イエスと貧しき人々
親愛なる兄キリストよ、あなたは死んだ
あなたが彼らのために死んだひとびとはいまどこにいるのか?
あなたはすべての罪の苦しみを贖(あがな)って死んだ
あなたの身体(からだ)は聖なる麺麭(パン)となり
司祭と義人たちが日曜ごとにそれをたべる
われらは飢えて彼らの戸口で物乞いをする
あなたの赦(ゆる)しの麺麭はわれらの口にはとどかない
ふとった司祭が満腹したひとびとにそれを取り分けると
彼らは出て行って金を儲け、戦争をやり、人を殺す。
あなたのおかげで天国に行った者など、ひとりもいない。
われら貧しき者はあなたの歩んだ道をあるき
悲惨と恥辱と十字架へと向かう
他のひとびとは夕べの聖餐を終えて家に帰り
焼肉と菓子をそろえて司祭を待ちうける。
キリストよ、兄よ、あなたの苦しみはむだだった――
あなたは腹膨れたひとびとの願いを叶えてやるがよい!
われら飢えた者はあなたに何ひとつ願わない、
ただあなたを愛するのみ:われらのただひとりのあなたなのだから。
説明の必要がないくらいストレートな詩句に、キリスト教徒でない私たちも、ぎょっと立ちすくんでしまいます。
しかし、キリスト教の教義をよく知らない方のために、語句を少し説明しておきましょう……と言っても、ギトンも教会のセミナーなどに出たことはないので、たいしたことは知らないのですが。。。
まず、題名にある「貧しき人々」とは、経済的に貧しいことも無論含みますけれども、それだけでなく、“心貧しき人々”を意味します。新約聖書の原典(ギリシャ語)に遡って解釈すると、「物質的に貧しいだけでなく、世間からも圧迫され失望し、神の助けを必要とし、これにより頼むしか生きて行けない人々」という意味なのだそうです。そして、ヘッセは、自分もその一人だと言うのです。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ 5:3)
聖書の『マタイによる福音書』には、↑このように書かれていて、これは、イエスが“山上の垂訓”の最初に言ったコトバなのです。
つまり、キリスト自身は、清く正しく心豊かな人などどうでもよい。そうした人々は放っておいてもかまわないんだとw。むしろ“心の貧しい人々”をこそ自分は救おうとしているんだ、――と言っているわけです。そして、天国はそうした人々のためにあるのだと、イエスは固く信じていたのです。
「経済的にも肉体的にも精神的にもどうしようもなく、もう死を待つしかないほどに打ちのめされ、絶望して死にかかっている人ということです。そういう人々が幸いである、とイエス様は教えられました。」
「自分は何か欠けていて、本当に生きているという実感が持てずにいる人。人生を空しいものだと考えている人、生きるとは一体どういうことなんだろうかと、心の中に飢え渇くような思いを持っているものは幸いだと言っているのです。天国はそういう人のためにありますと、イエス様は説きました。」
ところが、ヘッセのまわりにある現実のキリスト教会は、イエス・キリストとはまったく正反対のことをしていると言うのです。自他ともに認める「義人」…正義の人びとや、“心豊かな人々”だけが、教会の中で、司祭(牧師あるいは神父)と仲良くやっている。かつてイエスが、この人たちこそ救いたいと思い、十字架に磔にされてまで彼らのために祈った「心貧しき人々」は、教会の外に締め出され、戸口で物乞いをしているのです。そして、“心豊かな人々”が教会から出て来て、外で何をやっているのかと言えば、金儲けと戦争と人殺しだと言うのです。
イエス・キリストの恩恵は、金儲けと人殺しに狂奔する富者たちに独占されてしまっている。イエスが、「天国は彼らのものである」と言った「彼ら」――「心貧しき人々」は、イエスの恩恵を受けることができない。だから、イエスのおかげで天国に行った者など、いまだかつて一人もいない……ということになるわけです。
「聖なるパン」とは、教会(カトリック教会など)でミサの時に配る“聖餅(聖体)”のことです。ウエハースのような薄いせんべいで、これはキリストの身体であると信じられているものです。(ウエハースという英語自体が、英国国教会で聖餅を意味する語なのです)
キリストは、“最後の晩餐”の時に、弟子たちに向って、おまえたちがいま食べているパンは私の身体であり、ブドウ酒は私の血なのだ、と説きました:
「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」(マタイ 26:26-28)
つまり、「聖なるパン」“聖体”を拝領することによって、罪を赦されることになるわけです。なぜ赦されるかというと、キリストが、罪深い人間たちのすべての罪を贖って、十字架の上で血を流し、肉の痛みを受けたからです。
ところが、ヘッセによれば、この“聖体拝領”も、現実のキリスト教会では、“心豊かな人々”だけがこれにあずかり、彼らは出て行って、隣人を陥れて金を儲けたり人を殺したりするので、けっきょく天国には行けません。そして、イエスが救いたいと思っていた“心貧しき人々”は、教会の外で物乞いをするほかはなく、“聖体拝領”にはあずかれないのです。
だから、イエスのおかげで天国に行った者など、一人もいない―――ということになります。
そういうわけで、「キリストよ、兄よ、あなたの苦しみはむだだった」――と言わざるをえないのです。イエスが十字架にかけられて血を流し、「神よ、神よ、なぜわたしを見捨てるのか?」と叫んで苦痛にあえいだことは、まったく無駄になってしまったわけです。
しかし、それでもヘッセは、キリスト教から離れてしまうわけでも、キリストを信じなくなるわけでもありません。「われらはただあなたを愛するのみ、」なぜなら、あなたは、私たちのたったひとりの人なのだから(weil du unser einer bist)。
「私たちのたったひとりの人」とは、どういう意味なのか?‥ギトンの考えをくだくだと書くのはやめておきましょう。読者それぞれに、お考えいただきたいと思います。
↓下の詩は、どうでしょう? 神は死んでいようと生きていようと全知全能である。しかし、すべてを知っておられ、何でもなしうるがゆえに、神はまったく無力だ。全知全能で無力な神が創造し見そなわす世界に、私たちは救われようもなく投げ出されている―――ギトンは、そう理解しました。
「埋葬しつつ」と訳したタイトル“Im Leide”は、標準ドイツ語では「苦しみの中で」という意味ですが、スイス方言では、「葬儀中」という意味があります:
神を埋葬しつつ
暖かい風が吹くたびに
ぶきみな死の響きをとどろかせて
雪崩が頂(いただき)から落ちてくるのは
神が欲するゆえか?
わたしが挨拶を交すこともなく
よそ者として人の世を
くまなく彷徨しなければならないのは
神の御手による業(わざ)か?
宙吊りになってゆれるわたしを
主は辛(つら)い思いでごらんになっているか?
――ああ、神は死んだ!
それでもなおわたしは生(い)くべきか?
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