ノッキンの振り返りブログ続きです。
では、今回は演出方法的なことについて書きたいと思います。
再演を演出する上での選択肢としては、「大幅にリニューアルする」「初演からのマイナーチェンジ・ブラッシュアップ」のどちらかになるのですが、「大幅にリニューアルする」というのは演出面というより脚本面の話になりますかね。「再演にあたり脚本の改訂をしましたがほぼ全編書き直したのでこれはもう新作です」という言葉をよく耳にすることがありますが、まあ、それはあり得ないですね。仕掛けや主な登場人物、そもそもログラインが同じなので道中が結構変わっていたとしても新作ではない。ログラインというのはそのストーリーを端的に表すもの、ノッキンなら「妻(夫)を失い、やる気や人と深く関わることを避けてきた探偵が、依頼人たちやその他周りの人たちに巻き込まれ、徐々にやる気や人との関わりを取り戻す話」というものですね。これが変わるとしたらそれはもう再演ではなく、本当に新作。同じタイトルにするべきではないでしょう。
話が逸れました。ノッキンは、ストーリーの仕掛けや伏線などに面白い部分もあるのですが、やはり人間関係や心情に本当の面白みがあると思っておりますので、演出を変えるというよりは、キャストが変わったことで心情表現や受け方も変わってくるので、その辺りをうまく反映させたいなという部分が強かったこともあり、演出の仕掛け的には基本、奇をてらったり大きく変更をしないようにしようと思い挑みました。そういう部分を前面に出してしまうと、演出が前に出てしまうといいますか。OPやお笑い要素などはその辺りに影響しないので変えていきましたが。
ボブジャックの作品、といいますか守山の脚本は群像劇になっていることが多く、ある一つの事象についてグイグイ引っ張っていくタイプのものではなく、色んな人々の話がそれぞれ別々に進行して、最後にちょっと交わったり交わらなかったりという物語がほとんどです。例えば、ある作品で場面や場所、そこに出ている人物が変わったとしても大きく言えばAという事柄に関連することでシーンが進められるというものではなく、Aの事柄の話をしていたら、次のシーンでは別の場所、別の人たちがBの事柄について話すみたいな感じですね。AとBに関連性はなく、あくまで別の話。でもゆくゆくはちょっと関わってたり。なので、どうしても話がブツ切れになってしまうことが多い。演出する上で一番気を使っていることは、このブツ切れ感をなくし、全く別の話が乱立しているのに、繋がっているかのようなグルーヴ感を出すということです。うちの作品が、シーンのカットインやカットアウト、暗転が少ないのはそのためです。抜き稽古でも、必ず前のシーンの最後のセリフを私が読んでから行うようにしておりました。Aチームはベテランの方達が多かったというのもあり、その辺の理解度が早く、結構早い段階からグルーヴ感が出ておりました。Bチームも出ていなかったわけではないのですが、Aチームの通しを観たBチームのみんなが「Aチームのグルーヴ感がすごかった」と理解してくれ、グルーヴ感を出すための細かいシーン繋ぎの稽古もしたりしましたね。男女反転の良いところは、ダブルキャストの相手チームの人と性別も違うので、相手チームを見ても変に影響されないというところ。そのため、相手チームを見ても作品全体の流れやクオリティに目が行くところですね。とてもいい流れで稽古をすることができました。
正直、普段ダブルキャスト公演の時には、「こっちのチームの方が良いな」と思うことがほとんどです。一部ダブルなんかの場合にはそれが顕著ですね。やはりダブルキャストの人たちの出来不出来にもろに影響されてしまうので。しかし、今回に関しては、稽古終盤ではABどっちの方が良いのか?という考えには全く至りませんでした。笑えるポイントも違えばネタの質も違うし、感動するポイントも違う。日によって感情移入してしまうキャラクターも違う。稽古を見ていても本当に楽しかったんです。男女反転ダブルキャスト、大変だけどやっぱり面白いなあと日々実感しておりました。
