今日は2名の友人(親友)ガールズと話をした。
仕事やその他、うまく行っていたりそうじゃなかったり。。
やっぱりとにかく話すだけでも他人と話すのは勉強になります。
ところで、この友人に限ったことじゃないのですが
私が一度仕事をストップする的な話をすると、
友人や他私の周りの人が「実は私も云々」という話をしてくれることが多々起こった。
というか起こっている。
やっぱりみんないろいろあるんですよね。
詳しくは書きませんが、、
よかれと思ってつき進んだらそうじゃなかったっぽいとか、
とりあえずということでやってみたらなんか間違えたっぽいけどもう引き返せなかったり
なんだか自分では選択肢が作れなかったり。。
うーーーーーーーん・・・・。
でも、正解ってないし、
というか選んで進んでみたらそれがすなわち事実というか正解になっちゃうんだろうな。
不正解だったって言いたくないからね。
でも、その選択をしたのが自分自身の意思だ!ということなら
その選択がどれであっても、その決断や判断自体を恥じることはないと思います。
私はみんなが話してくれる本音の部分を、
忘れずに記憶にとどめたいと思います。
この記事を書いててなんとなく自由という言葉を思い出した。
イマヌエル・カント氏のお言葉であります。
カントは、デカルトと同じく「人間にはふたつの面がある」と考えた。
しかし、そのいっぽうで、感覚的な存在としての私達が何を感じ取るかは、自分では決められないとも考えた。
感覚は、苦しさもつらさも、どうしようもなくつれてきて、望もうと望むまいと私達にそれを押しつける。
しかし、私達は感覚的存在であるだけではない。もういっぽうで理性的存在でもあるのだ。
しかし、理性的存在としての私達は「世界そのもの」、つまり私達の感覚から独立した世界の一員なのだ。
私達は、実践理性にしたがって道徳上正しい選択ができたときだけ、自由でいられる。
例えば、「ほかの人にズルはいけない、と言っているのは自分か、自分のなかのなにか」と感じたとき、
たとえ自分の損になってもズルはよそうと自分で決めたのなら、その人は間違いなく自由意志で行動したのだ。
ということで、
感覚的に生きないためにとりあえず生活リズムを決めよう。
自由意思による緊縛☆
そうそう、前に面談してもらったとき、上司に言われたのは
「~べき」じゃなくって「~したい」って言いなおしてみなよ。
・朝は7時に起床
・新聞1社+WEBニュース を読む
・朝食をとる
・体操&軽く運動
・机に向かう(読書orノート)
・昼をとる
・机に向かう(読書orノート)
・ジム?
・夕食をとる
という基本行動を頭において、予定を入れながら
外出して用事をすませたり・友人や未知の方と会うなどしていこう。
