美しの女神(シェーンハイト)に(An die Schönheit)
あなたの軽やかな御手をぼくらに!
なじんだ母の手から引き離されて
ぼくらは暗闇の隈をめぐり
見知らぬ国をさまよう子どもたち。
ぬばたまの闇からあなたの歌う
妙なる調べ:故郷(ふるさと)の曲(うた)が聞こえてくれば
それは不安なぼくらの行く手を照らし
そっと慰めてくれるのだった。
行き先もなく路もなく
果てしなき夜をさまようぼくら;
慈悲深き女神よ導きたまえ
巨いなるあすの夜明けの迫るまで
―――――――――――
深紅(しんく)の薔薇
ぼくは歌を奏でていた。
おまえはじっと黙っていた。おまえの
右の手には、放心した指のあいだに
血色(ちいろ)に熟した大輪の深紅の薔薇が握られていた。
体験したことのない絢爛たる耀きにみちて
生温かい夏の夜が立ち上がり、ぼくらの上に
まぶしいひかりの扉をひらく
初めての夜を、ぼくらは迎え舐めつくした
それはぼくらの上に乗り、その暗い腕に抱きしめ
放心したように気だるく、そして暑かった――
おまえはおまえの膝の上をそっと払い
深紅の薔薇、その花びらが床に舞った。
高校生か、卒業したての頃だったと思うんですが、いっしょにドイツ語の勉強をしていた友だち――ふたりとも学校の英語はさぼってw勝手にドイツ語なんか習ってました――と、書店の洋書売り場でドイツのファッション雑誌を見ていました。写真ばっかりだから、なんとか読めるんじゃないかってわけです。
そこで面白いことをみつけました。ドイツ語では「美しい」は schön(シェーン) だと日本では習うんですが、ぼくらがふつうに「きれいな女の人」と思うような写真はみな、「シェーン」ではなく「ヒュプシュ」と書いてあるんですね。hübsch(ヒュプシュ) は「小ぎれいな,清潔な」と、独和辞典には書いてあります。
では、雑誌に「シェーン」と書いてあるのはどんな写真かというと、かわいい女の子がニコニコしてるような写真ばっかりです。「美しい」とはちょっと違う。顔の造りのいいのはみな「ヒュプシュ」で、「シェーン」のほうは、「うつくしい」というより「うるわしい」のほうが近いかもしれません。でも、「うるわしい」は古いコトバで、ちょっと今の感覚とは、ずれてますよね?w
少女マンガさながらに、大きな目をきらきらさせてるようなのが「シェーン」なんです。「大きな眼鏡をかけるとシェーンに見える。」という特集のページもありました。ロリっぽい可愛さ、萌える感じ、ドキドキさせる感じが「シェーン」なんだと思います。
男の子で言えば、ジャニーズ系の子役やキッズがまさに「シェーン」ですw
上の詩の題名「シェーンハイト」は「シェーン」の名詞化で、ふつうの意味は「美」とか「美しさ」。でも、英語でもフランス語でもそうですが、「美」とか「幸運」とかいう抽象名詞は、みな神さまの名前でもあります。「死 Deth」と言えば、死神のことです。つまり「シェーンハイト」は、美の女神です。
そこへ、↑上の「シェーン」の話をかぶせますと‥、「美の女神」は、日本語でイメージする「美」よりも受け持ち範囲が広くて、少女やショタに夢中になったり、欲情・快楽を求めて愛し合ったり、芸術や萌え画、“耽美”小説に耽溺したり... といった方面を広く含みますw
ところで、やはり 10代の終りごろから 20歳前後にかけてだと思うんですが、親しい友達と二人で、何時間も、あるいは夜どおし朝までとか、あてもなくぶらぶら歩き回ったことはありませんでしたかね?‥しかも、誰とでもではなく、いつも特定の気の合う一人とです。
女の人には、ショッピングでもないのに何時間もぶらぶら徘徊する性癖はないのかもしれませんが、男ならば、よほどまじめなカタブツか、環境が許さないとかでないかぎり、たいていの人がそういう体験を持っていると思うんです。
日本では、歩き回る場所はふつう都会の中ですが、ドイツでは、山や野原を歩き回るらしいです。ぶらぶらと町を通り過ぎて野原に出て、また次の町へ‥、という感じらしいです。これは、古くからの遍歴職人の伝統と関係があるようです。
男2人と言っても、ふつうはノンケ同士ですから、‥ギトンの場合も、その友だちはノンケでしたから‥、夜通し歩くからと言って、アオカンでセックスとか、抱き合って寝るとか、べつにないんですがw、ゲイ同士なら、やってもおかしくはない。↑上の2つの詩(詩集で、隣りどうしに並んでます)は、そういうヘッセの体験に基いているんじゃないかと思います。
上の2番目の詩、「初夜」って相手は女性だと思いますか?‥いやあ、ぼくはぜったい男どうしだと思いますよw 全体の雰囲気もそうだし、いろんな細部、また、主語を「おまえ」でなく「夜」にしてごまかしている部分とか、これは男どうしなのを、はっきりそうとは判らないように書いてます。
↓下の詩も、そうした“ふたりでワンダーフォーゲル”のテーマです。
ふたつの墓標
はてしなく嶺は波うつ国ざかい
郵便馬車の喇叭がこだまする
人里はなれた峠の杣(そま)のかたわらに
二ふりの白い墓標が立っていた
同じ高さで並ぶ二つの十字の前に立ち
思わず手と手をしっかり握りしめていたぼくら
碑石に記名の文字は無く
みかげは風雨に洗われて白かった。
生きて冠された名も知れず、死の因縁も
並び葬られた謂われも杳として知りえない
ふたりのともがら、ただ永遠(とわ)に
朽ちることなく並び立っていた。
まるでこの峠を越えるぼくらに示された
永遠の標(しるべ)でもあるかのように。
その夜ぼくらは旅籠の小屋裏で
言葉少なに過ごしたあと初めての
顫えるような交わりをもった。彼の
軟い頬と唇は、涙で少し塩からかった。
‥この詩、たしかヘッセの詩で、前に読んだことがあったと思うんですけど、いまインゼル文庫のヘッセ全詩集(と言っても全部は入ってませんw)をいくら探しても見あたらないんですね。
それで、しょうがないから、これはウロ覚えが1割、創作が9割です←
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