お盆休みに東北に災害ボランティアに行きたいなと考えているところですが、初盆ということで静かに過ごしたい
という地元の方々のお気持ちを尊重すべきとの考えから、VCもお休みになるそうです。

 

そうなると、お盆を挟んだ職場の夏季休業期間をフルに活用することは難しそうです。

 

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現地の状況は、長期にわたってボランティア活動されている方々や毎週末の度に現地に活動に出かけている方々の情報発信などで、メディアが伝えていない情報をつかむことができます。

 

それらの情報によれば、手助けを必要としている地域は今も残っており、しかも、地域格差が広がったり、あるいは、次の段階での手助けを必要としている状況が生じてきているようです。

 

ここで、自分が活動に参加できる条件(特に日程や場所)において、自分がどの程度役立てるのか?が気になります。

 

同じ時間や労力を使うとしても、できる限り意味のあることに使いたいと思ってしまうからです。

 

しかし、それは「自分自身の満足度をいかに高めるか?」というある種自分勝手な考え方のようにも思われます。
そうではなくて、どんな場面でもどんな内容でも手助けができる対応力を持つことを良しとするのが望ましい姿なのではないか?などと思ったりしています。

 

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もうひとつ気になることがあります。

 

それは、GWに都民ボランティアに参加したときに、自分自身疑問に感じたこととして「ボランティアとはいったい何か?いかにあるべきか?」ということについて、もう少し考えを深めるべきではないかということ。

 

そのうえで、自分が一人の市民として、少しでも世の中に役に立つために何をすべきかを判断しなくてはならないのではないか?

 

それは、現地に出向いて何かの手助けをすることかもしれないし、あるいはまた、もっと全く別の場所ややり方で、何かの活動に従事することが被災された方々や地域社会のためになるかもしれません。
あるいは、再び同じような大規模な自然災害が発生したときの地域社会としての備えになるかもしれません。

 

被災直後からの多くの人々の尽力により、緊急の手助けが必要とする状況は主だった部分は解消したとするならば、体を使う作業とは少し異なるものがよい大きな意義をもってくるような気もします。

 

たとえば、国のリーダーでありながら茶番劇を演じ迷走しているおバ●な方々に早期に退いてもらうとともに、新しいリーダーの下で制度疲労あるいは制度老朽化したものを見直し、よりより姿を再建するための活動などに一市民の立場で取り組むことが必要なのではないか?

 

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GW以降に少しづつ読んでいる本があります。

 

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自分自身、書かれている内容を瞬時に理解するレベルには程遠いため、時間をかけていろいろなことを考えながら読み進める必要があります。

 

その中で、いままで漠然とした疑問や違和感として感じていたことの対象がだんだんと見えてきました。

 

日本ではボランティアに関する、用語・概念の整理・体系化などが発展途上である。

つまり、

 

「ボランティアとはこれこれこういうものだから、この点はこうあるべきだ」

 

「いいや、むしろこういうものだから、そこはこちらの対応が適切である」

 

などという意見や疑問がいろいろ浮上してきた時に、判断の道筋を示すような全体を包括するような上位概念あるいは体系的な考え方のようなものが十分に確立してはいないたに、例えば、納得性の高いQ&Aなどをつくることができない。

 

そのため、答えは自分自信で見つけ出すしかない?

 

そんな気がしています。

 

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考えてみれば、多くの有識者が指摘してきたように、我国は「ものごとをはっきりさせる」ことを必ずしも良しとしない文化が深く根を下ろしているのだろうと思います。

 

おそらくそれは、「全員が同じ仲間」という意識を持ちやすい条件にあることと関係しているように思われます。
「全員が同じ仲間」であるからこそ、白黒をはっきりさせるより、その場その場の上下関係や力関係に依存して結論を変えられる余地を残しておいた方が、長い目で見て社会の安定化に貢献する。

 

そういうものがあるから、学術領域でも「定義」がさほど重要視されず、論理的な不整合もさほど問題視されない。

 

だからそうではない諸外国と議論になると劣勢になることが多く、自分なりの正論について堂々と主張を展開することが苦手。

 

ゆえに「ボランティア」についても、矛盾や違和感を感じるような方針や判断が特に問題視されることもなく、したがって淘汰されることもなく、存在している。

 

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ボランティアの現場で耳にする

 

「ボランティアなんだからそこまでしなくともよい」

これは、報酬を伴う労働契約との対比が前提の意識の中にあるのではないか?
労働契約の中では確定されるはずの責任や権利・義務範囲などがボランティア活動においては、自発的かつ無報酬であることと引き換えに不確定的あるいは任意であるということなのではないか?

 

本当にそれが正しいのか?ボランティアとはそもそも何なのか?

 

それを考えるヒントを見つけました。

 

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段差を上手に越えられずにカートを倒してしまった少年。
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おまえは誰だ!とキャプテン・ミフネに怒鳴られ、
18歳と年齢を偽ったことを見破られる。
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志願兵であり未熟でも敵と戦いたいと訴える少年
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ここでの「ボランティア」は志願兵の意味であり、現在の「ボランティア」とは意味が完全に区別されているとは思います。

 

しかしながら、現代において「ボランティア」とかなり強い結びつきをもち、不可分のようにセットになっている「無報酬」という考え方は、語源としての「ボランティア」には本来的にセットにはなっていなかったものなのではないか?

 

思うに、語源的な意味から辿れば、無報酬であろうがなかろうが、本来的に「ボランティア」の定義には関係がないのではないか?

 

そして、無報酬であっても、前提となる約束(あるいは誓約のようなもの)がある場合、責任や義務が発生することもごく自然なのではないか?

 

上記の映画のワンシーンで想起することは、

 

志願兵は、徴兵や傭兵などと比較して、高い士気を有するのが当然
 
要求されるのは、安易な妥協とはむしろ真逆の誇りや責任なのではないか?

では、

 

「ボランティアなんだからそこまでしなくともよい」

というのは、いったい何のか?

 

もしかすると、単なる意志薄弱とは別の理由で「継続性」を確保することが困難になった現代の諸事情下で、それでもなんとか「継続性」を確保するための、変容なのではないか?

 

それは、かつて「学校」というものが、「指導する価値」を認められない生徒を退学処分にしたのに対して、現在では「金を払う客としての価値」の方が優先され、力関係が逆転していることと似ていないか?



 

引き続き考えていきたいと思います。