駅に着いたら、駅前の広場で、なんだか分からないけどクリスマスのイベントをやっていた。
人はそれほど集まっていなくて、進行役の女性の声が、乾いた空気を通してやけに響いていた。
家にたどり着くまでの間、
クリスマスが、365日の中の1日になったのはいつのことだろう…と考えていた。
小さい頃は家でパーティをしてたな。
少なくとも実家にいた高校生までは、クリスマスケーキは食べていた。
プレゼントは、小学校高学年の時に辞退するまでは確かに貰っていた。
(クリスマス、お正月、誕生日とイベントが続いたので、
少しでも親の負担を減らすために、お年玉以外は貰わないようにしていた。)
働き始めてからは、普通に仕事があったから、特に何もしなかった気がする。
でも、友達と集まってケーキは食べた時もあったかも。
恋人とクリスマスイブを過ごす、ということも今までなかったから、
クリスマスに1人はさみしい、という意識も全然ないし。
彼氏がいたこともあったけど、相手が外国人の場合は「家族と過ごす日」だから、大抵彼らは帰国していて。
一緒に行こうと誘われても、仕事を休むことはできないし、
逆に私にとって家族と過ごす日であるお正月を、日本で過ごせないのも嫌だったし。
でも、決定的なのは、数年前にクリスマスのミサに出てから。
私の友達はカトリックで、四谷にある教会の信徒さん。
結構大きな教会で、クリスマスの時期にはニュースで取り上げられたりすることもあるところ。
クリスマス・ミサに出てみたくて、1度、彼女にお願いをしたことがあった。
せっかくだから、イブのミサに出ようかと予定をしていたけれど、
仕事が終わらなくて、翌日が土曜日だったこともあり、クリスマスの朝のミサに出席した。
後から聞いた話だと、彼女は本当はイブのミサには出席したくなかったのだそう。
彼女はもう60歳を超えていて、何十年も信徒でいる方。
イブのミサは信者ではない人も多く、イベント的な要素が強いため、
ゆっくりお祈りできないから、というのがその理由だった。
クリスマスのミサは、確か9時ごろからだったような気がしたけれど、
(彼女は普段、もっと早い時間のミサに出ていたけれど、私の家が遠かったから、1つ後のミサにしてくれた)
ミーハー心が少しあった私は、少し後悔した。
とても厳かで、鳥肌が立ちそうな雰囲気だったから。
一緒に祝福を受けには行ったけど(信者じゃないからパンはいただけないけど)、それすら躊躇われるような。
クリスマスに対する意識の違いを肌で感じて、
商業主義に乗らされてしまっていることに、すごく恥ずかしさを感じた。
「ただのイベントでしょ」と言われれば、それまでなのかもしれないけど。
信者にとっては、やっぱり特別な日、大事な日。
なんだかそんな、聖なる日を穢してしまっているような…。
「クリスチャンじゃないからクリスマスは祝わない」
その言葉はただ単に、天の邪鬼な気持ちから出るだけじゃない、とつくづく感じた。
クリスマスは、お祭りとは違う。
聖書をしっかり読みこんで、キリスト教をきちんと理解した時に、もう一度出席したい。
それまでは、やっぱりクリスマスは365日の1日でしかない、と思ってる。