3年半前、初めてこの美術館を訪れたとき。
私はその自然光の射し込む白い空間に魅了され、数枚の睡蓮の絵の前で、圧倒的な静けさとともにどれほどかもわからない時間を過ごした。
以後あの睡蓮の部屋を思い出すにつけ、直島のきらきらした海景とともに、午後のまどろみに溶け込むような、穏やかな感覚がよみがえってきた。
3年後、ようやく再訪がかなった2016年の秋。
3年という短くて長い時間を経て、この美術館に、その部屋に再び足を踏み入れた自分が何を感じるのか。
見当のつかないその答えを求めて、直島の自然に沿い、地中に埋没されたコンクリート群のなかへ。
今回は、瀬戸内国際芸術祭②として、地中美術館をご紹介させてください…*
(直島のその他のアートについての記事「瀬戸内国際芸術祭2016① ―直島」はこちら*)
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地中美術館は、安藤忠雄氏の設計により、直島の自然の中にその体のほとんどをうずめる形で、2004年に設立された。
コレクションを擁する、というよりは、建築空間と作品とが共生する、大規模な恒久展示作品が美術館を形成している、と言ったほうがいいかもしれない。
チケットセンターそばから、地中美術館の敷地入口までには、モネのジヴェルニーの庭をイメージした庭園が続く(チケットの予約や当日整理券等については公式サイトをご確認ください)。
睡蓮の池もあり、周囲の空気は穏やか。植物は、実際にモネの庭に咲いている種類を集めているのだそう!
その脇の小道を歩いていくと、地中美術館の入り口に到達。
この先の敷地内、館内はすべて撮影禁止となる(カメラは鞄にしまうよう指示がある)。
少し坂を上ると、安藤建築らしいコンクリートが左右に高くそびえるアプローチが現れ、その切れ目からのぞく空は、斜めにカッティングされたように、とても新鮮に映る。
ここから、地中に埋没された建物に足を踏み入れていく。
…とはいっても、館内を歩いていると終始あちこちに自然光が差し込んでおり、地下空間にいることをあまり感じない。
順路に沿い、スロープを下ったり、頭上の空を見上げたり、箱庭のような空間に敷き詰められた石や植物に引き込まれたり、歩いているだけで常に新鮮ないくつもの空間や通路を進む。
そして、それぞれにまったく別の時間が流れているような気さえする、複数の恒久展示作品と出会うことになる。
最初に訪れたのは、あの部屋。
●クロード・モネの部屋
クロード・モネ「睡蓮の池」(1915-26年)、「睡蓮-草の茂み」(1914-17年)、「睡蓮」(1914-17年)、「睡蓮の池」(1917-19年)、「睡蓮-柳の反映」(1916-19年)すべて地中美術館蔵
3年前に訪れてから、ずっと忘れられなかった部屋。靴を脱いで、いよいよ、その空間に足を踏み入れる。
まず目に入るタイルの床。少し視線を上げると見える白い壁。四角い部屋の壁にかかった5点の大きな睡蓮の連作が視界に入ると同時に感じる、自然光の柔らかな光。
―こんな風だった?
