彼は暗闇を歩き――
彼は暗闇を歩くのが好きだった、黒い樹々の
影が折り重なって、彼の夢を醒ましたから。
それなのに彼の胸には、光へ!光へ!と
燃えるような欲求がうずいていた。
彼は知らなかった、頭上には、澄みきったそらいっぱいの
まじりけない星がかがやいていることを。
ヘッセの詩をめくっていると、いつもそれとなく安心感を覚えるのは、“真実は自分の外にある”ということを彼が知っているからだと思います。
たいせつなものは、いつも人間の中ではなく、人間をとり囲む世界のほうにある。たった百年たらずしかこの世に存在しない“自己”なんかに、いったいどんな重みがあるというのでしょうか?
さて、今回も、『地の糧』の続きを読んでいくことにします。前回は、ジッドの愛撫の対象でしかなかった同性愛者の少年が、今度は口をひらいて語りはじめます:
「さてその夜、彼らは果物を謳った。メナルク、アルシッド、さらに集まった者数名を前に、イラスは次のように歌った。
石榴(ざくろ)の輪舞の歌
〔…〕
肉体の歓びは、草葉のように柔らかく、
生垣の花のようにあいらしい。
牧場の苜蓿(うまごやし)よりも、あるいはまた触るとすぐに葉の落ちる
あわれな下野(しもつけ)草よりも、もっとはやく萎(しお)れて刈り取られるのではあるが。
〔…〕
おお! ナタナエルよ、君は自分の触れられるものを欲求するように。
そして、それよりも完璧な所有などは望まぬように。
僕の感覚にとってもっとも心地よい歓びは
癒された渇きだった。」
『地の糧』「第四の書 三」より;二宮正之・訳.
「ウマゴヤシ」: ウマゴヤシ属(ウマゴヤシ、アルファルファ)は、日本では帰化植物。牧草として栽培もされます。クローバー(シロツメクサ、アカツメクサ)に似ていますが、三ツ葉も花も大きいです。
「シモツケソウ」: シモツケソウ属は、ふわふわした感じの細かいピンクの花をたくさんつける野草で、日本では、低山から高山まで、いくつかの種があります。最近の都市化の波で、低い場所には咲かなくなりましたが、高山のお花畑ではふつうに見かけます(↑写真参照)。西洋でも、いくつかの種があるようですが、赤花は珍しく、もっともふつうのセイヨウナツユキソウは白花です。
「触るとすぐに葉の落ちる/あわれな」というのは意味不明。乾燥してカサカサになってるとか?! ‥‥シモツケソウの葉は、触ったくらいでは壊れないふつうの葉ですが、たしかに、花穂の見かけはとてもふわふわしていて、飛び散って行きそうな淡い感じがします。
「イラス(ヒュラス)Hylas」: テオクリトス『牧歌』に登場する同性愛者の少年。神人ヘラクレスの愛人。ヘラクレスは、ヒュラスを連れて、有名なイアソンの“アルゴス船の航海”に参加するが、途中、船がヘレスポントス(黒海とエーゲ海の間の岬)に立ち寄った際、ヒュラスは泉に炊事の水を汲みに行って、ニンフたちに襲われ、水中に引き込まれてしまう。ヘラクレスは、ヒュラスが戻って来ないので発狂したようになって探し回り、航海のことなど忘れてしまった。
この話は、ギリシャ・ローマでよく知られた物語だったらしく、ウェルギリウス『牧歌』では、賢人シレノスが、他のさまざまな神話伝説とともに物語ります。「イラス」はフランス語読み。
ところで、このイラスの『輪舞の歌』でも、「ナタナエルよ、君は自分の触れられるものを欲求するように。/そして、それよりも完璧な所有などは望まぬように。」と、夢のような望みや、支配欲に対する戒めが語られます。
“ぼくの身体に触れられるだけで満足せよ。ぼくを完璧に所有しようなんて思うなよ!”――ってことですw
これって、同性同士のつながりを保つための要諦かもしれませんね。同性同士だと、相手と“同じになりたい”という欲求が、どうしても強くなりがちですが、だからって一方的に自分の思いどおりにしようとしたら、壊れるんだと‥‥
「ナタナエルよ、私は君の唇を新しい渇きで燃え上がらせたい。そして、その唇へ清涼の溢れる杯を近づけたい。私は飲んだ。唇が渇きを潤おすことのできる泉を私は知っている。
〔…〕
泉には並々ならぬ美しさがある。また、地中に浸透する水もそうだ。それは後になると、あたかも水晶を通過したかのように、澄んで見える。それを呑むのは、類まれな楽しみだ。その水は空気のように淡く、存在しないもののように味もなく、色もしない。〔…〕
私の五感にとって最高の歓び
それは潤おされた渇きであった。」
『地の糧』「第六の書」より;二宮正之・訳.
