熱を教えよう」(当時の翻訳は、そうなってました)―――くらいしか記憶に残ってません。その文句以外、ほとんど読んでなかったんだと思いますw
再読してみて、やっぱりジッドはすごいなと思うのは、目に見える世界、五感で感じられるものに、徹底してこだわって、そこに没入していることです。目に見えるものを無視して一気に飛躍しようとすると、‥‥それができる人はいいですけれども‥‥、できないのに無理をすると、頭で考えた理屈に依存することになりやすいし、その理屈を自分で考え出せないとなると、伝統や常識や、安っぽい先入見に引きずられてしまいます。
『地の糧』につづいて取り上げるものを探してるんですが、いまのところ適当なのがありませんねw ハーフィズは近くの図書館に無かったので、いま、他の館から取り寄せてもらっています。平凡社ライブラリーの『古典BL小説集』も読みましたが、‥‥んーいまいちですねw 勝手を言わせてもらえば、耽美性が足りないんです。同性愛に偏見がないのは、いいと思うんですけどね。
そろそろ“大御所”のジャン・ジュネに取りかかるかなあ‥‥という感じもしています。
ところで、この「詩文集」の掲載間隔ですけど、これから週1回にさせていただこうと思ってます。掲載を始めたときには、訳して貯めてあった分をかなり持っていたので、一日置きでも平気だったんですが、もうストックは底を衝いてますw
でも、ヘッセの翻訳は、ゆっくりでも続けたいと思ってます。市販の翻訳本が数種あるのに、わざわざ自分流の翻訳をしているのは、詩の言葉の勉強になるからです。西洋人の書いた詩ですから、内容は、ほとんどすべてが自分の中には無いもの、思わぬ内容、思わぬ考え方、はっと思うような感じ方ばかりです。そういう内容を、どういう言葉で言い表したらいいのか‥、これは本当に“学習”になりますw
とくにヘッセは、“敬虔派”のキリスト教徒の家に生まれて、そういう環境で育っているので、‥‥小説ではそれほどでもないんですが、‥‥詩となると、宗教的な環境の“刻印”が随所に見られますね。
「メメント・モリ(死を想え)」という言葉が西洋にはあるらしいですが、ほんとうにいつも――べつに危険な環境にいるわけではないのに――自分は“死”と隣り合わせに生きているんだ、という感覚をずっと持ってるんですね。
たとえば、今回取り上げた↑上の詩でも、「鎌打つ音」は、麦を刈り取る大鎌を鍛冶屋が鍛えているカーン、カーンという音ですし、「獲り入れの鎌」を、麦ではなく人間に対して向けるのは、もちろん死神です。「鎌」としか訳せませんでしたが、原文では、人間の身体でもまっぷたつにバサッと刈り取ってしまえるような、死神の大鎌(Sense)です。
ヘッセ以外に取り上げたいものがあったり、自作詩でマシなのができた時とか、日常生活、お料理などは、いままでどおり「詩文集」の枠外で出すつもりです。それで、週1回よりは多少多いペースになるんじゃないかと思ってます。
夏の夜
したたる滴(しずく)、よどんだ気配
風のそよぎもなく
酔っぱらいが唄いながら道を行く
ふしははずれ、子供のようにもろい声。
酔っぱらいが急に押し黙る:
そらが破れ
青白い閃光が
道をするどく照らし出す。
ざわめく白馬の群れのように
速足(はやあし)で近づく雨の列
すべてのあかりは消え、ものはかたちを失った
疾駆する大波がわたしをさらって閉じこめた。
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