3年越しで訪れた私の最初の感想は、この一文だった。
人の記憶とは至極曖昧なもので、あんなにも感銘を受けたはずのこの空間でさえ、私の記憶の中のそれとは思った以上に異なっていた。
ただ、誤解のないように言うと、それは決して悪いほうに異なっていたわけではない。
記憶の中では燦々と降り注ぐ陽光を思い描いていたが、その光はもっと柔らかく控えめで、より自然で、現実的だった。
もっと「真っ白」な光景を思い描いていた内装は、床のタイルはより幅のあるニュアンスを湛えたカラーで、作品を邪魔しない、ほどよい調和を見せる色味だった。
それは記憶が違っていたのか、私の捉え方・感じ方が変わったのか、理由は定かではない。けれど、ただこの空間に再訪できたことの嬉しさと、穏やかに流れる時間の心地よさは思い出の通りでもあり、変わっていないところでもあった。
モネの睡蓮の連作は、晩年にかけて抽象表現に近づいていく。ここにある5作の睡蓮も、それに近い作品だ。
画面の切り取り方、池を見下ろす角度、描かれた時刻、光の当たり方、奥行の表し方。静かな水面と、絡み合う水草の勢い、そしてもちろんその色使い(そう、水草の表現はなかなかダイナミックなものが多い)。
近くで観たり、離れて観たり、じっとみつめたり、他の作品と比べてみたり。
前回はただただこの空間に感激して、作品ひとつひとつというよりは、空間そのものを楽しむことに終始した部分があったけれど、今回は、空間を楽しむのはもちろんのこと、作品それぞれともしっかり対峙できた気がする。
この部屋で一番好きな作品はどれ?という話が出て、少し考える。
私の選んだ1枚は、こちら。
クロード・モネ「睡蓮-柳の反映」(1916-19年、地中美術館蔵)
展示されている作品のなかでは割とおとなしめな作品だけれど、タイトル通り、柳が水面に映り込んだ左側のリアリティと、幻想的とさえ思える右側の睡蓮との対比にはっとさせられる
(映り込んだ柳が水中の水草にも見えるのがまた面白い)。
同時に、この部屋の睡蓮の作品は、範囲の切り取り方や描いた時刻はもとより、作者の池を見つめる(見下ろす)角度がそれぞれに違っていることが楽しい。
この作品は、割と高めの位置から遠くまで見渡すような視点で描かれている。手前から遠景に連なる奥行が、この平面の画面にさらりと出現しているのが、個人的には一番印象的だった。
…さて、こうして何時間でも滞在できてしまう空間だが、そうもいかないので次の部屋へ移る。
そこでもまた、以前と異なる感覚が待っていた。
- ●ウォルター・デ・マリア「タイム/タイムレス/ノー・タイム」(2004年)
巨大な古代神殿のような空間を最大限に活かした作品。
自然光の射し込む明るく広い空間は、入り口から奥にかけて階段が続く。途中の踊り場のセンターにはダークトーンの球体が置かれ、壁沿いには金色のバーが左右対称に複数配置されている。
その、静謐で厳か、ピンと張りつめた空気感にまず、はっと息をのむ。
広い空間に段が連なり、物体が整然と置かれた、至極シンプルな空間。けれど、一段階段を上るごとに、心は静まり、背筋が伸びていく。
実は、3年前この作品を鑑賞した際、私はこの作品のスケールには圧倒されたものの、強く心を動かされたとまでは言えなかった。
…けれど、今回の鑑賞では、まるで感覚が違っていた。
まず足を踏み入れた時、さきほどのモネの睡蓮の部屋とは逆に、私の記憶のなかの作品像や光景と実物は、ほぼ大差なく一致していた。
「…あぁ、この光景だ」
純粋にそう思った。
けれど、階段を一段、また一段と上るにつれ、記憶とは全く違った感覚に包まれていった。自分の足音、球体とバー、差し込む光、思い思いの場所で立ち止まる鑑賞者たち。
自分の体に入り込む感覚全てが、徐々に研ぎ澄まされていく。
階段の最上段に到達し振り向くと、そこには圧倒的な静けさと、厳かで神聖、永遠に続くかのような穏やかさがあった。
最上段に腰掛け、空間を見下ろす。ピンとした空気でありながら、心地よい。日々の煩雑な思いが一掃されていくよう。この感覚は、3年前の自分には無かったものだ。
この作品との向き合い方がわからなかった3年前。
その時の自分は何かが欠けていたのか、逆にいま持ち合わせていないものを抱えていたのか。何かを失ったり得たりしたからではなく、単純に作品の捉え方や趣向が変わったのか。
「その時々で受け取り方が変わる」ことが、この作品に限らず、美術と接する上での面白味だと改めて実感する(逆に、「いつ観ても変わらない面白味」もある)。
次訪れたら、またその時にはこの作品の捉え方が変わっているのだろうか。
そんなことを思いながら、次の作品へ。
●ジェームズ・タレル
「アフラム、ペール・ブルー」1968年、「オープン・フィールド」2000年、「オープン・スカイ」2004年
近年大人気のタレル作品!