↓イラスの『輪舞の歌』のつづきです:
「快いものだった、水浴した時の泉の水は、
見知らぬ唇に物蔭で僕の唇が触れるのは……
しかし、果物は――果物は――ナタナエルよ、何と言おうか。
〔…〕
その果肉は微妙繊細で汁がたっぷりあった。
血を流す肉のように味が良かった。
傷から流れ出る血のように赤かった。
これらは、ナタナエルよ、特殊な渇きなど少しも求めていなかった。
金の籠に入れて供されたのだ。
その味はまず胸をむかつかせた。較べようもなく味気なかった。
僕の知っている土地のどの果物の味も思い出させなかった。
それは熟れすぎたバンジロウの実を想わせた。
果肉は熟しすぎているようだった。
そして口に渋い後味を残した。
それを消すには、もう一つ新しいのを食べなければならなかった。
享受できるといっても、ほんの束の間のことで、
果汁を味わう間だけのことだった。
そして、その瞬間は短いだけになおさら好ましかった、
食べ終わるとその味気なさはますます吐き気をもよおすものになったのだから。
果物籠はすぐに空になった。
最後の一つは分かちあったりはしないで、
そのまま残しておいた。
嗚呼! その後で、ナタナエル、誰が私たちの唇について語るだろう。
その苦く焼け爛れる感じがどんなものであったのかを。
いかなる水もそれを洗い清めることはできなかった。
この果物を食べたい一念で僕らは魂の底まで苦しんだ。
三日間というもの、市場で、それを探し求めた。
が、その季節は終わっていた。
どこにあるのだろう、ナタナエルよ、私たちの旅で、
また別の欲求を引き起こす新しい果物は?」
『地の糧』「第四の書 三」より;二宮正之・訳.
なにか気持ちが悪くなるような、おかしな果物ですが、ある種の性愛に似ているのかもしれません。男女のことはよくわかりませんが、ゲイの性愛にはときどきありそうな気がします。馴れてしまうと気にならなくなるようでもあります。
しかし、このイラスの歌は、こうした特別な・ひねくれた趣向を好きこのんで、わざわざそれを求めているように見えます。
↓つぎは地の文で、つまりイラスでなくジッドの言として書かれている部分ですが、似た趣向が感じられます。もっとも、キノコは毒キノコが多いですから、ジッドが食べなかったのは正解だったでしょうw
「今朝、レ・スルスの道を散歩していた時、奇妙な茸を見つけた。
それは、白い鞘に包まれて、橙色の木蓮の実に似ていて、灰色の規則正しい模様があるのだが、その模様は内部から出てくる胞子状の微粒によってつけられているのだった。割ってみると、中には泥のようなものが一杯に詰まっていて、中心は色の濃いゼリー状になっていた。吐き気をもよおしそうな臭いがするのだった。
この茸の周りにあるもっと開いた形のほかの茸は、古木の幹に見られるような平たく押しつぶした菌性ポリープのようなものでしかなかった。」
『地の糧』「第二の書」より;二宮正之・訳.
↓ふたたび、イラス少年の『石榴(ざくろ)の輪舞の歌』のつづきです:
「木に登って採る果物がある。
塀をめぐらして、他人は入れない庭で、
夏ともなれば日蔭で食べる。
小さなテーブルを設(しつら)えよう。
枝を揺すぶりさえすれば
まわりじゅうに実は落ちるだろう。
そこでうとうとしていたハエも目を覚ますだろう。
実が落ちたら、いくつもの碗に集めよう。
その匂いだけでもう魅力満点だ。
皮が唇に染みをつけるので、ひどく喉の渇いたときにしか食べないのがある。
砂地の道を行ったときに見つけたのだ。
それは棘のある葉を通して光っていた。
採ろうとすると、手を傷つけた。
そのくせぼくらの渇きはあまりおさまらなかった。
〔…〕
果肉のいつでも冷たいものがある、夏でもそうなのだ。
ちいさな飲み屋の奥で
茣蓙(ござ)の上にしゃがみこんで食べるのだ。
思い出しただけで喉の渇くのがある。
見つからないとなると、すぐにそうなのだ。
*
ナタナエル、君に石榴のことを話そうか。
オリエントの市で、二束三文で売っていた。
葦の簀(す)の子の上に山積みになっていたのが崩れたのだ。
埃の中に転がり出たのがあって、
裸の子どもたちが拾い集めていた。
その汁は熟していない木苺のように少し酸っぱい。
花は蝋細工のようだ。
実と同じ色をしている。
秘められた宝、蜂の巣のような仕切り、
風味の豊かさ、
五角形の建築、
皮がはじけ、実の粒が落ちる、
紺青の杯に血の粒が散る。
そしてまた、別の石榴は、琺瑯(ほうろう)びきのブロンズの皿に容れた、金の滴〔しずく〕。」
『地の糧』「第四の書 三」より;二宮正之・訳.
