愛あるみなさま、こんにちは❣️
サトヒです

なんだかここのところ、ちょっとだけセンチメンタリズムでして…
まず、涙腺が緩いw
すぐ涙目になりますw
(常時潤んでたら、女性性高まりそうね)
そんな中、Iphoneにワイヤレスのイヤホンを接続した時、携帯に入っている音楽が勝手に再生されて
それが、宇多田ヒカルの「Beautiful World」のアコースティック版だったのでした
この曲は、かの有名なエヴァンゲリオンの新劇場版「破」のエンディングソングで、懐かしくなりYoutubeでオリジナル版を探して聞いてみました(オリジナルは序のエンディングでしたね)
そのYoutubeがこちらなのですが…
登場人物や劇中の場面が使われた秀逸なMVで、「こんな場面あったわ~」という懐かしさと共に、当時の感情がなぜか激しく蘇ってきました

私がエヴァンゲリオンを知ったのは、オリジナルの放送の途中くらいで(1996年頃かな)、ちゃんと見たのは夜中の再放送でした
思春期特有のこじれた感情を、もろに登場人物に投影して、それはそれはハマったのを覚えています

その感情は30代前半まで続いて(長いw)、登場人物の14歳たちに自分を重ねて、胸のヒリヒリを感じながら見ていましたね~
で、この動画を見ながら、その当時の感情を思い出して、どうしてこうも、自分がこのアニメに心惹かれたのか、ということを考えてみました

それぞれの登場人物の悩みや葛藤が、自分の悩みや葛藤の様々な側面を表していて
どの登場人物の気持ちも全部はわからないけど、それぞれに共通するものを感じる、という感覚があったのですが
彼らはそれぞれに親との関係で心に傷を持っていて、その傷のせいでうまく人に心を開けずにいました
ヤマアラシのジレンマなんて話も出てきたような気がしますが
寂しさによって人とのつながりを求めているのに、近づいた時にまた傷つくのが怖くて、どうしてもうまく心を開けずに、孤独の中に閉じこもってしまう
そんな子どもたちが、わけもわからず外からやってくる敵と戦いながら、自分の心の闇と対峙する
まぁ、その闇との向き合い方がお互いに絡まって、それぞれにぐっちゃぐちゃなんですけどねw
今回改めて考えてみたら、私が彼らを通して見ていたのは、絶対的な孤独や寂しさだったような気がしました
私の中にある、孤独や寂しさが共鳴しているのだな、と
そこで、「あ、私今寂しいんだ!」と気付いたのです





夫が今、仕事の関係で平日不在なのですが、自分では全然寂しくないと思っていたんですww
ちょっと生活に変化がでるので、どう楽しもうかしら~なんて考える余裕もあったのにw
でも、元々がすごく寂しがりやなので、やっぱり寂しいみたいです

どうやら、それに自覚がなかったみたいで。
それに加えて、やはり3月は別れの季節で
お世話になっていた、保育園の先生たちが退職や異動になってしまったり
やはり、生き別れも死に別れも、別れはいつだって切なくて寂しいものです…

私は、結婚するまでずっと寂しくて、恋愛中は寂しさに振り回されまくっていたんですね

そんな自分をダメだと否定していたので、一人でも平気にならなくちゃと、自分にムチ打って自立を目指しすぎて、自分の寂しさを無視していた時期が長かったのですが
無視したって無くならないのが感情ですよね??ですよね???
本当はずーーーーーーーーーっと、寂しかったのです。
で、その寂しさも、結婚して夫がいつも同じところに帰ってくるようになったり、子どもという常に自分を求めてくれる存在が側にいてくれるようになって
私は、自分の中の寂しさに触れる機会がなくなっていました(贅沢にも、たまには一人になりたいわ~なんて思うほどに)
そんな状況を、私は自分が寂しがり屋でなくなったのだと勘違いしていたのですが
寂しさって、絶対に無くならないものだと気がついてしまった今朝
キッカケはエヴァンゲリオンっていうww
やっぱり、人は見たいものを見ているんだなぁと、改めて感じていたところだったのですが
そもそも、全ての物事は様々な要素を同時に含んでいて
世界は、自分がどの側面に焦点を合わせているかで見え方が決まっているだけなんですよね
光あるところに影ができるように、何かが存在すれば、必ずその対極が生まれるのがこの世界で
私が思うに、孤独や寂しさは、人とのつながりの対極にあって
この世に自分以外の人間が存在する限り、その対極として存在し続けるものだと思うのです
ただ、自分の見ている部分によって、感じ方が変わっているだけ
ずっと寂しかった私は結婚したいと望み、願ったものを手に入れた結果、私は自分の寂しさと決別できた気がしていたけれど
それはただ、そこに焦点を当てずに済むようになっただけだったんだなあ、と
もちろん、結婚したことだけで寂しさがなくなったわけではなく、自分と向き合う中で、自分の孤独感を理解し、自分との付き合い方がうまくなってきた、という理由もあると思いますが
結局のところ、自分の視点の問題でしかないなら
「あぁ、そうか、すぐに私は寂しさに焦点を当てていたあの頃に戻ってしまうこともあるのか」
ということにも、気が付いてしまい、ちょっと怖くなってしまったのでした
でも、それは逆に言えば、いつだって視点は自分で選べるということでもあって
昔の私は、いじけた心で寂しさの方にばかり焦点を当て過ぎていて、あえてつながりや愛を感じないように心を閉ざしていたようにも思えるのです
だけど本当は、寂しさを感じていた当時から、ちゃんと人とのつながりも、愛もそこにあったわけで
私はそっちを見ないようにして、自ら選んで孤独感や寂しい気持ちばかりに目を向け続けていたのだな、と思いました
それはおそらく、十分に満たされなかった幼少期の愛への渇望から来る、私の思考パターンであったのですが(どうせ私には手に入らないと、心がひねくれてしまったのでしょう)
こうやって、客観的に自分の抱える寂しさを捉え直してみたら、孤独や寂しさを選ぶのも、つながりや愛を選ぶのも、結局は自分次第なんだなと感じました
そう、結局は自分次第なのです
もちろん、孤独や寂しさという感情も、たまにはいいものだと思うのです
それがあるからこそ、その対極にある愛やつながりに気付き、感謝できる部分もあるからです

でも、やっぱり私はあの寂しさの沼で溺れていたあの頃には、あんまり戻りたくないなぁと思いました

だって、寂しがりやだからw
でも、だからこそ、私は家族や友人、そして仲間の存在に救われるし、彼らが私と関わってくれることを、奇跡だと思えるのです

生きている限り、私の抱える寂しさが顔を出すタイミングは、これからも何度もあるのだと思いますが
そういう時は、無理にその寂しさを忘れたり、無いものにしようとするのではなくて
私と関わってくれる全ての存在と、その愛とつながりの方に焦点を合わせて、感謝できる自分でありたいと思ったのでした

エヴァ、また見たくなっちゃったな。
桜流しも、良い歌です(これも聞いて涙目)
ではまた