昨秋訪れた越後妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭でも、彼の手掛けた「光の館」の切り取られた空と光を活かした巧妙な世界にどっぷり浸かったものだった(記事はこちら)。
「光の館」は宿泊も可能な和モダンな建物の中で、部屋の中に寝そべって、天井の四角い穴から見える空(天井は開閉式で、宿泊者が開け閉めする)を眺めたわけだが、地中美術館の「オープン・スカイ」は、そういった居住空間の延長とはまた違い、美術館のシンプルかつ開放的な空間で、四角く切り取られた空を眺めることになる。
同じ空であっても、周りの環境だけで、見え方は激変する(もちろん、その日の天候や時刻も大きく関係する)。
今回眺めた空はどこまでも透き通るよう。晴天だったこともあり、とてもポジティブなエネルギーが湧いてくる気がした。
…そして、タレル作品の中でも、中毒性と言えばいいのだろうか、そんな強烈な印象と体験を与えてくれる作品が「オープン・フィールド」だ。
係の方に案内されて、数段の階段を上り、その先にある空間に足を踏み入れる。しかし、この空間の入り口は、パッと見はまるで平面のよう。
光の加減か目の錯覚か、パラレルワールドか何かに足を踏み入れるような感覚を覚える。
空間の中に入ると、何色とも、どんなテクスチャーとも形容しがたい空間が広がる。両サイドの壁も、部屋の奥がどこまでかもすべてが曖昧になり、空間の把握ができなくなっていく。
これはきっと、私がここでどんなに言葉を並べても、体験しないと伝わらない。部屋から出ても、しばらく足元がおぼつかないような、余韻が抜けないような作品だ。
すべての作品を観終えたら、館内の「地中カフェ」で一休みといきたいところだったけれど、この日はまだ予定が詰まっていたためそうもいかない(このあと訪れた他の直島の作品等についてはこちら)。
…日本各地で出会うことのできる安藤建築。それは博物館だったり、美術館だったり、教会だったりとその形態はさまざまだ。
けれど、次々現れる空間や、通路・廊下の一本一本、そこに差し込む光、そこから見上げる空や天井など、この地中美術館には特に強く五感を刺激される。
同館にいる間、私は常に「光」をどこかしらの器官で感じていたが、それを地下空間で感じられることがやはり面白い。
また、恒久作品が主のため「いろいろな展覧会を楽しめる」というわけではないけれど、同じ作品が「いつもそこにある」ということは、思っていた以上に重要なことなのかもしれない。
―いつ訪れるか、どんな境遇で訪れるか、誰と訪れるか。
そういった要因で見えかたが「変わる」。もちろん、それはタイミングや状況によって、いつ来ても「変わらない」ということもあるかもしれない。
「変わること」、「変わらないこと」。
そのどちらも、感慨深かったり、愉しかったり、嬉しかったり、時に切なかったりする。どちらの側面を楽しめるかは、きっと訪れる人やタイミング次第で変わっていく。
私は今回、「変わること」を楽しめた部分が大きかった。けれど、数年後訪れたら、どう感じるかはわからない。それを楽しみに、また訪れたいと切に思う。
濃厚で、新鮮で、きらきらした、そんな時間をまた過ごしたい。そう心に決めて、美術館をあとにした。
…さて、次回は瀬戸内国際芸術祭'16③として、2日目午前中に訪れた、日本人なら誰もが知っているある”伝説”に纏わる島をご紹介させてください♪
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いつも、美術館めぐり―Artripをご覧頂き、有難うございます♩
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