ザクロの花を見たことがあるでしょうか? 「花は蝋細工のようだ。/実と同じ色をしている。」と書いていますが、うまい言い方だと思います。たしかに、蝋細工の質感で、少し硬くて厚い“から”の中に花があります。子どもの頃には、キツネのようだと思ったものです。
そのキツネのようなものが、赤い実をぎっしり詰め込んだ“ふくろ”の先にも付いています。
でも、庭のザクロの樹は、花が咲くだけで、ほとんど実になりません。ザクロの花は、枝にたくさん咲いて、みんなキツネの顔で笑っているし、そのまま地面に落ちてしまっても、やっぱり笑っています。
咲くだけで実らないけど、ずっと笑ってる。笑ったまま死ぬ。――ゲイの友だちにこの話をしたら、にんまりして、ザクロの花が“キツネだ”って言うのはよく解ると言っていました。
その次の最後の連は、ザクロの実の詰まりかた――「五角形の建築」――はじけた実が容器に盛られた形、色の対照について書いています。「紺青の杯」「ほうろうびきのブロンズの皿」――この赤い雫のような粒は、たしかにそういったオリエント風の容器に合うかもしれません。
腐爛した果実の匂いにむせかえる狭い中庭、飲み屋の奥のゴザの上、はだかの子供たちが騒いでいる埃っぽい街頭、――そういった、食べる場所、手に入れる場所の状況も、色、形、匂いに劣らず、快楽の重要な要素なのだと思います。
「皮が唇に染みをつけるので、ひどく喉の渇いたときにしか食べない」実のように、葉に棘があって採りにくく、食べてもほとんど渇きをいやせない、味もない果実にも、イラスは大きな関心を寄せています。そうした実も、感覚の歓びにとっては、それはそれで価値があるのです。ひどく喉が渇いている、棘が手を傷つけるといった状況も快楽の要素です。なぜなら、重要なのは欲求の対象よりも、欲求それ自体だからです。
したがって、ザクロの実のように、ほんのり酸っぱいだけで、味気ない気がする果物も、それはそれで、価値ある快楽の形です。ぞんぶんに甘くて味の濃い桃やバナナのような果実と、対等の価値があるのです。それは果物だけのことではありません。↓下の宴席で、みなが「官能の歓び」と言っているのは、もちろん人間の性愛のことです:
「夜、フィエゾーレの丘の麓にある庭園に〔…〕シミアーヌ、ティティール、メナルク、ナタナエル、エレーヌ、アルシッド、その他数名のものが集まった。
〔…〕
『官能の歓びは、すべて良いものだ』とエリファスが言っていた。『どれも味わわれる必要がある』
『いや、すべてが万人に良いとは言えない』とティビュルが言った。『選択しなくてはいけない。』
〔…〕
そして、シミアーヌはイラスに、
『それは本当に小さな果実でしきりに食べたくなるんです』と言う。
*
イラスは謳いあげた。
――官能のちょっとした歓びというものがある。私たちにとっては、ちょうど、道端でこっそりつまみ食いする小さな果物のようなものだ。酸っぱくて、もっと甘ければよいのに、と思うのだった。」
『地の糧』「第四の書 四」より;二宮正之・訳.
船人(ふなびと)たちの祈り
アドリア海
忙しく夜ふけの時が過ぎてゆく!
月も星も出ない空
われらの旅を見守りたまえ
われらが主の母なるお方!
慌しく時は過ぎ、まぢかにせまる
砂洲と崕(きりぎし):夜ふけの嵐に
傾(かし)いだ船を、聖母よ、
故郷(ふるさと)の港に向けたまえ!
忙しく休みなく時は過ぐ
汝慈(いつく)しみの聖母
主を産みだされたお方
いつかわれらを永久(とこしえ)のやすらぎに導きたまえ!
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