あと、演出面でみんなによく言っていたのが「プランが見えない芝居をしてほしい」というものでした。あくまで感情的なシーンに限りですが。ノッキンのもう一つの特徴としては、いわゆる「心情を吐露するシーン」が多いこと、それが立て続けに起こるという部分です。そこで、ここで感情を爆発させ、ここのセリフを大声で相手にぶつけ…みたいなプランの見える芝居をされると、まあ、これも私の感覚なのでわかりにくいお話かもしれませんが「ハイハイ、そうですね。大変ですね」と冷めた気持ちになってしまうのです。だからプランが見えるお芝居をして欲しくない。もちろんプランが全くないとお芝居はできません。プランはあるべきです。ムムム、ちょっとわかりにくいですかね。例えば、地図でいうと、「出発点」があって「中継点」がいくつかあって、そこを通って「目的地」にたどり着くわけですが、そのそれぞれの「点」を繋いでいる「道」を見せて欲しくないといいますか…。さっきの大声で相手にセリフをぶつけるというのが道ですね。ある中継点を通った時に感情が上がって、相手に大声でセリフをぶつけるという行為に出るというのを「ありき」ではなく「結果」でやってほしいのです。「点」は決まってるんです。だってそういう風に書かれていますから、脚本に。でも道は選べる。というかその時その時に選んでほしい。ある中継点を通った結果、その日は思わず大きな声でセリフをぶつけてしまうことがあったり、まだまだ抑えてセリフを言ってしまうことがあっていいと。大声でセリフをぶつける時も、それが本当に大声だったり、大声だけどまだ何かを抑えているような言い方になったり、むしろブレてほしい。これがないと「あ、今感情上げようとした」という一瞬の構えが見えてしまう。とても大変なことなんですけどね。まあ、この辺りは演出家の好みだと思いますが。最初は若干戸惑っている役者たちもいましたが、最終的にはみなさん素晴らしい演技を見せてくれたと思います。松木わかはちゃんは、本当に毎回違う道を通って目的地にたどり着いてましたね。自分で指示しておいてなんですが、すごいと思いました笑。あ、受ける側は完全にではないですがそこそこプランニングが必要です。ぶつける側の話ですね。
あともう一つ。基本、初演と同じ流れにしたのですが、一個だけ大きな変更点も作りました。ラストシーンの天国探偵社に「楓」が出てくる部分です。初演ではなかった要素ですね。初演の時もそのプランは話に出たのですが、守山と相談して「ちょっと野暮かな」とカットした部分です。ノッキンはあくまで「国生・久仁子」のお話。なのでそれに関わってくる「楓」や「雪華・雪斗」のお話は最後まで描くべきではないと。「依頼の最後の最後の部分まで探偵は関わるべきではない」というのが国生・久仁子の探偵美学だからです。なので後日談で触れるべきなのは国生・久仁子だけの方が良い。群像劇なので観るお客様の感情移入のポイントが異なってくると思いますので、依頼人たちのその後を見たい!というご意見ももっともだと思うのですが、あとはご想像にお任せしますが逆にスッキリするのかなと。ただ、今回は再演ということもあったので、多少「こういう未来もありますよ」を提示しても良いのかなと思い、追加してみました。「想像力を奪われた!」というお客様がいらしたら申し訳ございません。少し明るくなった楓が見たかったもので。ちなみに皆様のご想像にお任せしますは、ラストのラスト、依頼人たちがそれぞれ3つの扉を開けて入ってくるところにも仕込まれています。バックライトにして入ってくる人たちをシルエットにしたのですが(まあ、舞台なのでどうしても人物の顔は少し見えてしまいますが)、シルエットを雪華・雪斗たちとみなすと「もしかしたらいなくなった幹也・幹を探してほしい」という依頼で再び天国探偵社を訪れたのではないか?とか空想できますし、シルエットを全くの別人とみなせば「ああ、また不思議な問題を抱えた依頼人たちがやってきたぞ。さてさて、どうする?天国探偵社」と空想できます。先ほども言及しましたが、おそらく感情移入して見ていたところによってお客様の中で受け取り方が異なってくるかと思います。物語・舞台は終わっても登場人物たちの人生は続いていく、その物語はお客様の中で綴って欲しかったのです。なので、みなさん、たくさん空想してくださいね笑。
では、今日はこの辺で。